あるべき国家像を求めて(地方創生)

昔から、日本は歴史の曲がり角を迎えているという論が盛んですが、いよいよ本当にそれを実現していかなければならない年を迎えているのが今だと思っています。より具体的に言えば第二次安倍政権からの時代です。

確かに、あるべき論は昔からありました。これを演繹的視点と称します。つまり、何十年後の日本はこうあるべきであり、そこに向かって今対処すべきことはこうである、という論です。

一方で、今こんなことが問題なのでそれに対処するためにこんなことをやらなければならないんだという論があります。これは今までの政治も行政もそうだと思っています。これを帰納的視点と称します。

どちらもこれまであった。でも、今必要なのは、演繹と帰納の狭間を埋める具体的な政策を立案して実行していくことです。議論だけしていても、ゆでガエルになるだけの時代です。だから、批判があっても、議論を通じて理解を浸透する努力を徹底して行うべきは論を俟ちませんが、断行していかなければならない。

次の問題が、国家が見えている、放置するとゆでガエルになって存続すらままならない国家の状態に対して、国民の人権などの権利をどうバランスさせていくのかということだと思っています。

例えば、このままだとまずいので、地方の人は拠点都市を作ってそこに移住せよなる命令を出せるはずがない。国民は必ず結婚して子供は2人以上生まなければならないなどと言えるはずがない。でも、言えないと存続すら危ぶまれる。その狭間を埋めていかなければ、ならない時代に差し掛かっているのです。

そして更に政治としてはこの先も考えていかなければならない。以上の議論をすると必ず極論がでてくるわけですが、将来的に考えれば必ずオーバーシュートしてしまう。だからこそ、30年50年というスケール感で、オーバーシュートしないように、あるべき国家というのがどのようなものなのかを明確にしていかなければならない。そういうことを思っています。

そういう議論を通じて初めて、大胆な政策が可能になり、登りきる事すら困難に見えるような山も登りきることができるようになると思っています。そしてより大切なのは、こうした、何をやるのか、という問題や、それをどうやるのか、という問題よりも、それをどうやり続けるのか、という問題を政治としてしっかりと担保していかなければなりません。