自民党は野党としての本旨を果すべき

通常国会が始まるが、そのメインテーマである増税議論について、自民党は民主党による協議にはいまだ応じる構えを見せていない。なぜか。理屈は単純である。やると言っておきながら簡単にやめてしまい、やらないと言っておきながら簡単にやってしまうグループに与すれば、自らも変節扱いされ、筋が通らなくなり、自らの組織がおかしくなり、運営が困難となり、しいては政治全体の信頼が損なわれ、マニフェストの存在も更に軽んじることにもなる。

しかし、果たして本当にそうなのだろうか。

確かに玄人である政治家同志の間では既述の理屈はありうる。しかしこれでは、自民党が脱しなければならない政治家のための政治というイメージを脱することはできないのではないか。このままだと、一般から見れば、解散に追い込みたい、というだけの、非常に中身の無い闘争になるだけである。

なぜ09選挙は政権交代が起きたのか。本質は、まさにこうした「政治家の政治家による政治家のための政治」に国民が嫌気をさしたということに他ならない。自民党としては、国民に分かり難い政治であっても国のためになしてきではないかという自負もあるのかもしれない。しかし、国家のためという目標には一応向っていると当の自民党が思いながらも、平行した隣の線路にいつのまにか移ってしまい、あれそれでいいのか、それではいかんだろう、という国民の不安を掻き立ててしまったことは重要な問題である。

つまり、政権交代というのは何だったのか、と今問われれば、もっと分かりやすい政治をやらなければならない、という国民の痛烈な自民党批判であったという一言に尽きる。だから当時の民主党の言う「国民目線」「国民生活が第一」という当たり前すぎて話にもならないキャッチフレーズがキャッチフレーズとして機能したのだ。

冒頭提起した現在の自民党のやり方は、玄人的ではあるが、一般からみれば非建設的な、駄々っ子にしか映らない。そういう下らん論争はやめ、増税率はどういう根拠に基づいているのか、つまり年金をこういう制度にして、そのためにこのくらいおカネがかかるから何%の増税になっているんだ、という説明を求め、さらに、景気が悪いのに今でなければいけないのか、本当に増税は復興とは関係ないのか、などなど、中身の論争をしっかりして、(私は将来的な増税は必要だが今ではないと思っている)、相容れれるところはより良いものにする努力をし、全く相容れないものは理性的建設的批判する、こういう姿勢に自民党はならなければならない。