命を懸ける。日本人にとっては誠に清清しさも感じさせる言葉です。「懸命な姿」などととも使われますが、いよいよ素敵な言葉です。そして野田総理も消費税増税に(政治)生命と賭すと言い切って法案成立にまっしぐらです。問題2つ。一つは政策の中身の話で、なぜ今消費税なのだという問題ですが、これは何度も指摘していますので、今回はもう一つの政治姿勢の問題、つまり、消費税というスケールの課題で、政治空白をこれ以上作ることは許されない、という点について触れたいと思います。
ところで本題に入る前に、過日、お世話になっている方にお誘いいただいて夕食をご一緒させていただいておりましたら、床の間に掛け軸。例によって、にょろにょろ文字なので何を書いているか分からなかったのですが、ご亭主に伺いましたところ、「茂松清泉山中不乏」と。
曰く、(食べるべき)茂った松(の実)や(飲むべき)清らかな泉(の水)は(私が隠居している)山の中には豊富にあります(から他には何もいりません)、という意味だとのこと。心の豊かさのあるべき姿を説いた落ち着く句だなと感嘆するばかりですが、私が興味をもったのは、そのお軸が荻生徂徠のものだとおっしゃったことです。
荻生徂徠と言えば江戸時代の儒教の御用学者で大思想家。将軍のご意見番を長く務めた方です。今で言えば、大学教授をやっていた首相補佐官のようなものでしょうか。つまり政治の中枢に長らくいた人物。パワーゲームとリアリズムに翻弄される毎日を過ごしていたに違いありませんが、そういう人物が、こうした清らかな句を読むというのは私には驚きでした。
そしてその荻生徂徠と言えば、命を懸けて家の面目を保った赤穂浪士に、切腹の裁きを、と主張した急先鋒でも有名で、”徂徠豆腐”という落語の噺にもなっています。当時、江戸市中では、かわいそうだから無罪放免にしてやれ、という声が多かった。それでも徂徠が主張を曲げなかったのはなぜか。それは、政治には情と法が必要であり、切腹は、浪士にとって武士としての最大の情けであろうし、あだ討ちがご法度であった当事としては、法に則った裁きでもあるし、吉良家としても面目が保てるから。
お蔭で市中での荻生徂徠の評判はがた落ちだったそうですが、もし逆の裁きをしていたら、公の秩序は崩れ、武士としての面目は失われ、両家に禍根を残すことになったはず。逆に言えば、大石内蔵助が討ち入り直後に直に浅野の墓前で切腹しなかったのは、勝手に切腹せず、公命による切腹を待つことにより、浪士の間に不満が多少でたとしても、赤穂の面子を保ちながら、吉良家の顔を立て、全て一件落着禍根を断つ結論を見ていたからではないか。
これが政治というものだと思います。
改めて、消費税。命を懸けるスケールの話ではないと思いますが(国家目標が消費税増税なんという国は聞いたことがありません)、懸けるのであれば、禍根を残して政治が今以上に前進しなくなるような状況はつくらないで頂きたいと思っています。そもそも現状の「討ち入り」は、消費税ではないのですから。