幼子は誰が責任を持って育てるのか

少し旧聞に属しますが、中国の地方都市でのとんでもない映像が世界中を駆け巡りました。車に轢かれ、もがき苦しんでいる子供の横を、何人もの通行人が見てみぬふりをして通り過ぎる映像です。

今、保育制度の行く末を考えたとき、どうしてもこの映像が私の頭に浮かんできてしまいます。

権利は不断の努力によって得られる、とは、丸山真男を引用するまでも無く、憲法に規定されたものですが、幼児はそうした権利の主張が出来ません。だからこそ、国家が責任をもって幼児を守っていかなければならないはずです。だからこそ、子どもの権利条約という国際法がある。保育制度の原点はここにあるはずです。

幼児は誰が責任をもって育てるのか。親です。当たり前です。それが困難であれば地域が育てる。近所のおばちゃんがちょっと預かってあげるわと言ってあげられる。昔あったような美しい話です。できればそんな昔の社会に戻したい。昔はお寺で子どもを預かっていたそうです。だから、現在の保育施設がお寺関係者によって運営されているのが多いのもそうした理由かもしれません。

しかし、社会情勢が必ずしもそれを許していない。例えばシングルマザーのお母さん。働かなければ食わしてやれない。あるいは既婚者でも給与がなかなか上がらない。共働きでなければ生活が維持できない。将来真っ当な教育を子どもたちに提供できない。だとすれば保育所にお世話をお願いせざるを得ない。

であるならば、自助・共助を基本に考えるべきであるけれど、保育の制度は国家がきちんと責任を持つべきは当然だと思います。具体的には所管する市町村に保育を提供する義務を課すことです。財政的に困難だからという理由で義務を放棄する政策は保育には馴染みません。財政を語るのであれば全体のバランスを今一度見直す必要があると考えます。

例えば、十分な資産も所得もあるのに年金を受給している人の隣の家で、外にあっては朝から晩まで働き、内にあっては家事に翻弄される人がいる国家は、まさに先ほどの中国の話と同じです。これでは将来心の豊かな子どもが育つはずも無く、また少子化に歯止めがかかるはずもありません。

自民政権下で実施された認定子ども園制度も然りですが、民主政権になってそれを遥かに加速する総合子ども園制度は、まさにおカネの切り口だけで議論しているとしか思えません。もちろん総合子ども園の趣旨は、働かなければならないのに子どもを預ける場所がない人に受け皿を作るという看板はあると思います。しかし、その手段はというと公費の効率的運用と称して、国や市町村の保育提供義務の放棄(直接契約)、安易な企業参入、誤った地方分権概念、幼稚園と保育園の混同、要件緩和による保育受益権の低下など、非常に不安になる規制緩和が盛り込まれています。

一度しっかりと勉強したいと思っていますが、直接契約になれば市町村は義務を果たす必要がなくなり保育園が入所拒否すれば子どもが路頭に迷う。保育料を滞納したら、市町村に保育提供義務がないので追い出される。競争原理を導入すればただでさえ低い給与体系がますます低下し、専門性が必要な保育士の質が低下し、運営をカバーするために保育料が上がる。すると見かけの待機児童は減るけど本当に保育を必要としている子どもは増える、など、まだまだ書きたいですが無限にありそうなので控えておきますが、問題は多岐にわたります。

待機児童を解消するのであれば、単純に保育所を都市部に増やしてはどうなのか。総合子ども園制度のように全体システムを変えてしまえば、待機児童の少ない香川などは単に予算が減らされるだけで何のメリットもない。都市部におカネが集中するだけの結果に終わってしまいます。

先月の国会の与野党協議の中で、民主党は、この総合子ども園創設を撤回・大幅修正することにしました。とはいえ、問題は残っているとのこと。

いずれにせよ妙な制度改正は阻止すべきであると思いますし、それ以前の根本問題を解決していかなければなりません。そもそも少子化少子化と言って子どもが減っているのに、しかも20万人弱の保育所定員増強をやっても、なぜ待機児童が減らないのか。ワークスタイルやライフスタイルの変化の問題もあるかもしれませんが、生活が苦しいからです。実質賃金を上げるべく、景気対策をしっかりとやらなければなりません。