先に中東の話を書いていてふと思い出したのが、19世紀後半からトルコで活躍した日本人、山田寅次郎のこと。今日はこのことを久しぶりに善然庵閑話シリーズ(単なるエッセー)として書いてみたいと思います。
先の記事にも書きましたが、歴史的にトルコは日本と親密な関係でありつづけました。19世紀頃から両国交流が史実としてでてきますが、その当時、ロシアの南下政策に恐怖を抱いたのは、日本もトルコも一緒だった。だから、日露戦争の結末を見てトルコ人は喜びを感じたという記事が残っています。最近映画にもなったエルトゥールル号事件(トルコから日本に来た船が難破したところ現場の日本人漁師が懸命に救助にあたった美談)も、そんな時期に起きた事件でしたが、この事件には後日談があります。冒頭触れた山田寅次郎なる、まだ当時20代半ばと思われる男が、エルトゥールル号事件を知りトルコに義援金を贈るために日本全国を行脚し、現在価値で1億円という莫大な義援金を集めてトルコに渡しに行くことになります(これも美談)。
山田寅次郎は、当時、陸羯南やら福地源一郎やら徳富蘇峰と親交があったと言いますから、そもそも新聞記者になりたかったのか、社会的にそういう地位にあったのか、あるいはそういうサークルにたまたま入ったから有名になったのか、あるいはトルコに彼らが訪れてきたから親交をもったのか、はわかりませんが、トルコに行ったあとはトルコを気に入って住み着いてしまいます。
現地では、国王はじめ、かのケマル・アタチュルクにも謁見して、両名に日本語も教えていると言いますから、恐らくトルコで初めて教えられた日本語は、群馬弁だったものと想像しています。現地で貿易事業で名を成し、日本とトルコもしくは周辺国の貿易を一手に預かっていたと言いますから、これはまさに日本版東インド会社です。さらに、山田は日露戦争をトルコ駐在中に見守っていますが、ロシア黒海艦隊が日本に向けて出撃しボスポラス海峡を通った時に最初に日本に知らせたのが山田寅次郎であったという史実が残っています。
一方で、第一次大戦でオスマン帝国は、前の記事でも書いたようにドイツに引っ張り込まれつつあり、国内の混乱を嫌気して、山田寅次郎は帰国。その後、トルコとの貿易事業を日本で興そうとしますが、残念ながら不発。しかしながら、トルコが外貨獲得手段として盛んに生産していたタバコを思い出し、その技術を輸入、日本政府に働きかけて国家の専売制としてもらって、自らはたばこの紙の生産納入で事業を成すことになります。
なぜ国がタバコを作ることになったのか、ということに、こんな歴史があったのだと思うと、それだけで歴史のロマンを感じますが、タバコを巡る昨今の情勢を山田寅次郎が見ていたらなんと考えたのか、想い耽るしかありません。受動喫煙防止法厚生労働省案は、吸わせないための法律になってしまっているように見えます。地方経済や既に分煙投資してしまった人たちの事を、もう少し議論する必要があると感じます。