【善然庵閑話】京極家と国の運営と(京極会報誌)

(写真出展:京極高和, Wikimedia)

地元丸亀市に丸亀城というお城があります。その世界では石垣の曲線美で有名だそうで、多くの歴女が訪れるのだとか。先の7月豪雨でその石垣が一部崩れ、文化遺産でもあるので、これから長い長い時間をかけて修復されることになります。しっかりと応援していきたいと思います。で、今日は、それで思い出したのが、そのお城の藩主であった京極家。この功績を称え敬称するための会が地元にあるのですが、その会報誌に何か書いてくれないかとのご依頼を受け(豪雨の遥か前)、駄文をお送りしたので、ここに改めて掲載することにしました。ご笑納いただければ幸甚です。

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古今東西、為政者にもいろいろいますが、強烈な信念と自己の抑制という一見矛盾することを同時に実現した者だけが、安定した政治を成し遂げるのかもしれません。郷土の政治家、歴代京極藩主はどうだったのか、歴史家から学んでみたいと思う事はしばしばあります。

何事もおごりは禁物。言葉で言うのは簡単ですが、本当の意味で、おごらず謙虚で真摯であることは意外と難しいものです。例えば、私も政治家の端くれ、政策について厳しいご指摘を頂くこともあります。そのような時、多少持ち合わせている信念から、ついつい反論することもある。信じて欲しい、これは間違っていないのだと。しかし、これが謙虚さの欠如なのだと後で気づき、自ら大いに反省することもしばしばあります。

考えてみれば単純で、相手に信じてもらうためには相手を信じないといけない。正しきを為さんとする我を信じ給え、という発想では、誰も信じない。なぜならば、そもそも自分は正しいのだという前提なのだから。であれば、それが正しいかどうかよりも、若泉敬ではありませんが、他策無かりしを信ぜむと欲す、という恒常的な自己反省の態度、つまり正しいと思うのだけどどうなのだろうか、という態度の方こそが、より重要になります。謙虚であるということは、結局は相手を信じるということになるのかもしれません。

権力が一旦確立すれば、特に危機の時には、自らの行いを正しいと信じて政策を断行する自信と信念が必要ですが、他から見ればリーダシップにも見えるし、傍若無人にも見える。お釈迦様が唯我独尊という言葉を現代に残していますが、この言葉自体も傍若無人と同じような意味に誤解されることが多いのと同じように、物事まっすぐ正面から見るのと、斜めから見るのでは、随分風景が違ってしまいます。

現代的民主国家において、このリーダシップと傍若無人の間を埋めないと、政策は断行できません。正しいのだから黙っとけ、では選挙は負ける。であれば、この、俺についてこい的、荻生徂徠的、つまり朱子学的な思想は現代では役に立たず、安岡正篤や吉田松陰のような陽明学のほうが役に立ちそうに見えます。(余談ですが、司馬遼太郎が三島由紀夫の死に際して指摘している様に、思想なるものは、どちらの方向に向かってもラディカルに先鋭化する力を内在しているので、本来虚構であることをよく知っておく必要はあると思います)。

その上で言えば、美学に溺れることなく、心の中の葛藤(正しいのに何で信じてくれないのだろう)をなくし、相手である国民を信じるという実践を通じて、もって国民の信頼を勝ち取ることなのだと思います。相手を信じずに信じてもらえることはあり得ません。であれば厳しいけれど真実を語る勇気と真心を持つことが一番大切なのであって、他策無かりしを信ぜむと欲する態度こそが大切なのだと思います。