79回目となる終戦記念日

79回目となる終戦記念日の夜を今年は静かに自宅で迎えました。改めて、戦果に斃れた300万柱を超える英霊に、心から謹んで深甚なる哀悼の誠を捧げ、恒久平和への弛まぬ努力をお誓い申し上げる次第です。

子どものときに聞かされた日本の歴史は、大人になって学ぶと違う風景に見えることがあります。終戦記念日も、様々な事を主張される方がいます。否定するつもりは全くありませんが、ただ、8月15日に天皇陛下が玉音放送で国民に直接語り掛けられ、ポツダム宣言を受諾されたのだから、わざわざ声高に8月15日は終戦記念日ではないと言わなくてもいいのにと思うのです。とにかく静かに迎えたい日だと思っています。

ただ、歴史を学んで少なくとも強烈に感じるのは、日本は、当時の連合国側に結局は翻弄されていた側面が多々あるという事実を後で知ることの悔しさです。自ら情報を集め、自ら考え、自ら決断する、がないと必ず翻弄される。カイロ宣言も、表面的には単にチャーチルとルーズベルトと蒋介石が対日方針を協議するために集まって発表したものですが、その裏側で狡猾な国際政治が行われています。チャーチルは当初、蒋介石の参加には反対、一方でルーズベルトは日本に戦争継続を強いるために、日本との単独講和を模索していた蒋介石を無理やり巻き込んだ、というのです。

また、ポツダム会談は、主に東欧の政治体制やドイツの取り扱いを巡った会議ですが、会談中に原爆開発成功の知らせを聞いたトルーマンが、対日戦早期終了という理由と共に、既に決まっていたソ連の参戦の前に終戦を迎えれば、ソ連に権益を渡さなくて済むという理由で、対日原爆使用を許可したとされます。また、ソ連は、原爆の戦略的意味合いを知り、原爆投下の翌々日の8月8日に急遽対日戦を開始、結果として北方領土はソ連に占拠されてしまいます。スターリンはその後、8月20日には原爆の開発に着手し、これがために未だにウクライナ問題を困難にしています。

一方で国の方向を変えるのは政治家や状況だけではありません。終戦後の話になりますが、ソ連と協調関係にあった米英の方針を転換させたのは、ジョージ・ケナンという外交官・戦略家でした。(正確に言えば、英の衰退による力の空白を米が埋めざるを得なかったためという見立てもできますが)。やはり情報を集め、自ら考え、自ら判断したということは変わらないのだと思います。

静かに迎えるべき終戦記念日に少し心がざわつく話を書いてしまいましたが、繰り返しますと、政治家として、寸分の決断が国を危うくすることは今も昔も変わりません。情報を集め、自ら考え、自ら判断する。改めて恒久平和への弛まぬ努力をお誓い致します。