【善然庵閑話】魔女狩りとJSミルの自由論

ふと、昔読んだ魔女狩りという確か岩波新書の本の事を思い出しました。その中に、セイラム魔女裁判の話が出てくるのですが、これはアーサー・ミラーの戯曲にもなっていて、それを題材にした映画にもなっています。ダニエル・デイ・ルイス主演のクルーシブルという映画です。

この映画の主要な登場人物は、村長で人望のある主人公のプロクターと、その家に奉公していた少女アビゲイル(ウィノナ・ライダー)。彼女がある日森の中で、友人達と意中の人に恋の魔法をかけるという他愛もない遊びを始めた。少し興奮しすぎたのが災いし、興奮で狂乱状態に陥った少女達をたまたま見かけた村人がいて、それをきっかけに、魔女が村にいるという噂が立ち始めた。それを良いことに、アビゲイルは神の代理人を名乗って気に入らない村人を魔女だと名指ししはじめ、村は魔女だらけになっていき、とうとう魔女裁判が始まる。

最後にはアビゲイルは村から逃げ出すのですが、プロクターも魔女と契約を交わしたのではないかと疑われ裁判にかけられる羽目に陥る。判事たちも薄々おかしいと気づき始め、プロクターを救うために、魔女と契約を交わしたことを認めれば命は救うと言う提案をしたものの、プロクターは結局、命よりもプライドを選択し、処刑されるという切ない映画です。

魔女だ、あるいは魔女と契約を交わした、と仮に村中から烙印を押されたら、どうやって無実を証明すればいいのか。仮に自分がその時代にプロクターであったら何ともしがたかったのではないかと思います。

政治は行き着くところ賛成するか反対するかという局面を迎えます。その決断は重要ですが、その決断をするにあたっての議論というプロセスも重要です。J.S.ミルは、その著書「自由論」の中で、政治的議論の中で最悪なのは、自身と反対の主張をする人を不道徳者と烙印を押すことだと言っています。アビゲイルには政治的主張は全くありませんが、やったことは烙印を押していき気に入らない者を抹殺していくことでした。

現代は法の上に成り立っている。魔女じゃないのに魔女だと主張されれば、なぜ魔女じゃないのかの理由を説明する努力が必要なのは論を俟ちませんが、聞いてもらえなければ始まらない。あるいは魔女かどうかを村人に真剣に精査してもらえなければ埒が明かない。手を挙げれば魔術だ、手を下げれば呪術だ、というのでは話が進まない。

本日、参議院平和安全特別委員会にて本国会最重要課題の平和安全法案が可決されました。委員長が議論は尽くされたと言っていました。国民の皆さんが尽くされたと思ったかどうかは分かりませんが、確かに国会内部にいて感じるのは、同じ質疑が永遠と続いていたことです。それはとりもなおさず、最初から烙印を押されているからであって、それでは審議は深まる筈はありません。

いずれにせよこれからもしっかりと真摯に丁寧に説明を続けて行きたいと思います。