戦後最長の国会延長と安保法制と石破大臣

本日、20時10分に開催された本会議にて、戦後最長となる95日間の国会の延長が採決され、国会が9月27日まで延長されました。国会の一義的存在意義は、現実問題に直面し、その現実を石破大臣がよくおっしゃるように勇気と真心をもって真実を国民に伝え、国家の存続と国民の自由と幸福追求の権利のために、十分に慎重審議を行い、決断していくことです。

本日の本会議には民主党は欠席。それは自民党でも過去にあった話なのだと思うのですが、真に政治的に先進国になるためにも、こうした前時代的な判断は今後とも与野党とも絶対に行うべきではないのだと思います。反対なら反対の討論を行うべきです。

民主党欠席(維新・共産反対)の理由は、与党が何が何でも安保法制を今国会中に通したいがための延長だからというものですが、なりふり構わず通すのであれば、強行採決すればいい話で、そんなことはしません、と与党は言っています。野党があくまで反対なら論理だった反対論陣を張ればいいはずです。そして正々堂々と議論をすればよいわけで、そのために十分に時間をとったということです。そもそも野党は審議が十分でないと主張されていたのですから、審議に応じたらいいのだと思いますし、仮にでも結論が決まっているからつまらないというなら、与党側も野党の結論は反対と決まっているのだから採決するとなってしまいます。これは、J.S.ミルの自由論の議論をひっぱり出さなくても、議論の衰退と結果の悪化につながります。

そして、安保法制反対の理由の第一は、そもそも与党案が憲法違反だと言うものです。今見ているテレビ朝日のコメンテータも、「そもそも違憲だということを前提で議論をすすめるべきで、違憲だけど必要だからやる、というのはおかしい。それだったら憲法改正を議論すべきだ」とのことをおっしゃっている最中です(そういう放送はどんどんしていただいて結構ですが、なぜこの放送局は、両論を報道しないのでしょうかね)。

先にも触れましたが、違憲の論理も、論理としては間違ってはいません。つまり、集団的自衛権は違憲だというのは昭和47年からずっと政府が貫いてきた解釈だから今でも違憲だ。そのどこを切り出そうが違憲だというもの。しかし、重要なのは、現時点でも、政府案は集団的自衛権は違憲だと言っているということ。そして最も肝心な部分は、切り出し方によっては合憲で整理できるものがあり、政府提案の限定集団的自衛権は、論理としては明白に合憲なのです。

民主党の寺田学先生が、腐った(違憲)味噌汁(集団的自衛権)の一部(限定集団的自衛権)を取り出しても腐っている(違憲)、と国会で追及したのに対して、法制局長官が、フグ(集団的自衛権)も毒(限定以外)の部分をとれば食べられる(合憲)、と答えたのは、こうした論理の衝突です。

しかしこれでは国民はどっちが本当なのか分からない。だから政治というものが必要なのだと思っています。政治の役割は何か。そして司法の役割は何か。今日の平和安全特別委員会で違憲の参考人意見表明をした小林先生も、いみじくもおっしゃっていたように、憲法の有権解釈権は、行政・立法・司法のそれぞれが有するのであって、政治がかかわる立法と行政は、論理とともに現実の問題が存在するときに、それを解決するために努力するものであって、一方でそれにより仮に憲法違反が疑われる個別具体的事件が生じたときには司法が判断を下すという構造になっています。さらに言えば、政治は選挙による洗礼を受けることになる。

逆に言えば、私もそうですが、有権者に反対意見があるのを知ったうえで、丁寧に説明を試みた上で、それでも現実問題を解決するために、この問題が合憲か違憲かを真剣に考え抜いて判断しているわけで、十分に納得し合憲であり、推進していくべきだと考えているのです。

もう一度書きますが、政府は、そして私も、この安保法案は明白に合憲であるという確信をもっていて、その理屈も明白にあるのです。もちろん、理屈もなければ法制局長官が首を縦に振る筈もないですが。

アメリカは変わりました。世界の警察官を辞めた、と一言で切り捨てる程は簡単ではありませんが、簡単に言えばそういうことになります。レッドラインを引いておいて、それを超えて出てくる相手にこれまでは実力を行使していましたが、そうしなくなった。現実に向き合い行動を起こすアメリカから、理想に走り対話を求めるアメリカへの転換です。だから、おそるおそる様子見でちょっかいを出してくる国が出現してきた。サミュエル・ハンチントンが予想した世界にはなっていませんが、違う形で混沌とした時代になろうとしています。

仮にこの法案が通過しなかったとして、国民の生命・自由・幸福追求の権利を保持できなくなる事態が生じた場合に誰が責任をとるのか。我々は戦争をしたいから立法化に向けた努力をしているわけではなく、戦争を回避したいからがんばっているのです。なんだか、反対意見の一部の人は、自分の国の総理よりも、平和を愛する他国元首の公正と信義に信頼しているようで、切ない気がいたします。

徴兵制の議論があります。最初は突拍子もない、妙なことを言い出す人がいると思っていましたが、真剣に心配される方がいらっしゃることが分かってきました。徴兵制は、例えば憲法18条の身体的自由権(奴隷的拘束・苦役からの自由)に反するから憲法違反だと説明できます。これに対して、民主党は、解釈で変わるのではないか、徴兵は苦役ではないと解釈すれば、憲法解釈の変更で将来徴兵制はできるではないか、と主張しています。

論理がありません。もし苦役ではないとして徴兵制法案を立案し可決成立させても、苦役と感じる人が1人でもいれば、具体的憲法訴訟が可能で、一発で違憲判決がでるはずです。もし苦役と感じる人が一人もいなければ、もはやそれは徴兵制など必要のないほど国民が国家防衛のために立ち上がろうとしている状態であるはずです。そんなことはある筈もなく、したがって明白に違憲です。私は法律家ではありませんが、これは論理です。数学的証明に似ています。

石破大臣が徴兵制の違憲理由が苦役からの自由に反するだとは残念だという趣旨のことを述べていますが、曲解されているので念のため説明しておきますが、石破大臣は、徴兵制は違憲だと明確に述べています。加えて徴兵制は軍事専門的にも採るべきではないとも述べています。ただ、思想哲学として、国家を守るということの意味を考えての発言です。つまり、古代ローマの史実にもあるように、国を守るという意識は崇高なものであるべきだということに尽きるのだと思います。

また、今日の参考人意見で、限定された集団的自衛権の行使であっても、自国に対する武力攻撃がない状態での武力の行使だから、先制攻撃にあたる、ので憲法違反だ、とおっしゃる方がいらっしゃいました。国際法上は非攻撃国の要請や同意に基づくものであれば集団的自衛権と認められれば先制攻撃ではないわけで、それを集団的自衛権を否定してきた日本は個別的自衛権の概念の延長線上で解決しようとするから先制攻撃という人がでてくる。全くもってガラパゴスな国なのであって、さらに言えば、昔から、誘導弾で日本を攻撃しようとする他国にある発射台を場合によっては攻撃することは法理上は可能であって合憲であるという解釈があるとおり、かなり抑制的ではありますが先制的自衛権はこれまでも可能な場合があるのであって、あくまで専守防衛の解釈は全くもって変わっていないのです。

いろいろ論理の衝突があるのですが、真剣に国家の存続や戦争抑止を追求した形の一つであると思っています。丁寧に慎重に議論を進めていかなければなりません。