ここ最近、善然庵閑話シリーズ(政治的なブログ記事というよりは、少し政治から外れているか少し柔らかい内容の記事)ばかりで恐縮です。
先日、座右の銘(私は先憂後楽)についての原稿執筆のご依頼を頂き、準備のために、昔自分がどのような表現をしていたのかを改めて調べようとパソコンに向かったときのこと。
「大野敬太郎」「先憂後楽」とGOOGLEに入力して検索して、あぁ、と思わず声をだしてしまった。見つけた記事は、初めて臨む選挙の直前の新聞記事で、各立候補予定者のプロフィールを紹介するものでした。
そういえば選挙前の事。とある御仁のところにご挨拶に伺ったところ、滅茶苦茶ご立腹になっておられる。曰く、「貴様、偉そうに、座右の銘が先憂後楽とは何事だ」と。
先憂後楽で偉そうという意味が分からない。ご存じ、先憂後楽とは、「皆に先んじて天下を憂い、楽しみは皆の安楽を見届けるまで慎むべし」というような意味ですが、その時は、何が偉そうだったのかを真剣に悩み考え、結局なんとなくそうだったかもしれないなと反省しながらも、正確になぜだか分からない、という状態でした。
それが今日分かったのです。
その記事によると、「民に先んじて国を憂い、楽しみは民の安楽を見届けるまで慎む」とある。なるほど!「民」と言ってしまっては見下し感が満載。有権者がこの記事を読めば、この候補者は有権者を見下していると思うのは当然かもしれません。それでご立腹だったんだ!
その記事は、各候補者全員に対して比較的好意的な書き方なのですが、恐らく担当記者さんは、どこからか先憂後楽の意訳をひっぱってきたのでしょう。悪意は全くなかったのだと思います。
改めて、こういうところまで、気を付けないといけない世界なんだなと実感した日でした。