先日、茶道裏千家淡交会の四国地区の集会(讃岐のつどい)があり参加して参りました。裏千家と海軍は縁があり、前家元で千玄室大宗匠は、元海軍航空隊に所属する士官であって、後に志願して特攻隊員となり、出撃前に終戦を迎えた方。多くの友人が戦火に散っていったご経験から平和に対する想いが人一倍強く、茶道の精神が築く平和について、海上自衛隊のみならず、多くの公的機関で講演をされ、万人から尊敬されていらっしゃる方です。そして、当日は、なんとそのお孫さんの千敬史さんが参加されていました。千敬史さんは、現家元千宗室宗匠が数年前に後継指名された方で、私は初めてお目にかかりましたが、スピーチが抜群にうまく、一気にファンになりました。
さて茶道と言えば、私は岡倉天心の「茶の本」(1900年頃にニューヨークで出版された西欧人向けの本)を思い出します(ついでに言えば寺田寅彦の「茶碗の湯」というのもセットでお奨めの本です)。岡倉天心と言えば、明治のころ西洋から野蛮と言われ西洋化が急激に進む日本を憂い、日本独自の文化や伝統の素晴らしさを世界に発信する活動に力を尽くした方で、「茶の本」もそうした背景から書かれています。後にこうした活動が斜めから見られて国粋主義とかアジア主義というレッテルを貼られることになりますが、近視眼的な見方だと私は思っています。(それは岡倉天心の一番弟子であった横山大観にも言えます)。
例えば、本文中、茶には酒のような傲慢なところがない、コーヒーのように自覚もない、ココアのように気取った無邪気もない、であるとか、己に存する偉大なるものの小を感ずることのできない者には他人の小の偉大を見逃しがちである、という趣旨の文章がでてきますが、なんとも西欧への当て擦りです。しかしこれは、単純や静寂、不完全や虚無のなかにこそ偉大なるものを見出さんとする精神こそが日本文化なのだというところにスポットを当てるべきなのだと理解しています。
例えば、今でも時々ぱらぱらと捲ってしまうくらい痺れる文章ですが、茶道とは美を見出さんがために美を隠す術である、茶道とは不完全なものを崇拝することであって完成させようとする人間の優しい企てである、などいう趣旨の表現が登場します(正確ではないかも)。つまり、不完全であるがゆえにそれを完全たらしめるものは人間であって、見る人の中で美が完成する、ということであって、見られる茶と見る客人とそれを見る主人が一体となって初めて完成するものなのだ、ということだと思います。
地元でお茶会に時々お誘い頂くことがあります。当初は躊躇の連続でした。無作法者ですから。そう言って切り抜けてきたのですが、顔なじみになってきたころで何人かの先生に作法を聞くと、全員口をそろえて、やりたいように楽しめばいいのですよ、とおっしゃる。
茶道というのは日本人としての人への思いやりを学ぶことだと解説されます。確かにお出しするお茶のたった一杯のために丸一日かけて全力を尽くして客人をもてなす術ですから、そのとおりなのだと思います。しかしその簡素で単純なお茶一杯の中に、前述の全人生観と全世界観を見出す精神構造が主人に備わっているからこそ、できる術なのだとも思います。
ではなぜ現代的茶道が型や作法や道具の名称由来の類の知識を重視しているのかが気になってきます。恐らくこれは、内田樹が日本辺境論で指摘しているように、学ぶことを学ぶシステム、つまりお茶の師匠が奥義を教示せず型や作法を徹底することによって、学ぶ側が奥義を自ら見出そうとするプロセスにこそ意味を求めているからなのだと思っています。(ということで余談ですが、最近では、奥義は気にせず、そういう理解を勝手にして、臆することなくお茶を楽しんでいます。主人を務めることがないので・・・)。
一方で、不完全なものを崇拝だけしていては政治はなりたちません。つまり完全たらしめるための不断の努力と行動が必要になってきます。問題はその立ち居振る舞い。酒やコーヒーやココアのような振る舞いはいつかは日本社会の中では見放される。常に自己を見つめ続ける態度が大切なのだと思います。
多難な時代。難局を乗り越えるため、課題を整理し目標を定め、政策を逃げずに具体的に打ち出し、断行していくこと。つまり、塩野七生さんが指摘するように、政治は、1に何をやるかという目的、2に何をどうやるのかという手段、3に何をどうやり続けるのかという継続、が重要です。そして、民主主義国家の中で極めて困難な継続のためには、常に自己を見つめ続ける態度が大切なのだと思っています。それが実は一杯のお茶の中の世界観に繋がるのだと思っています。