驕りと安岡正篤

都議選が終わりました。結果は惨敗。予想通りと言えば予想通り。驕りは禁物。言葉で言うのは簡単で、私も初当選から、謙虚であり続けること、真摯であり続けること、を自分へのメッセージとして、ポスターに掲げていますが、地元で学園シリーズの指摘を受ければついつい大真面目に政策論争をしかけてしまいます。間違っていないと。なぜなら例えば国家戦略特区は間違っていないと思っているからです。これが謙虚さの欠如であったのかと今頃気づき、自ら大いに反省をしているところです。

思えば簡単な事だったのかもしれません。正しきを為さんとする我を信じ給え、的な発想では、誰も信じない、ということ。そもそも自分は正しいという前提なのだから。実は政治をやるにあっては結局は私という人間を信じてもらわなければ政策を遂行できないというジレンマにぶち当たります。万人(少なくとも過半数)に説明し質問を受けて返事をし、それでもなお反論があれば説得するというのは半ば不可能に見えるからです。

であれば、若泉敬ではありませんが、正しいかどうかより、他策無かりしを信ぜむと欲す、的な恒常的な自己反省の態度こそが重要で(信じる、ではなくて、信じたいのだけどどうなのだろう)、正しいかどうかは二の次であったのかもしれません。

こういうときには、安岡正篤が存命であれば何を言うか聞いてみたいと思ったに違いありません。

権力が一旦確立すれば、特に危機の時には、自らの行いを正しいと信じて政策を断行するわけで、これを自信と言いますが、他から見ればリーダシップにも見えるし、傍若無人にも見える。お釈迦様が唯我独尊という言葉を現代に残していますが、この言葉自体も傍若無人と同じような意味に誤解されることが多いのと同じように、物事まっすぐ正面から見るのと、斜めから見るのでは、随分風景が違ってしまいます。

現代的民主国家において、このリーダシップと傍若無人の間を埋めないと、政策は断行できない。正しいのだから黙っとけ、では選挙は負ける。であれば、この、俺についてこい的、荻生徂徠的、つまり朱子学的な思想は、民主国家では役に立たない。では、思想的に安岡正篤や吉田松陰のような陽明学のほうが役に立ちそうですが、実際どうなのか。

司馬遼太郎が三島由紀夫の死に際して指摘している様に、思想なるものは本来虚構であることをよく知った上でその思想を吸収すべきです。思想はどっちの方向に行ってもラディカルに先鋭化する力を内在しているからです。因みに余談ですが、私が司馬遼太郎をこよなく愛するのは、残している司馬文学が史実として正しいかどうかというより(司馬史観は間違いだと声高に叫ぶ知識人がいる)、その態度にあります。

その上で言えば、美学に溺れることなく、心の中の葛藤(正しいのに何で信じてくれないのだろう)をなくすこと、そのためには国民を信じるという実践を通じて、もって国民の信頼を勝ち取ることなのだと思います。

政権の運営というのは極めて困難を極めるものなのでしょう(私は端くれで政権運営してもないですから断定できませんが)。例えば加計学園問題では、野党による前川何某前文科次官の証人喚問を与党側が拒否したのは、おそらく斜めからの見方ばかりがメディアによって国民に垂れ流されるのは得策ではないとの判断なのだと勝手に想像していますが、そもそも国民を信じる態度、そして他策無かりしを信じむと欲する態度の方がはるかに重要なことなのだと思います。

あくまで自分の反省として。安倍政権を全力で支えていくことに変わりありません。