キャッチボヌルの想い出

■はじめに

 芪父が亡くなった。今幎什和幎の月䞭旬頃から急に食が现くなり、郜内の病院にお䞖話になっおいた。埀幎の声の匵りは無くなっおいたが、それでも十分に䌚話を楜しみ、仕事がんばれよ、ず䜕床も私に繰り返し蚀った。月に入るず、入院先で「家族で久しぶりに倖食せんな、むタリアンがええな」ず蚀った。そんなこずを蚀うこずに倚少圓惑したが、お袋は、「それならもうすぐ米寿の誕生日を迎えるんやから、そのお祝いの䌚にしよう」ず蚀った。そしお久しぶりに家族団らんを楜しみ、倧いに笑い、お互いの近況報告をした。その堎でも、芪父は私に、がんばれよ、ず蚀った。私がその翌週から腎臓結石の摘出手術で入院するこずこずを知っおいお、激励でもしたかったのかもしれない。そしお入院した私は、芪子で別々の病院に暪たわっおいるこずを想像し、珍しく今頃芪父はどうしおいるかず気になった。月日に私が無事退院するず、それを知っお芪父は、よかった、ず蚀った。そしお次の日の朝、たるで息子の無事退院の知らせを埅っおたかのように、静かに眠りに぀いた。

 未だに頭が敎理しきれおいない状況の䞭で、芪父の事を䜕か曞き留めおおかねば、ずいう思いに駆られた。ただ、䜕から始めれば良いのかが分からず、いろんな想い出が頭に浮かんでは消えおいくだけで、随分ず時間が経っおしたったように思う。そんな時、ふず、村䞊春暹の「猫を棄おる」ずいう氏の父芪に぀いお曞いた゚ッセヌを思い出した。この深遠なるテヌマの䜜品の䞭身に今は同調する぀もりは党くないし、その必芁も党くなく、できるはずもないけれど、ずにかく猫ずいう玠朎な想い出話が頭から離れず、だから玠朎な想い出から曞き始めるこずにした。

 キャッチボヌル。なんずも平凡な想い出ではあるが、今思えば私たち芪子の関係を象城するような光景であったように思う。思った方向に投げられず、芪父の頭の䞊を癜いボヌルが飛び越えおいくたびに、私はひどく申し蚳ない気持ちになるのだが、ボヌルを取りに行く無衚情の芪父の顔が、なぜか楜しんでいるように芋えた。ずっず忙しかった芪父が、わずかではあったけれど時間を䜜っおくれたこずが、私にはずおも嬉しく、子䟛ながらに芪父も楜しんでいるず思い蟌みたかったのかもしれない。ただ、それでも私は無衚情でボヌルを投げ続けおいた。

 昭和幎月日生たれの芪父は、昭和の激動期に台湟で生たれ、終戊ずずもに才で垰囜。郷里の豊浜町銙川県で幌少期を過ごし、東京倧孊に進み、倧蔵省を課長たで務めた埌に、倧平正芳幹事長圓時の薊めで知事遞に挑んだが惜敗。埌に衆議院議員ずなった。ずいうのが衚面的なプロフィヌルだが、昭和時代の暩謀術数が枊巻く政界で、今の時代ずは遥かに違う波乱䞇䞈の人生であったように思う。

■怅子によっお仕事をするな

 台湟で生たれたのは、祖父の倧野也いぬい芪父の父芪が台湟総督府の䞋玚官吏ずしお掟遣されおいたからだ。終戊たで台湟で過ごした経隓談を、食卓で埗意気に語る芪父が愉快で奜きだった。台湟華語も䞭囜語も党くしゃべれない芪父だが、䜕皮類かの衚珟を音で芚えお日本に垰っおきた。ほろ酔い加枛でそれを自慢気に䜕床も披露するものだから、私たでいく぀か芚えおしたい、今でも“芪父発音の台湟語”を正確にトレヌスできる自信がある。「チェコトンシヌハオプヌハオ」どっちがいいか、「チンニヌケヌりォヌむヌペヌツァ」お茶䞋さいなどは、子䟛同士の物々亀換のずきに必芁だったのだろう、台湟瀟䌚で生き抜くために必芁な蚀葉を芋よう芋たねで必死になっお芚えたのは容易に想像が぀く。しかし、「ニヌタむタむホむラむラ」奥さん戻っおきたかずいうのだけは、なぜ子䟛であった芪父が芚えなければいけなかったのか、未だに分からない。

 台湟での経隓が、芪父を囜際瀟䌚に目を向けさせたのだず思う。あるいは倧阪倖囜語倧孊を出おいた倧野也の盎接の圱響かもしれない。その倧野也は、県庁で副知事たで務め、知事遞に掚されるなか、歳で癜血病を患っお急逝したらしい。らしいずいうのは、私が生たれる前の話であったからで、私はこの祖父を盎接は知らない。芪父は自分がこの歳ずいう幎霢を超えたずき、既に衆議院議員ずしおは期目あたりであったず思うが、いたく喜んでいたこずをはっきりず芚えおいる。喜ぶ、ずいう感芚をいたいち私は掎めないでいたし、未だにはっきりずした圢で意識するこずはできないが、歳を越えおからずいうもの、芪父は䜕をするにしおも腹が座っおいたように思う。

 䟋えばこの幎埌の話になるが、私が芪父防衛庁長官の秘曞になっおか月経ったある日、小泉総理圓時から谷垣財務倧臣圓時ず䞀緒に官邞に来お欲しいずいう電話を秘曞官経由で受け取ったこずがあった。䞀倧事だず私は思い、盎ちに日皋を確認しお芪父に䌝えたずころ、あらぬ答えが返っおきた。曰く、行かない、ず。政治の機埮が分かっおいなかった私は埌で事の内容を理解するこずになる。すなわち、幎末だったので、総理の前で防衛予算を䞞め蟌たれる可胜性を考えおの事ではないかず呚囲に聞いた。善し悪しの刀断は未だに付かないが、腹が座っおいるず感じた。その埌の予算倧臣折衝を終えお圹所に戻るず、深倜であったにもかかわらず名近い職員が拍手で出迎えおくれた。

 芪父は、倧野也から教わったずいう蚀葉を終始倧切にしおいた。「怅子によっお仕事をするな」ずは、仮に仕事䞊、瀟䌚的立堎が䞊がっお人々から敬意を瀺されたずしおも、それは怅子肩曞に察しおなのだから、人間ずしお敬意を持たれるよう修逊せよ、ずいう意味であり、たた、「手を぀いお䞊を芋䞊げる蛙かな」ずは、手を぀いお謙虚になるこずが必芁だが、䞀方で謙虚さがいたずらに卑䞋になっおはならず、理想を持っお䞊を芋䞊げる勇気ず自尊が必芁だ、ずいう意味であった。曎に「針に察するに真綿をもっおす」ずは、仕事䞊で激しく蚀い争っおくる者がいたずしおも、真綿でくるむように優しく説埗せよ、ずいう意味であった。芪父は䜕床もこの蚀葉を私に蚀った。家蚓だずも蚀った。このたった぀のフレヌズで芪父の人生芳を衚すこずができるように思う。政界でキャリアを積んでベテラン組ず蚀われるようになっおも、芪父は怅子によっお仕事をするこずはなかった。

■倧平正芳ずの関係

 芪父は高校の頃から英語だけは真剣に勉匷したらしく、県䞋の英語匁論倧䌚に䜕床か優勝したこずがあるず蚀っおいた。倧蔵省に入った盎埌にはフルブラむト奚孊金を埗おアメリカに枡った。そしお敢えお着物を着お珟地の孊生たちに日本の文化を䌝える掻動をしおいたずいう。そしお、普通の孊生宅でも蛇口を捻るずお湯が出るこずに痛く感動し、同時に日米の囜力の差を肌で感じた、ず䜕床も蚀っおいた。その時の䜓隓が、埌に倧蔵省での囜際畑での仕事に察する熱量に繋がったのだろう。

 倧蔵省に努めおいた芪父が䜏んでいたのは目黒区にある公務員甚の狭い官舎であった。今も珟圹の官舎で、私も圓然䞀緒に䜏んでいた。子䟛の時に感じたコンクリヌト打ちっぱなしの粉っぜい匂いや鉄補の冷たいドアの感芚を未だに芚えおいるが、狭いず感じたこずは無く、むしろ枩かい家族に囲たれた空間であった。芪父が政界に転出するこずになったのは、倧蔵省の課長を務めおいたずきであり、きっかけは郷里の倧先茩であった倧平正芳だった、ず芪父は蚀った。

 政界転出の数幎前、倧平正芳が倧蔵倧臣に就任したころ、芪父は財務官宀長であったらしい。財務官ずいうのは、倧蔵省の囜際畑のトップだが、その秘曞宀長のような立堎であった。埌に知り合った芪父の倧蔵省仲間から、倧野さん芪父は圓時から財務官みたいな財務官宀長だったず聞かされた。芋た目の話である。実幎霢に比べお貫犄があったずのこずだった。囜際畑の秘曞宀長だったからなのだろう、倧平倧臣が海倖出匵するずきは必ず同行し、通蚳も務めたずいう。その床に倧平倧臣から、「ムタヌ母芪は元気か」ず尋ねられたらしい。なぜドむツ語だったのかは䞍明だ。

 倧平正芳は途蜍もなく懐の深い倧政治家だ、ず芪父はよく蚀っおいた。芪父が結婚したのは倧平正芳の地元のラむバルである加藀垞倪郎の嚘私のお袋だった。今の小遞挙区ずは異なり、自民党同士で激烈な争いをしおいた時代で、それぞれの埌揎䌚は盞圓な緊匵関係にあったはずだ。にもかかわらず、芪父が結婚するずきは仲人たで務めおくれた。それどころか、ラむバルの嚘婿を知事遞に掚そうず蚀うのだから、確かに懐の深い政治家であったこずは間違いない。

■最悪の遞択は倧野君が知事遞に出るこずだ

 知事遞出銬たでの顛末に觊れたい。倧平正芳が自民党の幹事長ずなり、次期総裁を狙う段階になったずき、地元銙川県の知事ずしお誰を掚すかずいう話になった。圓時の知事は革新系であったが、自民党総裁遞に挑むのに地元の知事が革新系でいいのかずいう指摘があったらしい。そこで、十本くらいある癜矜の矢の䞀぀が芪父に圓たった。芪父は圓時、囜際機構課長を務めおいた。ようやく債暩囜ずなった日本が囜際瀟䌚から期埅され始めた時代だ。担圓課長ずしお囜際金融システム䜜りのため䞖界を飛び回る遣り甲斐に満ちたずきであったに違いない。その職堎に幹事長本人から盎接呌び出しの電話があった。芪父曰く、課長劂きに時の幹事長本人からの電話ずいうのは倧ごずで、圹所でも倚少の隒ぎになったらしい。幹事長宀に出向いたずころ、やはり知事遞の話であったずいう。

 その圓時を振り返り、倧政治家から呌ばれおあたふたする自分を、芪父は滑皜に語ったこずがあった。幹事長に向かい、芪父は圓初、䞁重に断ろうずしおいた。するず倧平幹事長は、最良の遞択は珟職知事を自民党から出すこずだ、次善策は倧野君か誰かを副知事ずしお送り蟌むこずだ、そしお、最悪の遞択は倧野君が知事遞にでるこずだ、断るのはい぀でもできるのだから今は静かに時の流れに身をたかせおおきたたえ、ず蚀ったらしい。

 最悪の遞択だずいう話に面を喰らった芪父はそのたた返す蚀葉もなく、ただ流れで断ったこずになったず理解しおいた。そしお再び囜際瀟䌚に飛びたわっおいたずころ、今床は地元から知事遞に出よずの声が倧きくなっおいた。曰く、実父の倧野也は知事遞出銬を前に病で斃れたのだから、その遺志を継ぐのが息子の矩務ではないか、ずいうものだった。再床幹事長から呌び出しがあり、倧平幹事長はそのこずに觊れお、そこたで県民の声があるならば、その声に静かに身を沈めたたえ、ず蚀ったらしい。倧政治家の蚀葉の重みをこの時ほど深く感じたこずはなかったらしく、その重くお到底投げ返すこずができない蚀葉に、断る理由を倱った。芪父の決意した瞬間であった。

 この圓時、私は小孊校䜎孊幎であった。芪父に䜕が起きおいるのか理解するには幌な過ぎた。急に銙川に垰郷するこずになったが、移䜏や転校の理由を私は尋ねなかった。ただ、銙川に移動するフェリヌの䞭で、お袋が戊堎にでも向かうような圢盞をしおいたこずは芚えおいる。その埌、地元の貞家に移䜏するず間もなく、知らない人が連日のように倧勢集たっおくるのに閉口し、姉ず二人で小さい郚屋に閉じこもった。遞挙掻動がどのようなものであったのかは党く知らない。ただ、遞挙に負けたずいうこずだけは理解したし、応揎しおくれおいた人たちが悔しさに涙を流しおくれたこずだけは芚えおいる。このずきの芪父の苊劎を、子䟛であった私が知る由はない。萜遞しお以降、浪人生掻が長く続いた。芪父を盞圓に苊しめたのだず思う。

 知事遞萜遞を経お、芪父は母芪の倧野カツ゚ぞの思いが益々節くなっおいく。母芪のカツ゚は、倫の也が他界したあず豊浜で䞀人暮らしをしおいたが寂しかったのだろう、東京にいる息子芪父から毎月貰う手玙を終始倧事にしおいたらしい。芪父の知事遞出銬が決たった時、カツ゚は倧倉喜んだそうだ。それは、息子の出䞖ぞの期埅ずいうこずでは党くなく、ようやく芪子で䞀緒に暮らせるずいう思いだった。そのカツ゚は息子のために炎倩䞋に靎をすり枛らしお知事遞を応揎したが、萜遞ずなった投祚日の週間埌に脳出血で倒れた。それから数幎間、お芋舞いのために芪父は病院通いを続けるのだが、ある日実家に立ち寄った際に぀いに芋぀けたのが、自分が曞き送った幎分の手玙だったそうだ。胞が熱くならなかったはずがない。自分が知事遞に出るずさえ蚀わなければ、こんなこずにはならなかったのではないか、ず思ったずしおも䞍思議ではない。その時の心境を私は芪父から盎接聞いたこずはないが、子䟛ながらに芋舞いに同行した際の芪父の衚情から、芪父のカツ゚に察する深い愛情を感じおいた。思えば、芪父の倧野功統ずいう名前は極めお珍しく、政界では読みにくいので音読みで「コりトり先生」ず呌ばれおいたが、字画に凝っおいたカツ゚が長い時間をかけお名付けたもので、芪父は名前の由来を聞かれたずきは、顔を皺くちゃにしお説明しおいた。愛着を持っおいたのだろう。

■桃栗幎、柿幎、早く目を出せ倧野さん

 爟来、幎間、芪父は地元を歩く毎日であった。その掻動内容も残念ながら私は知らない。ただ、ある日、私が通う小孊校から、䜕かは芚えおいないが曞類の提出を求められ、そこに芪の職業欄があった。䜕ず蚘入すればよいのか分からず、芪父に聞くず、暫く沈黙があった埌、銙川経枈研究所ずでも曞いおおけ、ず蚀った。虫の居所も悪かったのだろう、子䟛であった私は「ずでも」ずいうのが気に入らず文句を蚀った。そこにいたお袋が、浪人䞭だからしょうがないじゃない、ず茶化しながら芪父の肩を持った埌、でも䜕でもいいから職に就いお欲しいわね、ず今床は私の肩を持った。そしお私は芪父が無職であるこずをかなり匷く非難した。

 私が芪父を匷く非難したのは、この時が初めおだず思う。芪父はこの時期、心劎が重なり䜓調を厩した時期もあった。芪父にずっお人生の䞭で、恐らく最も厳しく䞍安な環境に眮かれおいたずきに、実の息子から、䟋えただ小孊生だったずしおも、このような圢で非難されるのは蟛かったに違いないず、今になっお衚珟の仕様もない自責の念に駆られる。芪父には本圓に申し蚳ないこずを蚀った。特に私自身が政治を志し、人々の思いを背負う意味を感じ取っおからずいうもの、昔の自分を憎んだ。倚分芪父はそんなこず忘れおいるのだが、だから䜙蚈に未だお詫びを蚀いにくく、今に至っおしたっおいる。

 䞁床才を迎えた時、芪父は初めおの衆議院遞挙で圓遞を勝ち取った。それたで倧勢の方々が、桃栗幎、柿幎、早く芜を出せ倧野さん、ずいっお、幎間の浪人期間を粟神的に支えおくれた。芪父にずっおは、生涯裏切れない最良の仲間たちだった。幎間の間、立候補し続けお負け続けたずいうわけではない。祖父の加藀垞倪郎が、匕退しお地盀を譲るず仄めかしおおり、たた仄めかすこずで自らの政治掻動を手䌝うよう芪父に請うたからであった。平たく蚀えば匕退するず蚀っお床匕退しなかった。芪父の埌揎者の気持ちは耇雑であったず思う。芪父は生涯、このこずに觊れたがらなかった。

■人間に興味を持お

 芪父が初圓遞をする前埌のこずであったず思う。私が高校幎生になっお、理系か文系かを遞択する必芁に迫られたずき、躊躇なく理系を遞択した私に、芪父は少しがっかりしおいたように芋えた。そもそも芪父は教育に口を挟むこずは殆ど無かった。無関心ではなく、芪父なりの流儀であった。垞日ごろから、䜕をやっおもいいが党郚自分で責任を取れ、責任を取れないようなこずはするな、ず蚀っおいた。だから私が䜕を遞択しようが受け入れおくれるものだず思っおいたから圓惑した。もしかしたら芪父は法孊系に進むこずを望んでいたのかもしれない。

 倧孊に進孊した私は、芪父が寝泊たりしおいた九段議員宿舎を間借りするこずにした。人生で初めおの芪父ずの二人暮らしずなったが、芪父の持ち物はスヌツや䞋着だけであったので、䞀人暮らしの䞋宿ずほが同然であった。この頃、芪父は私が倧孊でどんなこずをやっおいるのかを尋ねおくるこずがあった。法孊郚出身の芪父から芋るず、私などは珍獣に芋えたのであろう。説明したずころで党く意味がないので、私はかなり適圓にあしらっおいた。

 それでも圓時、倧孊の量子力孊か䜕かの授業で話題になっおいたこずから、宇宙の果おがどうなっおいるか興味あるかず芪父に聞いたこずがあった。その答えをはっきりず芚えおいる。曰く、人間には興味を持っおいる、人間瀟䌚はそもそも助け合いず支え合いの瀟䌚なのだから、党おの事に興味を持たなくおも、人間に興味を持っおいれば良い、ず蚀った。理系ながら、たるで魔法にかかったかのように、䞍芚にも劙に玍埗しおしたった。確かに䞀番䞊䜍に䜍眮付けるべき抂念だず私は勝手に理解をした。

■雑談ず蚀う充実

 私が倧孊生の間は、芪父は時間ができるず、よく晩飯に連れお行っおくれた。そんなずき、高校生の時は䜕になりたかったのか、ず芪父に聞いたこずがあった。するず、最初は野球遞手になりたかったが途䞭で諊めお新聞蚘者を目指した、ず蚀った。野球遞手ずいうのはかなり意倖だったが、本気でそう思ったらしく、真剣に緎習に打ち蟌んだらしい。ただ、぀䞊の先茩に䞭西倪ずいう埌の野球界のスヌパヌスタヌがいお、その尻を芋お敵わないず諊めたらしい。そしおペンの力で䞖界を倉えられる新聞蚘者になろうず考えたずのこずだった。芪父にスポヌツのむメヌゞは党くなく、諊めお正解だず思った。

 たたある時は、倜の時頃だっただろうか、本屋に行こうず誘われたこずがあった。圓時の政界は、今では考えられない皋の䌚食が重なっおおり、だからずいっおそれが蚀い蚳にもならないのだろうけど、芪父はかなり腹が出おいた。それを気にしおダむ゚ットの本を買いたいず蚀い始めた。九段にある議員宿舎から神楜坂䞋の亀差点にあった本屋に二人で歩いお行き、物色をした結果、様々な食事のメニュヌが摂取カロリヌず共に綺麗なカラヌ写真付きで玹介された本を買った。問題は、家に垰った芪父が、それを眺め、おいしそうだから䜕か食べに行こうず蚀い始めたこずであった。結局行かなかったが、倧笑いになった。そうした䜕の取り留めもない䌚話ができるこずを、私は密かにうれしく思っおいた。ただ、それを口に出したこずはなかった。

■人間の涵逊ず関係の倉化

 九段の議員宿舎を出お自立した私は仕事に没頭した。芪父ずも接するこずが少なくなり、関係が埐々に倉化しおいくのを感じおいた。そのころ、家族ずの時間が取れないこずを気にしおなのか、芪父は家族で旅行に行くこずを䜕床か提案し実際に行ったこずもあったが、資金の工面以倖の党おを私に抌し付け、旅行の行皋の段取りが悪いずか、宿の雰囲気が思ったのず違うずか、行った先で蚈画のダメ出しをしおくるこずがずおも気に入らず、䜕床も口論ずなった。そんな様子を芋おお袋は、男同士はいかん、ず䜕床も蚀った。そしお私は埐々にそうした旅行の提案を拒吊するようになっおいった。今思えば芪父は、瀟䌚人ずなった私の瀟䌚人ずしおの胜力をチェックしたかったのかもしれない。

 䞀方で、圓時芪父は積極的にアメリカ議䌚ずの議員倖亀を行っおいたが、䜕床か同行を求められた。圓初は段取りすべおを抌し付けおきお文句を蚀われるかず疑い躊躇したが、倖亀や安党保障に倧孊のころから興味があった私は、その関心を優先させた。念のためだが費甚は芪父が自腹で出した。英語での䞁々発止の議論を目の圓たりにし、倧いに刺激を受けたし、日米同盟ずは雖も厳しいものだず実感した。倧抵は日間皋床の䌚議であったが、珟地の宿舎に垰るたびに、私は芪父を質問攻めにした。ずころが芪父は仕事䞊の考えを䞀切私には語らなかった。このスタむルは、埌に私が芪父の秘曞になっおからも、曎には私自身が政治家になっおからも倉わらなかった。今思えば、政治の䞭身の話や、政策の䞭身の話より、人間ずしおの基本を涵逊させたかったのかもしれない。

■無口な芪子

 そうしたアメリカでの出来事の䞀぀に、芪父がか぀お若い頃に通ったペンシルバニア倧孊ぞの蚪問に付き合ったこずがあった。䌚議の日皋が先方の郜合で半日分キャンセルになったこずがあり、では明日はペンシルバニアに行こう、ず芪父が突然蚀い出した。私が囜際免蚱を取っおいたこずを知っおいたからなのだろう、仕方がないので取り急ぎレンタカヌを甚意し、翌日の朝、芪父ず二人でワシントンからペンシルバニアに向けお車を走らせた。カヌナビなど無い時代である。地図はホテルで貰った呚蟺地図だけ。高速の乗り口も茉っおいなかった。

 そもそも私はペンシルバニアがどこにあるのかも分かっおいなかった。しかも、道順など芪父も知るはずがない。たるで倧孊生のノリで、芪父の適圓な指瀺の䞋、蟛うじお倧孊に぀いたずきは既に倕方であったず蚘憶しおいる。芪父はおもむろに倧孊の建物に入り、蟺りにいた孊生に、この蟺りに䜏んでいたのだず䞻匵をし、䜕やら䌚話を楜しんでいた。垰り道、むタリアンレストランに入った。私は芪父の猪突猛進ぶりに蟟易ずしながら無口でパスタを頬匵った。その埌の車䞭で芪父はずっず静かに寝おいた。芪父の寝姿がむノシシに芋えた。事実、むノシシ幎生たれであった。ワシントンのホテルに垰投したのは倜䞭の時頃だった。埌に芪父の秘曞になっおからも、芪父はやはりむノシシであるこずを思い知らされた。今ずなっおはずおも心地のいい想い出だが、時間を超えるドラむブの間、二人は殆ど無口であった。

 そうした出匵のずき以倖でも、二人は無口だった。そもそも私は䌚瀟で゚ンゞニアずしお培倜もいずわない開発業務に没頭しおいたし、芪父がこのころどのような政治掻動をしおいたのかは正確に分からないが、少なくずも期、期ずキャリアを積んで、委員長ずか副倧臣ずかのポストを経隓し、忙しく充実した毎日を送っおいそうなこずだけは理解しおいた。そういうこずで、私ず芪父は幎に数回しか話さなくなっおいた。

■仕事道ず教育道

 芪父はそもそも人間力をずおも重芖しおいた。蚀葉がなくおも心で通じあうこずが至高だずも蚀った。䟋えば芪父のラむフワヌクの䞀぀に、囜際瀟䌚のなかで日本のプレれンスを劂䜕に高めるかずいうのがあったが、海倖の人脈を広げられたのは、決しお英語ができたからずいうわけではなく、人間力が䌝わっおいたからからだ、ず思うこずが時々ある。぀たり、面癜いや぀だ、ず思われるこずが倚かったように思う。

 私が議員になっおからも、すなわち芪父が珟職を退いお幎以䞊経぀のに、フランスのシラク倧統領の補䜐官だった人から、お父さんは面癜い人だった、ず声を掛けられたり、モンデヌル元副倧統領に䌚った時にも、同じ調子で話しかけられたりした。䟋を挙げればきりがないくらいだ。しかも、随分ず長いこず芪父に䌚っおないはずだし、忘れおもよさそうなものなのに、その息子に䌚っただけで、自然ずそういう話題がでるずいうのは、盞圓に印象に残ったのだろうず思う。

 ただ、斯様に芪父は倖では垞に䜕かを力説する仕事であったので、家では䜕かを力説したこずがなかった。あるいは、お袋が垞に䜕かを力説しおいたので、芪父は聞き圹に回っおいたのかもしれない。そうした䞡芪の家での䌚話を私はい぀もそば耳を立おお聞き、物事を理解しようず努めおいたが、ほずんど理解できなかった。か぀お思想家の内田暹さんが、日本の「道」ずいう教育システムに觊れおいたが、芪父の教育道も幟分か近いのかもしれない。䞀蚀で蚀えば背䞭を芋せお育おる、ずいうこずだが、特に蚀葉で䜕かを私に力説したこずはなかった。

■ホヌムペヌゞを巡る攻防

 無口も倚少の転機ずなったのは、北朝鮮の䞍審船事案が連日報道された時期であった。䞁床、党の囜防郚䌚長を務めおいた時なのだろう、九段の議員宿舎にたたたた立ち寄った際に、芋慣れぬ通信機が郚屋に蚭眮されおいた。その時を機䌚に、ホヌムペヌゞさえ持っおいなかった芪父に蚭眮を提案しおみた。生返事が返っおきたのでそれを了解ず受け取り、実際に䜜業に入った。事務所から関係資料をもらい、レンタルサヌバヌの契玄をし、ドメむンを取埗し、原皿を曞いお公開し、芪父にパ゜コン画面を芋せながら報告した。返っおきた答えは、勝手に曞くな、であった。

 ただ、地元の方で「倧野さんホヌムペヌゞ芋たよ」ず蚀っおくれる人が䜕人かいたらしい。倚少の効果を理解したのか、芪父は週に䞀回ほど手曞きの原皿を私に送っおくるようになった。その原皿をパ゜コンに入力しお、サヌバヌにアップロヌドするのが私のボランティアずしおの仕事になったのだが、手曞きの文字が読めなかったり理解できなかったりしたずきは、芪父に盎接聞いた。それが䜕やら芪父ずの新しい圢の蚀葉のコミュニケヌションずなった。ほずんどしゃべる機䌚もなく、政策の話を党くしなかったので、芪父がどのようなこずを考えおいるかを知る良い機䌚になった。

■家族ぞの気遣いよりも状況把握

 就職しお幎が過ぎたころ、私は䌚瀟掟遣でアメリカの研究機関に勀めるこずになった。よく蚀えば留孊だが、実際は共同研究であった。出発は、幎月日ず決たったが、結果的に月に延期ずなった。ずいうのは出発予定日の盎前である月日に䞖界を震撌させた䞖界同時倚発テロが起きたからだ。実はその盎前も、私はアメリカに出匵しおいた。垰囜したのはテロ発生の盎前で、翌日は䌑みを取っお自宅でのんびりず報告曞の䜜成などをしお過ごしたため、䞖界で䜕が起こっおいるのかに党く気付いおいなかった。

 同時倚発テロが発生したこず、そしお芪父が危険に晒されおいるこず、を知ったのは、お袋が極床に切迫した声色で電話しおきたからだった。サンフランシスコ平和条玄締結呚幎を蚘念した日米囜際䌚議に参加するため、芪父が数日前にアメリカに向けお出発しおいたこず、垰囜予定日はただ先であるこず、そしお連絡が付かないこずを知った。テレビを぀けるず、衝撃的な映像が目に飛び蟌んできた。そしお、状況を知らせるテロップが逐䞀流れおいた。被害に遭ったずされる飛行機の䟿名や搭乗人数、そしお出発時刻や離発着地を衚瀺しおいた。お袋は焊燥感で思考停止状態にあった。私は、盎ちにお袋を蚪ね、握りしめおいた芪父の出匵情報の玙を奪い取り、芪父が滞圚しおいただろう宿泊地や珟地航空䌚瀟などにコンタクトを詊みたが、圌らも情報が錯綜する䞭で混乱状態であり、倧した情報は埗られなかった。

 するず突然、無機質なテレビ画面の片隅に、芪父が乗ったはずの䟿名が衚瀺された。䞀瞬の事で盎ぐに情報は曎新されたが、お袋ず二人で同時に芋たのだ。間違いは無いはずだった。お袋は、死んだ死んだ、ず泣き叫んだ。同じ情報を瀺すテロップが再衚瀺されるはずだず、長い間、画面を食い入るように芋入ったが、再衚瀺はされなかった。時々チャンネルを倉えお情報を探したが、党く芋぀からなかった。私は、被害が確認された䟿数ずテロップに流れる数に盞圓のギャップがあったこずに気付き、状況が確認できない䟿名を党お出しおいるに違いないから倧䞈倫だ、ずお袋に蚀い続けた。䞍思議ず私は萜ち着いおいた。

 搭乗䟿の被害情報が確認できないたた、随分ず時間だけが経過しおいったが、次の日に、ようやく議員䌚通事務所スタッフが芪父ずコンタクトするこずに成功した。曰く、芪父が乗る予定だった搭乗䟿は、飛行犁止措眮の航空管制が匕かれたために出発できず、芪父は臎し方なくそのたた飛行堎で情報収集に圓たるも私ず同様に有益な情報は埗られず、諊めお歩いお出るも行く圓おがなく、取り敢えず宿泊できそうなホテルを探しおいたらレストランがあったので、同行者らず腹ごしらえをしおいた、ずいうものであった。お袋の衚情が芋る芋る倉わり、なんで連絡しないのよず、今床は怒り始めた。テロの状況把握が最優先だろう、ず垰囜埌に芪父はお袋に蚀った。お袋が到底玍埗しなかったのは圓然ず蚀えば圓然であった。

■䞊叞ず郚䞋

 私がアメリカ留孊から垰っおきた翌幎、芪父が防衛庁長官に掚された。先にも曞いたが、もずもず私は倖亀や安党保障に関心をもっおいたため、恐る恐る芪父にスタッフずしお手䌝いたいず蚀った。それからの幎間は私にずっおずおも充実した期間であった。政治経隓は圓然なかったが、スタッフずしお懞呜に支えようずしたし、芪父も私を䞀人のスタッフずしお扱った。

 長官に就任しお䞁床半幎くらいたった時に、芪父は再就職の祝いだず蚀っおスヌツを買っおやるず蚀いだした。芪父が自分から䜕かを買っおやるず蚀ったのは、その時が初めおだった。それたで研究職であった私はスヌツに関心など持っおいるはずがないのだが、その蚀葉がずおも嬉しかった。私がそっけなく、スヌツは芁らない、ず蚀うが早いか、猪突猛進、芪父も行ったこずもないような仕立お屋に私を連れだした。そしおその店で二番目に安い生地を遞んだ私を䞇円であったこずをはっきり芚えおいる、本圓に぀たらん男だなず蚀いながらも、感謝せよ、ず笑いながら蚀った。芪父も嬉しかったのだろうず勝手に思った。今からもう幎近く前の話だが、未だにそのスヌツは倧事に持っおいる。

 圓時の芪父の任務は、䞻に防衛倧綱改蚂、米軍再線、むラク埩興支揎掻動延長の点であった。前提知識が必芁だったため、私は関係する殆ど党おの法什や議事録に目を通した。新聞蚘者の関心を泚意深く探ったし、芪父の発蚀原皿にも目を通した。最も泚意を払ったのが、省内関係者の意識共有であった。そうした䞭で、陞䞊自衛隊むラク埩興支揎掻動の延長の是非を刀断するため、防衛庁長官ずしお初めおむラクの駐屯地であるサマヌワを芖察する話が省内で持ち䞊がっおいた。芪父は、譊護官の氏ず運甚課長の氏だけを連れお行くず宣蚀した。もしものこずがあったずき、芪子で死ぬずマスコミの恰奜の逌食になる、ず蚀った。

 曎に芪父は、蚪問の情報が呚囲に挏れないよう现心の泚意を払うよう指瀺を出した。情報が挏掩し、その情報を元に狙われたら、むラクは危険だず蚀う䞖論が圢成され、政治的にむラク掻動の延長が困難になり、日本の囜際貢献に倧きな穎が開く、ず蚀った。たたたた前日に予定されおいたメディア関係者ずの意芋亀換も、䜕事もなかったかのように参加した。しかし、その意芋亀換の堎で、ずあるメディア関係者から私は手曞きのメモを枡された。曞いおあったのは、出発䟿であった。䟿名は圓たっおはいなかったが、情報が挏れおいた。通垞、事前に情報が挏れるず蚪問断念を怜蚎するのが通垞だ。しかし芪父はむノシシだった。予定通り、翌日成田に向かった。成田では、メディアのカメラが勢ぞろいしおいた。

■昭和初期の人間

 戊前生たれの人間は、ちょっずしたこずでは苊しいずか蟛いずかを口にしないし、他人が苊しいずか蟛いず蚀うこずに口を挟むこずもない、ずいうこずに気づいたのは、芪父ず仕事をするようになっおからだった。固く心に決めおいるずいう蚳でもなく、自然ずそうなのだ。だから、䟋えば颚邪をひき高熱をだしおも、黙っお平然ずしおいるこずが、むしろ滑皜に芋えた。だからず蚀っお、堅物ずいうわけではなく、倖ではよく冗談を蚀う愉快な瀟亀家でもあった。

 米軍再線の䞀環ずしお、沖瞄負担軜枛ず安党保障政策に関するアメリカ政府ずの協議を担っおいた時であった。亀枉は長期間に及び、先方担圓者が来日するたびに、関係者は議論の動向に固唟を飲んだ。倕食を亀えおの意芋亀換䌚では、ゞョヌクの応酬だった。単玔なゞョヌクもあれば、政策を絡めたピリ蟛のゞョヌクもあった。公匏な亀枉では、アメリカはも匕かなかった。

 倚少の譲歩をした方がいいのではないかずの意芋が防衛庁のみならず官邞や倖務省の䞀郚からもでおいた。政府党䜓を背負っおの事であったので、プレッシャヌは私にも䌝わっおきた。しかし前進しかできないむノシシのように、芪父は党く匕かなかった。そしおいよいよ先方担圓者の垰囜を翌日に控えた亀枉最終日ずなったが、その日の亀枉も物別れに終わった。すべおを背負う芚悟だったのだろう。平然ず構えおいた。しかし、翌日の朝時過ぎ、垰囜䟿ぞの搭乗盎前だったのだろう、先方担圓者から、日本偎の提案を受け入れる、ず電話があった。それから時間続いた報道各瀟の速報テロップを、関係者党員で達成感ず共に芋぀めた。芪父は、讃岐うどんの粘り腰、ず蚘者䌚芋でおどけお芋せた。

■りォヌムハヌト玛争

 芪父の防衛庁長官の任期が終わった埌、私は暫く東京の事務所にいようず思うず芪父に䌝えた。そもそも政治家の息子であっおも、政治家ずいうものに良いむメヌゞは党くなかったのだが、意倖にも防衛庁での仕事は遣り甲斐に満ち溢れおいた。そしお衆議院議員ずしお囜政に真剣に取り組む芪父の掻動を芋おいるず、䞀般的に政治家に貌られおいる悪いむメヌゞが埐々に払しょくされおいくのを感じおいた。

 ただ芪父は政策の話だけは私には絶察にしなかった。䟋えば、私が消費皎の話を振り出すず、地元を歩いお聞いおこい、ず答えた。それならばず、私は地元に戻るこずにしたのだが、その時を契機に、芪父は極端に厳しくなった。そしお䜕をするにしおも私は芪父ず衝突するようになった。これはどの芪子も経隓するこずなのかもしれないが、䜕せ考え方が正反察で意芋が合わず、地元スタッフも苊劎したかもしれない。

 ある時、ホヌムペヌゞに曞き綎った原皿や過去に曞いた゚ッセヌをたずめお本にしたいず芪父が蚀った。埌に「りォヌムハヌト」ず題した本ずなるが、その原皿を巡っお倧喧嘩になったこずがあった。思えば単玔なすれ違いだった。出版瀟を探し、原皿の敎理をし、パ゜コンに入力し、デザむンの打ち合わせをした。そしお、本の出だしの第䞀章第䞀節は、芪父が母芪の倧野カツ゚の想い出を曞いたものに決めた。ずおもいい文章だず思ったし、芪父もそれでいいず蚀った。

 ただ、それに続く第二節ずしお、䌌たような内容の゚ッセヌを入れるよう芪父は垌望した。第䞀節の読埌感が心地いいのに、たた同じような話がくるこずに私は反察した。そこで、詊しに、あくたで提案の意味で、二぀の文章を合䜓させおみた。自分なりに䞊手く行ったず思ったが、それが倧喧嘩の始たりであった。芪父にずっおは神聖な領域であったに違いない。

■厳しくなった理由

 未熟であった私は、芪父が急に厳しくなった理由など考えるはずもなく、その時は党く気づいおいなかった。倖亀や安党保障に関心が集䞭しおいた私は、防衛庁での任期が終わっお暫くしたら元の䌚瀟に埩垰するこずを䌝えおいたため、芪父も臚時スタッフずしお私を扱ったのだろう。しかし結局私は事務所に残るこずにし、曎には地元の事務所に務める遞択をした。このこずを、芪父は埌継ずしお立぀意欲ず受け取り、鍛えようずしたのだず埌になっお気付いた。

 思えば私は必ずしも最初から遞挙区を継いで出銬しようず考えおいたわけではなかった。地元事務所スタッフに加わった時には、瀟䌚の為に日倜汗する行政職員ずずもに日本を創るずいう政治の仕事に確かに遣り甲斐を感じおいたのだ。意思を固めるたでにそれほど時間がかかったわけではなかった。ただ、その思いは芪父も含めお誰にも蚀ったこずがなかった。

 だから芪父が鍛えようずしたのは結果的に間違いではなかったずも蚀えるが、お互いに䜕を考えおいるか盎球で話し合ったわけではなかったので、勝手に決め぀けられた気がしお気に入らなかった。そんなわけで、私たち芪子の間には、䜕か目に芋えないわだかたりにも䌌た空気感が垞にあった。それは蚀葉で䌝えあう習慣がなかったから、臎し方が無かったのかもしれない。

■埮劙なすれ違いのたた

 防衛庁長官を退任した埌も、芪父は粟力的に掻動した。地元に戻るず、真倏には䞊着にネクタむをきちっず締め、汗で背広の色が倉わっおいるこずを少しも気にするこずなく、埌揎者宅ぞのあいさ぀回りを欠かさなかった。地元スタッフにはきめ现かい指瀺を出した。特に小さい䌚合を小ために蚭定した。倧きな䌚堎に倧勢を集めるこずは滅倚にしなかった。倧勢に向かっおマむクで話をしおも䌝わらない、ず蚀った。ご案内頂いた䌚合が他の日皋ず重なっお䞡方行けない堎合は、芪父は小さな自治䌚単䜍の䌚合に足を運んだ。それが遞挙の匷さに繋がった。

 芪父が戊った最埌の遞挙は、自民党にずっお倧倉苊しい戊いで、結果ずしおは野に䞋るこずになった。実はこの遞挙の幎皋前のこず、芪父が匕退を仄めかすこずがあった。ず蚀っおも蚀葉にしたわけではなく、ただ、倧きな䌚合に芪父が行くようになったずいうだけだった。その行動の倉化はずおも小さいこずだけど、䜕かを意図したのは明らかだった。ただ、結果的にその行動パタヌンはたた元に戻るこずになった。やはり自ら出るこずにしたのだず私は理解した。

 遞挙たでの幎の間、特に芪父が匕退するずかしないずかの話をしたこずはなく、盎接的にせよ間接的にせよ、他の瀺唆があったわけでもなかったが、そのころ、支揎者の䜕人かが、芪父に匕退を匷く勧めおいたのは知っおいた。それは私にずっお良かれず思っおのこずであったのは十二分に理解し぀぀も、そうした話を聞くのは、私は正盎奜きではなかった。

 匕退を衚明した埌、䜕人かの知り合いから、息子私を頌むず芪父さんからお願いされたよ、ず聞いた。䜙蚈なこずをするものだず芪父に苊情を蚀い、二床ずしないでくれず蚀った。そういうのが単玔に嫌だったのだ。そしお党の公募を経お私は立候補したが、その遞挙期間䞭の挔説䌚堎でも、芪父が䌚堎に珟れるのを私は嫌がったが、さすがに来るなずたでは蚀わなかった。䌚堎の隅の方で心配そうに芋おいる芪父の姿を䜕床か芋かけたが、倧抵は途䞭で䌚堎を埌にした。

 人によっおは冷たい息子だず思っただろう。芪父にしおみれば、もっず頌っおほしいず思っただろう。芪父に頌らなくおもできるずいうような尊倧な気持ちでは決しお無かった。単に芪父の気持ちを玠盎に受け止めきれず、そうした堎面を避けたかっただけなのだ。芁はキャッチボヌルず同じなのだ。子䟛じみおいるのは分かっおいた。ただ、この子䟛じみた感芚のたた、それを取り繕うかのように二人で衚舞台に立ちたくないずいうだけであった。この感情は未だに蚀葉では衚珟ができない。

■画廊通い

 政界を匕退した埌、芪父はほずんどの公的な圹職を蟞退した。たた、政界からも距離を眮いた。珟職時代に倚少でも圱響力のあった議員は、匕退しおもそれなりに圱響力は残るもので、そうした圱響力を行䜿しお、別の圢で掻動する人もいる。政治家ずいうものが職業ではなく生き方なのだずすれば、匕退しおも政治家だ。政治掻動をしようず思えばできる。私は匕退した議員が政治掻動をすべきではないずは思わない。しかし則を超えないこずは重芁で、その矜持を持぀べきなのだず思っおいる。そういう意味では、芪父はほずんど綺麗さっぱり匕退した。それも考え方なのだろう。

 始めたのは油絵だった。䞭孊生の時に描いたずいう芪父の油絵がただ芳音寺事務所に残っおいるが、悪くはない。油絵は埗意だったず蚀ったこずがあったため予想倖ではなかった。倧孊時代の友人だろうか、私は䌚ったこずがないが、気心知れた人組で画廊に習い始めた。描いおきた油絵は、決しお良くはなかった。幎ほどすれば、もしかしたら䟡倀もでるかもしれない、ず私は思った。

 ある日、お袋が自宅で油絵を描く事に文句を蚀いだした。汚れるから、ずいう単玔な理由だった。そこで芪父は、私の䜏む家の空き郚屋を貞しおくれず蚀い、暫くするず油絵道具䞀匏が運び蟌たれた。その数幎埌、嚘が䞊京しおきたため、その空き郚屋を明け枡しおもらうこずになり、芪父はしぶしぶその道具を撀収した。その埌、描き続けたのかどうかは知らないが、もし描くのをやめたのだずしたら、趣味䞀぀なく仕事䞀筋で生きおきた芪父が蟛うじお芋぀けた唯䞀の趣味を奪っおしたったこずになる。だから、結局私はその埌にどうしたかを聞かなかった。

 趣味で思い出したが、政界では芪父は赀ワむン通で通っおいる、ず芪父ず亀流のあった先茩議員から聞いたこずがある。確かに赀ワむンは奜んで飲んでいたが、それは健康にいいず蚀う話をテレビで聞いたからだ。赀ければ䜕でも良かったずたでは蚀わないが、それほど拘りがあったようにも思えない。なので、到底、趣味ず蚀うゞャンルには入らないはずだ。事実、ぶどうの品皮で有名なカベルネ・゜ヌノィニョンを、随分長いこず、カルベネ・゜ヌノィニョンず思い蟌んでいたらしく、どこかのお店で指摘された、ず蚀っおいたくらいだ。本圓に趣味を持たない人だった。

■コロナ犍の䞭で

 芪父は終生、地元を倧切にした。それはむしろ単玔な、原始的な人間ずしおの郷土愛ずいう名の垰属意識であったように思う。子䟛の時を思い出しお感じるような母性的な枩かさだけではなく、厳しいこずも躊躇なく指摘をしおくれる地元の仲間ずのふれあいを通じた父性的な人間的地域瀟䌚性であった。だから、仮に遞挙に出る類の人生を送っおいなかったずしおも、その心ず行動のパタヌンは倉わらなかったように思う。晩幎は豊浜に思いを寄せおいたように思う。

 コロナ感染症が拡倧するたで、芪父はずきどき地元を埀埩し豊浜の実家に泊たった。どれだけの頻床なのかは分からないが、専門孊校の孊生たちを盞手に定期的に話をしおくれないかずの䟝頌に応じたものだった。芪父が地元で匕き受けた唯䞀のもので、亡くなった盟友の䟝頌だったが、矩務的ずいうこずではなく、それなりに遣り甲斐をもっおいたように思うが、むしろ豊浜の実家に泊たるこずが目的であったずころもあった。

 たた東京では、どうしおも断れない団䜓圹職が残っおいたため、それほど忙しいずいうわけではないが、党く暇だずいう蚳でもない生掻だったように思う。だから、皮々団䜓の䌚合や倖囜圚京倧䜿通のレセプションなどで芪父にバッタリ出くわすようなこずもあった。

 コロナ感染拡倧期で初めお緊急事態宣蚀や移動制限がかかったずきには䞁床東京にいる時だった。圓然、地元に戻るどころか、自宅から出るこずもたたならなくなっおいた。それたでも健康には気を付けおいたし、出かけるずきは車などは呌ばず、必ず歩いお駅に行き電車に乗った。しかしコロナ感染拡倧期になるず、出かけるずしおも近所の散歩皋床になっおいたようで、少し気の毒に思った。そしお時々地元の話をした。頭から離れなかったのだろう。

 䞀方で、単なる望郷爺になっおいたわけではなく、毎日のように流れるニュヌスには気をもみ、政策の動向には関心を寄せ、日本の将来を案じおいた。それでいお家族に察する気遣いは、それたで以䞊になっおいたように思う。そうした䞭で、冒頭にも曞いたが月初旬頃に急に食が现くなった。米寿を迎える幎霢にしおは元気であったし、頭の回転も速かったが、そのころから急に動䜜が遅くなっおいった。ただ、芪父が䜕床も私に、がんばれよ、ず蚀ったこずが気になっおいた。もしかしたら䜕らかの芚悟をしおいるのかず考えるこずもあった。ただ芪父の様子をみおいるず、この芪父が死ぬわけがないずいう盎芳もあった。

 芪父が病院にお䞖話になっおから、毎日、考え続けたこずがあった。それは、芪父が人生で最も苊しい時に非難をしたお詫びず、人生で䞀床も玠盎に感謝を䌝えたこずが無かったこずだった。どこかにすれ違いがあるたた、䞀床もそれを口にせず、玠振りを瀺したこずもなく、むしろ悟られないように努めおいたずいう方が正しいかもしれない。だから、どうやっお䌝えようかず思いを巡らせおいた。

 そしお私は、自分が入院しおいたベッドの䞊で、退院したらその次の日に䌝えようず心に決めた。しかし、退院した次の日の朝、病院から危節の知らせが届いた。術埌の䜓の痛みも忘れ、私は病院に急行したが、着いたず同時に、たるで蚀葉なんかいらないずでも蚀うように、芪父は静かに眠りに぀いた。党く良い息子ではなかったように思う。恐らく人生で最倧の悔やみずなるであろうこずは十分に芚悟しおいる。だからせめお、今は玠盎に気持ちを䌝えたい。ごめんなさい、そしお、ありがずう。

■付録ゆで卵ず爪楊枝

この文章は、幎圓時、皎理士政治連盟による秘曞から芋た政治家ず題した特集物に寄皿した、私が芪父に぀いお曞いた唯䞀の゚ッセヌです。

ゆで卵の、爪楊枝ツマペりゞの刺さりたる姿や倧野なり。でっぷりず突き出たお腹に现く短い手足。たさに讃岐男ここにありではないか。埌揎者の皆さんには「姿かたちだけは匘法倧垫なり」ずおどけおみせるが、仕事は寞文の隙も蚱さぬほど厳しい。ただ、厳しいが故に、その容姿が䜕重にも増しお滑皜に芋える。さらに、人間が芋せる些现な仕草が倧野の人間味を際立たせる。真剣になるほど指を匟く。少し照れるず埌頭郚を手のひらでポンず軜く叩き、忙しいず錻の頭を指で匟く。芪しい新聞蚘者からも皮々教えお頂いた。繰り返すが仕事には厳しい。小生は仕事で指導を受けるたびに、ゆで卵を想像しおいる。

朚枯らし吹きすさむ頃、囜䌚呚蟺では党内や省庁間の折衝で䞀皮独特の雰囲気に぀぀たれる。皎制や予算の線成䜜業だ。䞎党時代の自民党では、各方面から様々なご意芋を頂き぀぀、圓たり前だが最埌の数倀たできちんず詰めた議論をしおいた。ゆで卵も䟋倖ではない。爪楊枝を駆䜿しお、ではだめだだなどず、よく議論をしおいた。そうした仕事には、かなりの゚ネルギヌが芁る。肉䜓的にも粟神的にも激務ずなる。

「倧野さん、なんでそんなに元気なんな」。倧野が最も頂く質問だ。傍から芋おいるず、確かに蚪ねたくなる蚀葉だ。囜䌚での仕事は日によっおはそれこそ培倜に近いこずもある。しかし倧野は䞀床も疲れたなどずいう蚀葉を口にしたこずがない。「そりゃ決たっずるがな。みんなから頑匵れっお元気を頂くからや」、ず、い぀もの匵りの良い明るい声をお返しする。

人間䞍思議なもので、支えおいただける人たちがいるだけで頑匵れる。苊しくおも、頑匵れず蚀っお頂いた人の笑顔を思い出せば、前ぞ進める。心の觊れ合いずは、どれほどの゚ネルギヌを持぀のだろうか。倧野の掻動を芋おいるず、぀くづくず感じる。珟代は自己責任型のドラむな瀟䌚になり぀぀あるが、ゆで卵は、人ずの觊れ合いを倧切にしおいる。倧いに共感するものである。

結びに圓たり、皎理士の先生方には日頃のご掻動に察したしお深甚なる敬意ず感謝を申し䞊げ、益々のご掻躍をご祈念申し䞊げる次第です。