靖国神社に昇殿参拝してまいりました。300万柱を超える戦没者に対して、改めて心から謹んで深甚なる哀悼の誠をささげ、同時に恒久平和へのたゆまぬ努力をお誓い申し上げる次第です。
先の大戦は何だったのか。私の永遠のテーマです。しかし、戦争に大義があったとか無かったとか、戦争が国際社会から追い詰められた上での止むに止まれぬ行為であったとか無かったとか、侵略戦争であったとか無かったとか、そういう戦争の議論を一切棚上げにするとして(その点についてはいつか書いてみたいと思いますが)、それでも残るのは、少なくとも国家の意志によって戦争にかり出され、何もしてやれないが靖国だけには祀ってやるぞとの国家の約束だけを信じて散華された英霊の御霊を前にすれば、時代がどれだけ経とうが、その御霊を祀るために靖国神社に参拝するのは当然の務めであろうかと思っています。
でなければ、国民から信頼される国家が創れるわけがない。過去の問題に国家が責任をもてなければ、将来の政策について現代の国民が国家に信用をもってくれるはずはありません。
内田樹さんの日本人辺境論という書籍について、先日もブログの記事で触れさせていただきましたが、内田さんもご指摘されているとおり、日本人はめったに歴史的な過去から未来という言う縦の時間軸でものごとを考えることはなく、もっぱらと言って良いほど常に現代を生きる水平の軸というか横の軸の中で自らの存在を確認しようとする存在です。アメリカはどうしてるとか、ドイツはどうだという他国との比較、他社の動向はどうだとか他県はどうしてるという他組織との比較などです。そして政治の役割として見れば、その水平の軸、今に生きる人類や国民の利害関係の調整に終始しがちです。しかし、繰り返しになりますが、歴史という過去から未来を想う縦の軸の中でも政治は議論をしていかなければならないと思うのです。戦時中の人々に想いを馳せ、生まれてもいない子供達の将来にも想いを馳せないといけないのが政治だと思うのです。そうした過去に生き、未来に生きる人々の心もしっかりと胸に刻んでいかなければならないのです。
であればこそ、天下国家を、国民を代表して議する議員としては絶対に靖国神社に参拝すべきであると考えます。一方で、水平の軸、他国との関係において影響力のある要職にある総理・官房長官・外相の参拝は慎重に判断すべきであると考えるのは当然ではないでしょうか。
靖国神社参拝について、海外が報道するような右傾化という評価は、決してあたらないのです。では、なぜ参拝議員が急に今年増えたのか。私自身は以下の感想を持っています。
再び縦の軸と横の軸の議論をしたいと思います。戦後の高度成長期は、日本人は悩むことがなかったのです。ひたすら日本人は成長に邁進しその結果を享受し満足してきたと思います。だからこそ、縦の軸のなかで、自分の置かれた立場を探るための原点探しもする必要もなかった(参考:ブログ「主権回復の日について」:https://keitaro-ohno.com/?p=1532)。しかしバブル崩壊以来、日本がなぜ斯くも活力が失われてしまったのか、その原因はなんだったのかについて、最初は水平の軸の中で、他国はどうしているのか、国際動向はどうなのか、と、まわりをキョロキョロ(内田さん評)し始めた。でも、どうしても自分の立ち居地が水平軸のなかで見出せなかった。だから、最近は縦の軸の中で原点を探さざるを得なくなってきた。その世代が我々3〜40代なのです。
そして先の衆議院選挙にて、多くの3〜40代の世代が国政の場に立ちました。結果として、戦争の総括に想いを致し、原点をそこに見つけようとし始めたと考えても不思議ではないのです。だから、これはあくまで日本人の日本人探しの一環であって、決して他国に対する軍事的意図や好戦的意思、ましてや侵略的意図は全くないのです。
戦争という過ちは二度と犯してはいけませんし、改めて繰り返しになりますが恒久平和を固く誓うものなのです。そして、われわれ日本人は改めて過去から未来という縦の軸の中での原点をなんらかしかの形で探す努力をしなければなりません。それが靖国神社の参拝という具体的な形で現れているに過ぎません。
さらに言えば、靖国に代る代替の戦没者追悼施設を作るなどは的外れな議論に思えてなりません。靖国神社のもつ歴史的意味合いは代替することはできないからです。日本人が日本人の原点というかルーツというかを探そうとする努力は、他国になんら悪い影響を与えないものですし、そうすることは繰り返しですが自然なことです。