日本学術会議と安全保障研究

数年前に、防衛装備庁(防衛省・自衛隊の装備品の技術研究開発若しくは調達を行う機関)が防衛技術に資する基礎研究を広く公募する安全保障技術研究推進制度を始めましたが、これについてメディアでは、軍事研究だと批判し、研究者の代表機関である日本学術会議も、この安保技術研究に対して懸念の声明を発出しました。

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-s243.pdf
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/anzenhosyo/anzenhosyo.html

私もかつては研究者の端くれであったのと、最近防衛の仕事に就いていたこともあり、この問題に高い関心をもって現在に至っておりますので、改めて思うことを書き記しておきたいと思います。結論から書きますと、学術会議の議論の方向と結果的に導かれた結論(資金源で判断する方法)に違和感を感じる事、更には事実誤認があること、についてです。

防衛装備品の調達には莫大なコストがかかっています。その内、結構なボリュームを海外調達に頼っています。マーケット規模が小さい自国のみの調達では単価が高くなることに加え、安全保障環境の変化のスピードと技術進歩のスピードが目まぐるしく、自国での研究開発サイクルが間に合っていないこと、などが原因です。つまり海外から買ってきた方が手っ取り早くて安いということになってしまいます。

この構造にメスを入れれば、ずいぶん効果的・効率的な調達が可能になるのではないか。防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度の本質的な目的は、私はそこにあると思っています。(もちろんメスを入れるには研究以外の様々な工夫が必要となります。)

掲題の日本学術会議の声明は、防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度を直接的に禁止する声明とはなってはいません。基本的には懸念を示しているに過ぎません。そして、議事録を見れば明らかですが、日本学術会議は前提として自衛隊を否定するものでもなければそれが保有する装備品を否定するものでもない。しかも、声明は学術会議の中で多くの時間を割いて真摯な議論を積み重ねた結果です。それについては深甚なる敬意を表したいと思います。

しかし、まずもって事実誤認がある。声明の中で研究の公開性や透明性、政府の介入などに関して「問題が多い」と「断定」しているところです。防衛装備庁の責任者からのヒアリングを直接受けているにもかかわらずですので、よほど不信感があったのか、防衛省の説明が悪かったのか、どちらかだと思います。防衛省以外の文科省等の政府公募研究と同じ仕組みですので、声明の指摘は全く当たらない。例えばインターネットの必需品である暗号通信研究は軍事に使われ秘密指定される可能性があると叫ぶのと同じ類のものです。全くのすれちがい。(例えば議事録を読むと、公開性について、制度の説明では”原則”公開とされているのが結構議論されていて、軍事研究なのだから秘密に指定されて非公開となる可能性があるなどの指摘が多く見られます。)

安全保障技術研究と学問が緊張関係にあるのは確かです。しかし声明にあるように、今般の「軍事的安全保障研究・・・が、学問の自由・・・と緊張関係にあること」はありません(学術会議の言う軍事的とは物理的効果を生むものを指す)。しかし、学術界の最高峰である日本学術会議による、このすれちがいによって生じた声明は、多くの大学等研究機関での原則禁止方針に繋がり、大きなネガティブインパクトとなりました。

もちろん戦前の強制国策軍事研究や侵略兵器・大量殺傷兵器研究などはもってのほかで、全面否定したいと思いますが、同制度がこういう研究を為そうとするものでは全然ないことは自明です。日本学術会議の方の懸念は真摯に受け止めるとしても、見る景色を合わせる努力をしなければなりません。

誤解を恐れずに日本学術会議の視点を紹介すると、結果論としてですが、防衛装備庁の公募研究制度に対して何か反応しないといけないけど、論点(※1)が沢山あって全てに学術会議が答えを出せないし出すべきでもないし、一般論での善悪の線引きが非常に難しい(※2)。しかしどこかで線を引かないといけないので、そこで研究の入口で判断することにし、その代表的な資金源に注目し、軍事が目的の防衛装備庁が提供する資金では研究するのは懸念が多い、と結論づけたということだと思います。(膨大な議事録を読んで私が感じたこと)。

(※1:論点と言うのは、例えば研究開発の目的と結果には常に二面性があって、軍事目的で研究開発したものでも民間に使われるようなもの(スピンオフ:例えばGPS)もあれば、民生目的であっても軍事に使われるものもある(スピンオン:例えばパソコン)。これをデュアルユースと言いますが、これにも良いデュアルユースと悪いデュアルユースがあるとすれば、境目は一般論では判断できない。放射線を発見したキュリー夫人を批判する人などどこにもいないはずです。)

(※2:多くの著名な研究者が軍事研究はダメだと独自の声明を出していた中でしたので、必ず何かは発出すべきという論が太宗を占めていたのだと拝察いたします。しかし、戦前のような単純な兵器の公募研究というのは存在せず、前述のデュアルユース性に鑑みると、線引きが難しい。また、防衛用と攻撃用というのも線引きが難しい。)

一般論として資金源で線を引いてしまったということですが、以下、この結論に至る議論の方向性と、この結果自体について、書き記しておきたいと思います。

論点1:では全く同じ研究内容を文科省が募集したらそれでいいのか?

学術会議の議事録を読んでも、防衛装備庁がどんな研究を募集しているか全く議論されておらず現場感覚がないと言わざるを得ません。ちなみに公募内容は以下のようなものです。

http://www.mod.go.jp/atla/funding/kadai.html

元研究者である私が見て、文科省の公募だとしても直ちに問題になりそうなものはありません。もし文科省がよくて防衛省がだめというならば、結果論として導き出されるのは、資金源が防衛省だと応募するのは気が引ける、ということにつきてしまいます。本当にそれでいいのでしょうか。あくまで結果論ですが国民に対して少し不誠実な気がしています。逆に言えば、国から見れば、ほとんどの研究は、わざわざ議論を巻き起こしそうな防衛省公募研究にしなくても他省庁公募研究にしたほうが批判はさけられるはずで、そういう意味では防衛省の方が国民に対して誠実だと思います。

本来、個別の研究テーマをそれぞれの研究者が判断すべき話であって、それぞれの研究者から見て、資金源が防衛省だろうが文科省だろうが環境省だろうが、望ましくない使われ方が為される可能性があると思うなら応募しない、ということであるべきで、それを科学と軍事のガイドラインに書けばいいのではないかと思います。

もしそれでも不足ならば、公募内容を日本学術会議が評価すればいいと思うんです。理由を付して。AとかCとかで。Aなら問題なし、Bなら慎重検討を要す、Cなら応募不適当など。もっともランク付けをするかしないかは別としても、一般論として良いか悪いかの線引きはそもそも難しいのは自明の理であって、そういう議論の方向ではなくて、自由な研究の中で、外から様々な角度で倫理的にチェックする倫理委員会のようなものを作るべきだ、と私は思いますし、実際に学術会議の検討委員からも同種の指摘がなされています。この方が絶対正しい。

論点2:撃たれても絶対死傷しないスーツの研究はどうなの?

良いか悪いかを一般論で線を引くのは難しいと申し上げましたが、それでは具体的な研究内容を想像するとどうなるのでしょうか。敢えて純粋に防衛用途のものを具体的にイメージしながら議論してみます。

平和のために安全保障技術の研究をしたい、という科学者がいたとしましょう。抑止論(ある程度強ければ手を出されないから喧嘩にもならない)と言います。そういう研究者にも、制限を加えるのが正しいのか。実際に、学術会議の検討委員の方からも、また現場の研究者のなかからも、同種の懸念が示されています。「一律禁止は科学者の自主性・自律性を阻害していないのか」「学問の自由を担保するために学問の自由を破壊していないのか」など。

議事録を拝読すると、この観点から、自衛力を認めるのか認めないのかから議論しようという提案が委員からもなされています。しかし驚くことに、この指摘をされた方は、多くの参加者から「論点がぼやける」との理由で、封殺されています。そして確かにぼやけるのは事実だと思います。何故ならば、そもそも一般論としての善悪評価などできないのですから、問題設定が間違っている。一般論や一般原則では解決できないはずです。

また、別の委員から、リサーチが問題なのではなくユースが問題だ、つまり研究すること自体が問題というよりはそれをどう利用するのかという方が問題だ、との発言もなされています。この委員曰く、テロ対処等という具体的に対処する必要がある課題がある中で、昔の国対国の侵略戦争というイメージに拘泥されてていいのか、という趣旨の問題提起であろうかと思います。

私が新入社員のころ地下鉄サリン事件が起きました。化学薬品によるテロです。多くの犠牲者がでました。自衛隊も出動しました。専門用語でCBRN対応と言いますが、研究開発による技術進歩があり、今では当時よりも遥かにアップグレードされた専門の部隊があります。仮に将来、テロが起きたとして技術がないため多大な犠牲がでたとします。自分の持っている研究成果があれば対処できた可能性があるという研究者がいたとして、なんと思うのか。恐らく、我々世代が過去の戦争を見て「あぁ政治が真っ当に機能していない」と忸怩たる思いがするのと同じ感覚を持つのだと思います。「あぁ科学が真っ当に機能していない」と。

化学薬品テロ対処技術研究の公募がでたとして、これを是とするのか、非とするのか。これは明らかにミサイルの研究とは研究倫理という意味で違うものなはずです。ですから、個別に判断していかざるを得ない。議論すべき方向はこの方向であって、組織としての個別判断と、研究者個人の個別判断があるべき方向なはずです。

その上で敢えて申し上げれば、全ての国家機能はシビリアンコントロールの下で、国民によって選挙を通じてコントロールされている。民主主義です。そしてそれを支えるのが自由であって、自由の支えがない国家は脆弱です。そして自由が制限されるのはあくまで公共の福祉です。そして公共の福祉という観点で、プラスにもマイナスにもなりうるものを、すべて忌避するのは、自由がないと言わざるを得ません。

論点3:かつてのマンハッタン計画のようなものがあったとしても使われることあるの?

声明にもある通り、同会議は、過去に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」(1950年)、「軍事目的のための科学研究を行わない」(1967年)と、2つの声明を発出してきました。前者はまだ自衛隊も無い時代のもの。それこそ声明発出のきっかけは「戦前の反省」そのものです(※3)。後者は米軍拠出資金による研究が問題となったときのもの。ですので「実際に米軍を通じて戦争に繋がる可能性を含むものに対する懸念」声明であった(※3)。つまりどちらも「憲法の規定を超えるような実際の戦争を目的とした研究」を対象にしていると言える。それらの声明の懸念は誠に健全で大いに賛同するものです。一方で最新の声明は、全ての軍事的安全保障研究を否定しているという意味において、前2者とは路線を異にするものです。逆に言えば自国防衛のための研究も否定する声明になっています。

その上で、第一に、戦前の反省に立つとありますが、その反省とは何かということです。最後に引用しますが、学術界として反省すべきなのは、「軍事研究をしたくない人に強制的にさせてはならない」ことだという指摘がなされています。そして現代において憲法上強制されることはありません。従って、マンハッタン計画のようなものはそもそもあるはずもなく、あったとしても強制されることは全くありません。

第二に、防衛省・自衛隊は自国防衛の為の活動しかし得ないのであって、限定的集団的自衛権の行使が可能になっても全く変わらない。つまり戦争は憲法上あり得ない事態であって、研究者が何をやろうが戦争のために使われることは絶対にないと言えます。また、仮に将来、外国との共同研究開発の話がでたとしても、平和に資さない内容であれば移転三原則に基づいて否定されます。

(※3:前者は「戦争目的」、後者は「戦争目的」と「軍事目的」の両方の言葉を使っています。後者について、会議の資料によると軍事目的と戦争目的をたいして区別はしていません。何故なら米軍用研究は常に実際に戦争に繋がる可能性を秘めていたからです。つまり、どちらも「戦争目的」を主眼に置いたものと言える。「戦争を目的」とする研究は、時代が変わっても誰も賛成する人はいないでしょう。)

論点4:現場の研究者は声明に納得しているのか?

前述したとおり、現場の研究者の方々から声明に対する懸念が示されていますが、これは学術会議も把握されているようだということは、学術会議のWEBサイトを見れば容易に分かります。もし学術会議の総会決議の議決権を持つ研究者の中にこうした人がいれば、この声明が総会で議決されたときに反対したでしょうけど、そうした記録は見つけることはできませんでした。何が起こっているのか。そこで、ここでは少し中身の議論から離れて、学術会議の構成とあるべき姿についてふれて見たいと思います。

まず、とある研究者が、この学術会議の発出した声明をきっかけに、興味深い指摘をしています。曰く、学術会議の発足当時は、会員の選出方法は直接投票であったものが、85年に登録学協会という組織に候補者と推薦人を推薦してもらって会議し会員を決定する方式に変わり、さらに2005年には会員と連携会員が次の会員候補者を推薦する方式に変わったのだとか。つまり、昔に比べて、現場の研究者と日本学術会議の距離がますます遠くなってきた歴史があるのだそうです。そして現場の研究者である「彼らは学術会議を自分たちの代表だと考えていない」と指摘しています。

http://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/22/7/22_7_10/_pdf/-char/ja

日本学術会議の”現場”の雰囲気を私は全く理解していませんが、仮にそうだとするならば、声明の「上からの押し付け」に「学問の自由を守るために学問の自由を破壊する行為だ」と批判的な立場をとる研究者の存在も理解できます。

http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/2019_112_01/112-1_47.pdf

少し長くなりますが引用しますと、この研究者は、「安全保障と科学についての議論は,第2次大戦におけるわが国の状況に対する反省から始まっているわけですが,学術界として何を反省すべきかと言えば,それは「軍事研究をしたくない人に強制的にさせてはならない」ということに尽きるのではないでしょうか.それに対して,「すべての軍事研究を禁止する」という極端な反動が出てしまったことが,今のややこしい状態につながっていると思います.そうではなく,学者のコミュニティとして素直に「学問の自由」を掲げ,研究者の意思に反する研究を強制されることは拒否する,と宣言するほうが普遍的で筋が通っています.そしてそれが最終的に,軍事研究をしたくない人を他からの干渉から守るために,最も確実な道であると考えています.」と結んでいます。

実は声明に批判的なこうした研究者は、全く同じ趣旨ではないにせよ、学術会議の会員にもいらっしゃる。ところが、安全保障と科学という、メディアの批判にさらされる可能性の高い課題に、敢えて声を上げる方は少ないのだと思います。

もし自由な環境にないのだとしたら、非合理を非合理と主張できない雰囲気の中で何となく戦争に突入した大日本帝国を想像してしまいます。これは軍部内でもあったし、政治のなかにもあった。メディアにもあったし国民の中にもあった。非合理でも積極性が重んじられ消極的だと弱腰と糾弾された時代があった一方で、非合理な議論でも戦争に直結すると糾弾される時代がある。我々政治家としてみたときの戦前の反省の最大のものは、こういったところにあります。つまり、司馬遼太郎が指摘している様に思想というものは先鋭化する力を内在しているものであって、合理的判断ができなくなることこそ、忌避すべきなのです。戦争なんてしたい人いませんから。だから自由という足腰がなければ国家は弱くなる。

論点5:それでも防衛省の研究なのだから怪しいのではないか。

公開性・透明性・政府の関与という意味で、声明は正にそういう視点に立っています。そして防衛省は否定しています。あるべき学術会議の議論の方向としては、現場がそういう公開性や透明性、また政府の不当な関与について疑念を持つに至ったら、その通報を受け入れる仕組みを作り、その場で審査し、不当であると判断すれば、その時点で”声明”を出すのが望ましいのではないか。

以上、結論めいたことを書きますと、軍事と科学が緊張関係にあることを前提とすれば、議論の方向としてあるべき姿は、一般論としての善悪判断は困難であることに鑑み、公募制度の是非は個別研究内容に即して判断されるべきもので、それは一義的には応募しようとする研究者によるものであって、その上で外部から学術会議などの組織がチェックする、という方向であるべきだと思います。一方で、政府の関与によって研究の自由がはく奪されることは絶対にありませんし、軍事を理由に公開を制限されることもありませんし、何かを強制されることもない。これについて、もしそうした問題に現場が疑念を持つに至れば、その通報を吸い上げる組織を作り、あるいは通報を義務化し、組織的にチェックする仕組みを作るべきです。また学術会議の会員推薦方法については、敢えてどうするべきかは言いませんが、現場の研究者が日本学術会議を自分らの代表だと思える会議にしていくよう改善されるべきだと思います。

http://www.scj.go.jp/ja/scj/kisoku/01.pdf

念のためですが、日本学術会議は引き続き独立して運営され続けるべきだということは何も変わっておりません。