米国イラン関係について

イランの国民的英雄とされるソレイマニ司令官が米国によって殺害されたことを機に、両国の関係が更に厳しいものとなりました。正面衝突を起こそうという意思は両国ともないはずで、現状は厳しいながらも比較的管理された状況と言えます。ただ、イランが関与するとされるテロ組織が米国に対して活動を活発化させる可能性もあり、その進展は予断を許さない状況でもあります。少なくとも両国の政治指導者にはいかなる状況になろうと慎重で理性的な判断をしてもらいたいと切に願います。国内の人気取りや面子だけのために武力に訴えるようなことは厳に謹んで頂きたいと思います。

この米国の行動に戦略はあるのか

そもそも米国のこの行動がどのような戦略に基づくものなのかがよくわからない。米側の発表によると、同司令官は、イエメンやシリア、またカルロス・ゴーンが逃げて行ったレバノンなどでの海外作戦を指導、多大な犠牲を出しており、これが殺害の理由としています。

確かにこの司令官はどうやらコッズ部隊というイランの海外秘密工作部隊を指揮、 米国とイスラエルに対する過激な言動を続けている海外テロ組織を支援・連携していたと言われています。例えばシリアでのシリア政府を支援しての反アサド派に対する大量殺戮、レバノンでのヒズボラを支援してのイスラエルに対するテロ攻撃、イエメンでのフーシ派を支援してのサウジアラビアに対するテロ攻撃、またIS掃討作戦後のイラクでのシーア派イラク民兵を支援してのスンニ派に対する苛烈な弾圧を指導していたと言われ、まさに悪魔ともいえる人物であったとの評価があります。

恐らくイランの海外活動が肯定されるべき要素は一つもなく、国際刑事裁判所が扱う国際人道法に該当する活動を行っていたものと判断できますが、ただしこれらは司令官の問題というより国家意思の問題でもあります。司令官殺害という米軍の行動自体にここで疑問を呈するつもりはありませんが、 しかしその後に起こり得る事態と対処可能性をどこまで考えていたのか、司令官殺害作戦の戦略的側面が良く分からない。

巷の噂で、同司令官は、国民人気の高さから、かなりの政治力を持つようになっていて、イランの最高指導者や首脳周辺から疎まれていたところがあり、利害が一致する米側と当初から綿密に想定されたシナリオ通りに殺害を実行したと言う説もありますが、こうした陰謀説は戦略論を論じる場合は9割引きにして聞くことにしています。

殺害を計画した時点に時計を戻すと、国民人気の高いと言われている司令官なので(実際はそれ以外の側面がある)、殺害計画を実行すればイランの国民感情を徹底的に煽る結果になるため、イランは”何か”を報復として実行するだろうと考えるのが普通です。であれば起こり得る事態で想定されるのは、1つは宣戦布告を伴った正面戦争です。が、これは国際政治力と国力差からするとイランにとっては可能性はゼロではないけど難しいはずです。歴史的にも同様の事態が生じたときにイランは無茶はしなかった。2つ目は、イランが比例原則に基づいて限定的な報復攻撃を実施してくることです。実際にこれが選択されましたが当初の想定より限定的であったと評価されるべきです。3つ目は、核開発を再開し米国と非対称だけどもタメを張る力を持つことです。既に2015年のイラン核合意を米国は否定していますので、今回の司令官殺害によってイランが核開発を本格的に進める可能性があるのは米国としては想定されているはずです。 そして実際に核開発に言及しました。

米国はイランによる限定報復攻撃に対する対抗措置として(本質的には核再開発に対するものも含めての対抗措置なはずですが)更なる経済制裁を加えましたが、これでイランが折れることは全くあり得ない話です。従って今後イランは核兵器開発をある程度のレベルまで進める可能性が高くと考えるのが普通です。その時点までは米国がどのような経済制裁を加えようともイランは交渉に出てくる可能性は低い。そうなるとキューバ危機の再来となります。果たして米国がこのレベルまで事態が進展することを想定しているのか疑問に思います。

こうなると継続的に緊張を伴うというコストを払いながら力によって牽制を続けていくことでバランスをとることになり、既存の国際秩序システムが望む状況にはまったくならない。

米国は国際協調主義に復帰するべきだ

もう一つの問題は、現在の米国に戦略レベルでの国際協調が殆ど見られず、単独行動が多いということです。確かに歴史上アメリカは単独主義をとることもあります。イラク戦争のときもブッシュ政権は国際協調によるデメリット(合意形成に時間がかかり作戦行動の障害になるなど)を嫌い米英など限られた有志連合で実力を行使しました。ただ、それは戦術レベルでの話であって戦略レベルでの話ではなく、また政権の特色として発露するような単独主義ではなかったはずです。

例えばイラン核合意は、それ自体素晴らしいものでもなんでもなく、イランの戦略的脅威レベルを下げるために国際社会が編み出した妥協の産物であって、若泉敬ではありませんが、まさに他策ナカリシヲ信ゼムト欲スというものなのですが、米国がこの合意に異を唱えるのであれば、少なくともそれが国際約束なのであればなお、国際的な再協議から始めるべきではなかったのかと思います。

国際秩序システムの弱体化

そもそも現在の国際秩序システムは、第二次大戦以降、冷戦や地域紛争などの困難を乗り越えて半世紀以上にわたって米国を中心に国際社会が構築してきたものです。ところが、中国の台頭とテクノロジーの進化によって既存の国際秩序の脆弱性が指摘され始めたため、新しい秩序の形を模索する必要がでてきた。

そうした背景があるなかで、米国では経済のグローバル化による国内格差問題が顕在化して自国主義傾向を強めていった。つまりトランプ政権が特異な政権というわけではなく、米国の社会環境が生んだ大統領だということなので、ポストトランプがトランプ的でない保証は何もありません。だからこそ自国主義が単独主義に繋がり国際秩序が弱体化しているのだとすれば、放置すると国際秩序は益々脆弱なものとなる構造にあります。そしてそれは自国主義国家にとっても自国の為にはならないはずです。であれば、自国主義でも国際協調主義に復帰すべきです。本来、国際社会の筆頭格の米国が新しい国際秩序を模索すべきなのです。

イランと米国の歴史

イランに話を戻します。そもそも米国とイランの関係悪化には長い歴史があり、しかもそれは国際社会の秩序が形成された過程と密接に関係しています。そこで、少しだけ両国間の歴史について触れておきたいと思います。

発端は第二次大戦前にさかのぼり、連合国とソ連の関係の中で生まれます。大戦開始から2年後の1941年、ドイツが独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に侵攻すると、独の拡大を抑止したい連合国はソ連と提携し支援を開始します。英国はソ連援助の補給線を確保するために、自国の石油企業が開発利権をもつイランに目を付け、レザー・シャーに圧力をかけますが、そもそもシャーは中立を宣言していた上、シャーが枢軸国寄りであり、さらにこの外交圧力がイラン国民感情を刺激し親独暴動まで起きたため、シャーは連合国の要求を拒否。そのため英ソは共同でイランに侵攻して占領します。結果的にレザー・シャーは亡命、息子(即位してレザー・シャー)に帝位を継がせます。

こうしてイランは独ソ戦期の連合国にとって対ソ援助の最重要拠点として英ソの占領下におかれ、イランは後に連合国の一員として対独宣戦布告を行うまでになります。が、戦後、どうなったかと言えば、英国は素直に撤退するものの、ソ連はヤルタ合意であった戦後6か月の期限を超えても駐留を続け、イラン国内の独立運動や近隣国の親ソ勢力を支援するなど徐々に影響力を拡大していきました。

こうしたソ連の拡大傾向は、イラン政策だけではなく戦後直後の原爆開発着手、東欧諸国の選挙不当介入による共産政権樹立、ダーダネルス海峡地域の使用を求めるトルコに圧力をかけたことなど、様々な分野で見られ、これらがソ連にとっての自国防衛策であったとしても、連合国のソ連に対する不信が強まったのは事実で、その結果、ジョージ・ケナンの封じ込め論に代表されるように米国の対ソ戦略が協調から拡大抑止に転換していきました。その後、ソ連はイランから撤退することになりますが、このあたりから、中東は米ソ冷戦構造の狭間の中で翻弄されることになります。

当時の米国の基本戦略は、植民地地域に自治権と独立を付与することで、現地ナショナリズムとの協力を保ちつつ、影響力を維持することで、広い意味で西側に組み入れる方針でした。一言で言えば同盟網によって対ソ勢力拡大を図るということです。そうした背景で、いざとなれば秘密工作も多用したのが米国です。

特にアイゼンハワー大統領は対ソ戦包囲網の構築にCIAを多用したことで知られ、イラン政策は典型例となりました。イランの石油は当時も引き続き英のアングロ・イラニアン石油会社が独占していましたが、1951年に着任したモサデク首相はこれを不服としてレザー・シャーの反対を押し切り石油会社を国営化。米国はモサデクがソ連共産党と接近していると見てCIA工作で政権を崩壊させました。以降、亡命先から帰国したシャーは米支援の下、苛烈な独裁体制のもとでの世俗主義的な近代化を目指していきます。

ところがその結果、国内で強い反発が起きシャーは国外追放され、そのかわりに亡命中であったイスラム原理主義者であるシーア派のホメイニ氏が帰国して、1979年にイラン革命でイランイスラム国家樹立を宣言します。イスラム法(シャリーア)に基づくイスラム主義の台頭です。このイラン革命は同地域の冷戦構造に複雑微妙な影を落とし始めます。

というのも、このイラン革命で米国はイランという同盟国を失ったことになりますが、その結果、ソ連は米国が近隣他国のアフガンに介入してくるのではないかと恐れた。そのころソ連は自国防衛の為の干渉領域として隣接するアフガンに親ソ政権を樹立したいと考えていて、ソ連に近い革命勢力であるPDPAを使ってクーデターを起こさせます。しかしPDPAの急進的な改革でアフガン国民の間で不満が瞬く間に広がり、それに加えてイラン革命の影響もあって、イスラム主義者のムジャヒディーンによる反政府活動と内戦に発展しました。PDPAのタラキ首相はソ連に援助を求めますがソ連は当初介入には慎重でした。そうしているうちに、米側に近い首相補佐官アミンによるクーデターがおきたため、ソ連は米国の本格介入を恐れ一気にアフガンに侵攻することになります。

更にその結果、米はソ連のアフガン侵攻を中東支配と西側への石油ルートの寸断と受け止め、軍事費増加、ソ連への禁輸措置、モスクワ五輪のボイコットを行うに至り、新冷戦構造が深刻な状況になりました。特にレーガン政権は、ソ連を“悪の枢軸“とし、それまで核抑止戦略(MAD戦略)を精神錯乱だと断定し、核廃絶に向けて交渉を有利にするためとして核軍拡路線を突っ走りました。当然ながらソ連はレーガンのレトリックに大反対し、アンドロポフ政権は、レーガンの核軍拡は先制核攻撃を意図したものだと考え核拡大に走ります。

イラン革命は米国の安全保障を揺るがす極めて大きな歴史的転換点であったと言えます。そして同年、反米感情が高まったイラン国民が在イランアメリカ大使館を占領するという有名な事件が発生しますが、ここから両国は現在に至るまで国交を断絶しており、両国互いに敵対する関係が続いています。例えば後のレーガン大統領はイランをテロ支援国家と指定、これは現在まで続いていますし、その直後に米海軍はイランがペルシャ湾に機雷を埋設した報復として直接イランを攻撃、また同年米海軍がイラン航空機を誤って撃墜する事件が発生しています。司令官殺害事件の直後、ウクライナ航空機が撃墜され、一時騒然としてましたが、後にイランは誤って撃墜したことを認め、イラン政府はイラン国民から猛烈な抗議にあっています。当初、イランがそのことを認めなかったのは、この米海軍によるイラン航空機撃墜の歴史があるからなのだと思います。

海上自衛隊の中東派遣は問題ないのか

中東は複雑です。日本が直ぐに何かできるほど生易しいものではありません。そして現在緊張関係が高まっているのは事実です。

先日、計画に従って日本政府は海上自衛隊を情報収集の目的で中東派遣する命令を発出しました。これについて国民世論は完全に二分しており、野党は反対しています。しかし日本の生命線である原油は引き続き中東に頼っています。それは日本の船舶が頻繁に中東からマラッカ海峡を通って日本に航行していることを意味しています。緊張が高まっているからこそ情報収集の船を出すというのは、むしろ自然だと思います。

もちろん海上自衛隊の行動は日本の法律で厳しく制限されています。だから現場の自衛官に過大な負担を課すことになるとの主張もあります。しかし、政治視点からすれば、中東派遣の任務はあくまで情報収集なのであって、何かの事態が起きれば当面の対処として別の命令を出すこともあり得ますが、それ以上の事態が生じたら撤収することを旨としておかなければなりません。であれば、 必ずしも公表する必要はありませんが、 何がミッションの目的なのか、どういう状態になれば目的達成として撤収するのか、時限措置なのか、どういう事態が生じたら撤収するのか、などを明確にしておかなければなりません。

またそもそもこうした新たな任務にアセットを出せる十分な余裕が海上自衛隊にあるわけではありません。今後北朝鮮情勢が進展すれば、運用上の支障がでないとも限らない。 であれば戦略論としてリソース配分を考えておくことも必要なのだと思います。