極めて残念なことに日本学術会議の問題が政局ネタになっています。政治とアカデミアの信頼関係が悪化していくことは避けなければなりません。そもそも私も研究者でしたので、以前から政治とアカデミアの関係については思うこともあり、この機に合理的信頼関係が構築できる仕組みを整えるべきだと思います。
■簡単に事実経緯から
日本学術会議は210名の会員で運営されている学術を代表する(とされる)政府の特別の機関で、法律上その会員は同会議の推薦に基づいて総理が任命することになっています。今回、半数が改選となり、105名が同会議によって推薦されたのですが、政府は6名の任命を見送りました。この6名が過去の政府政策を批判していたことから、反対意見潰しだ、と共産党の赤旗新聞が報じて批判論調の端緒を切りました。それは本当なのか?なぜ任命しなかったのか?本質的課題は何か?どう改善すべきか?などについて、私の意見として解説したいと思います。
■まず学者とは
まず重要なことを最初に申し上げますと、学者であろうが多様な意見があるということです。自然科学系はそれほど意見に差がでるわけではないのですが、人文系は特に意見が分かれます。例えば、自衛隊の存在は違憲かどうかでは、学者でも合憲と違憲が分かれます。
コロナでもテレビに専門家が出てきて、学術界を代表する意見が如く、ぺらぺら喋っている人がいましたが、私は「社会」に対してこういう一方的な意見を言う人を学者とは思っていません。なぜならば、日本学術会議が発行している「行動規範」(※)にもあるとおり、違う意見があることを認識し、それも併せて社会に示すのが本来の学者の姿だからです。
逆に言えば、反対意見や違う意見を全く無視し「社会」に対して自らの意見を一方的に主張することをアドボケートといい、酷い場合には政治化していると認識されます。言論や表現の自由はあるので、政治化しても全然結構なのですが、政府や社会への助言機関としてはアカデミアとは当然認識されなくなります。
※科学者の行動規範ー日本学術会議(特にIII章「社会の中の科学」)
http://www.scj.go.jp/ja/scj/kihan/
11節「意見の相違が存在するときはこれを解り易く説明する。」
12節「科学者の発言が世論及び政策形成に対して与える影響の重大さと責任を自覚し、権威を濫用しない。」「科学的知見に係る不確実性及び見解の多様性について明確に説明する。」
13節「政策決定の唯一の判断根拠ではないことを認識する。」
■日本学術会議の役割とバランス
その上で、日本学術会議の役割は大きく分けると2つあります。1つは学術そのものの振興やそのための政策立案です。もう1つは、社会のために学術的知見をもって課題を解決する活動やそのための政府への助言です。前者を「学術のための政策」、後者を「政策のための学術」と言います。
従って政府への助言は与えられた主要な役割なのですが、上で述べたように、学者でも意見は多様ですので、日本学術会議の構成のバランスは極めて重要になります。
例えば、自衛隊は違憲だ、という学者で埋め尽くされていたら、政府への助言は常に違憲を前提としたものになります。これでは国民(の代表)への助言という機能は十分に果たせません。(今回任命が見送られた方が違憲だと表明していたという意味ではありません。あくまで例示です。)
大切な部分なので敢えて繰り返しますが、反対はあっていいのです。声高に叫んで頂いても結構なのです。問題は、上で触れたように、政治への助言機関としての組織としてバランスがとれていなければ問題なのです。
そして学者としての行動規範としてのバランス、つまり先ほども触れましたように、自分とは違う意見があるのであれば、それを認識して併せて提示するべきなのです。一方的に主張する(アドボケートする)人は、助言機関としては、もはや学者とは言えなくなる、ということなのです。
実はこの大切な胆の部分が学者サイドで殆ど認識されていないことを感じます。これは学者が政府内で政策立案に携わる経験や機会が殆どないため、政策リテラシーが不足していることから生じるものだと感じています。
■日本学術会議の構造上の問題
現在の財源方式と設置形態では必然的に生じる2つの構造上の問題に触れたいと思います。先ほど、日本学術界の役割は2つあると言いましたが、これらによって、日本学術会議の重要な役割である「政策のための学術」が機能しにくくなっていると考えます。(なお過去にも日本学術会議の改革案が示されていますが、財源と設置形態という本質的問題は解決されていません。)
●1つ目は、話題になっている会員の任命制度です。先ほどバランスが極めて重要だということを触れましたが、現在の制度では、新会員は現会員の推薦に基づいて任命されます。コ・オプテーションという方式です。改善の余地は大いにありますが、これ自体が決定的に悪いというより、改善の努力の結果として生まれた制度ではあります。
実は昔は一般選挙によって会員が決められていました。その結果、田中角栄もびっくりの大選挙運動が展開され、それこそ某政党が本格的に関与した時代もあったようです。その結果、影響力のある学会とか学者が幅を利かせて学者のバランスが図れなくなった。そこで現在の推薦制度になりました。従ってこの時の改革の趣旨は理解できる。
ただその結果、3つの問題が生じています。1つは、現場の学者からみて自分ら学者全体を代表する機関とは思われなくなったこと。2つ目は、新しい分野や新しい解釈、に対する包容力が少なくなり柔軟性が乏しくなること。もう1つは、ゆがんだ独立性意識からくるのだと思いますが、コ・オプテーションによる推薦基準の中に、「政策のための学術」、つまり政治との対話を通じて課題や前提を共有し、真の独立性をもって学術界として正しい提言ができる、という視点でのバランスが図られていないこと、です。逆に言えば、政府への政策提言を前提としたバランスよりも学会バランス(あるいは性別や年齢など)を取るだけになっていて、意見のバランスをとる項目は皆無です。
ここは日本学術会議の構造的最大の問題なのだと思います。つまり放置すると政策のための学術という部分が機能しないのです。今回、菅政権はこの部分のバランスを図ろうとしたのだと理解しています。なぜならば外形的に見て、過去に政府政策に反対した多くの方も拒否されず推薦通りに任命されているからです。もし反対意見を表明したから任命拒否されたのであれば、もっともっと任命者は少なくなっていたはずです。
前回もある種の任命拒否が起こっているのですが、話題にならなかったのは、日本学術会議が任命枠以上の推薦人を政府に提出してきたからです。そもそも今回もこうしていれば、問題にはならなかったのではないかとも思いますが、本質的な「政策のための学術」上のバランスを制度的に担保することにはなりません。
ではこのバランスを適正に担保できる制度はあるのか。まさに問題の核心の部分だと思いますが、諸外国のように完全独立の設置形式であれば財源は政府からの委託研究が主だったものになりますから、提言実現のための努力が必要になり、ある程度自動的にバランスがとれるようになります。なぜなら課題設定や前提条件を政府と共有する必要があるからです。
一方で、日本の場合、政府特別機関は提言実現のために努力を要しない設置形態ですから、政策のための学術が機能するためには、バランスを外形的に一律の基準で取る必要がでてきます。しかし実際は明快な基準を設定することは困難なはずです。従って政府が敢えて判断したとして社会が理解をするのであれば良し、しないのであれば現在の設置形態は複雑多様化する社会課題解決には馴染まないということになります。巷では、日本学術会議見直し論が任命見送りの論点そらしだ、と指摘されますが、そうでもないことが分かると思います。
なお、政府によって任命が見送られたことについて、政府批判の委縮効果が働くために「学問の自由」が侵害されたと主張される方がいますが、学問は全く自由にできます。既に述べましたように、反対意見を表明された方も大勢任命されています。こうしたご意見は「政策のための学術」上のバランスに対する意識がない証左と言えるのだと思います。繰り返しますが、批判や反対は、あって然るべきです。ついでに言えば、日本学術会議に入りたいから学問をする人にとっては委縮効果が働くかもしれませんが、そもそも学問を追求するよりポストを追求する方は、日本学術会議の会員に値しないのだと思います。
政策のための学術を考える上でのバランスなぞは考える必要もないと思われる学者もいらっしゃると思います。であれば政府への助言機関としての機能を捨て去り、独立して学術のための活動だけ行えばよいわけで、そうなると既に政府の特別な機関である必要も完全になくなります。
●2つ目は、独立性の定義づけと認識の問題です。日本学術会議は政府機関であって財源も100%政府に頼っています。そのため海外の同様機関からは、政府からの独立性に問題があるのではないか、との指摘を暫し受けます。しかしそこに問題が100%あるわけではなく、むしろそういう指摘に対抗するために、間違った独立意識を持つ方が多いのが現状です。
例えば政治とは接触もするべきではない、などです。諸外国では政策のための学術の重要性に鑑みて、政治と学者のペアリング制度やインターン制度が設けられているくらいなのに、極めて前近代的発想です。実際に一般の学者のネット書き込みにも散見されます。例えば新聞記者は政治とは独立ですが、頻繁に接触と交流があり、独立だといって取材もせずに勝手に記事を書くようなことはしません。記事が政治で歪められないことが独立の本当の意味だからです。
この独立性認識の歪みによっても、「政策のための学術」が機能しにくくなっていると思います。例えば、この数年、同会議は政府に答申や勧告を全く出していません。コロナという重大な課題に対しての提言は僅か2つ。それもデジタル化が重要だというものと、政府や地方自治体には専門家による常設機関を置けという寂しい内容です。諸外国の学術界の量と質の豊富さと比較すると差は歴然です。
一方で、コロナ以外では提言の数自体は多くだされています。そして答申や勧告が少ないことに対して同学術会議からは反論も表明されています。「何言っているんだ、、その他の提言は無尽蔵に出しているぞ」、と。しかしですね。ここにも問題が潜んでいます。
よく私が引き合いに出す例ですが、隣の家の夫婦喧嘩がうるさいと言って、双眼鏡で観測して提言をまとめてホームページに上げたところで、なんの解決にもならないものです。むしろそのお宅に伺って状況を把握し課題を理解した上で改善提案を作成し、努力も伴って市長に助言するものなのだと思います。意外と課題を把握したら、自分の家のテレビがうるさかったのが夫婦喧嘩の原因かもしれないのですから。
つまり、コロナもそうですが、益々多様化する社会課題に対して、政治だけでも、学術だけでも、答えられない時代だからこそ、両者が合理的信頼関係の下に、課題と前提を共有した上で、学者は政治に影響されることなく独立して学術的観点からのみ政治に助言することが必要なのであって、独立性とは助言の独立性なのであって、政治が立っている課題や前提を全く無視して提言を作ったとしても、使えるものがあるはずはないのです。せっかく素晴らしい提言を作っていただいているのですから、前提条件を正しく設定すべきなのです。
しかも、提言をホームページに上げて関係者に資料を配布しただけで、見てくれ、あとは知らん、使うなら使ってくれ、我々は仕事をした、というのは、社会課題を解決する姿勢としては国民に対して不誠実だと見えますし、いかにも社会に対して上から目線とも見えてしまいます。おそらく政治や政府に対して提言を実現させるべく働きかけることがあれば前提条件のすり合わせが自然と図られたのだろうと思うと、日本の英知が真摯に作る中身の濃い提言であるだけに少し虚しさを感じます。
●以上に指摘しましたように、財源を100%政府に頼った特別の政府機関という形式をとると、政策のための学術を機能させるには任命問題と独立性意識問題が生じるという構造上の欠陥があるということであって、これまで社会課題が単純であった時代には、学術は学術のための学術をやっていればよく、それほど問題は顕在化しませんでしたが、社会課題が複雑多様化すればするほど構造上の問題が顕在化するということなのだと思います。
財源を100%政府に頼らなければ、先進諸外国のように政府や政治にヒアリングを繰り返し行って社会が求める課題設定を行う必要があるので、必然的に政策のための学術を行う上での研究者の構成上のバランスが図られることになりますし、独立性意識の問題もそもそも存在しなくなります。
■改善策
以上述べましたように、ポイントは、「政策のための学術」を機能させることにあります。批判めいた書き方になったかもしれませんが、日本学術会議の構造上の問題を指摘したいのです。同会議の会員は、日本を代表する素晴らしい研究者です。結局、独立性の定義づけが不完全であったり、政策立案現場の経験が乏しく政策リテラシーの問題があったり、政策のための学術に必要な構成上のバランスに問題があったりすることが問題なのだと思います。
これを実現するためには、幾つかの方法があると思います。が、現在、私自身、党に設置された会議の役員を務めておりますので、詳しくは方向性が固まってから報告したいと思いますが、日本学術会議問題に拘泥されることなく、この本質論を機能させるため、同会議の運用改善のほか、理想的とされる欧米並みの設置形態や財源を含めた制度改革、更には同会議とは別に独立シンクタンク設置なども視野に入るものだと思います。繰り返しですが、それはコロナや気候変動、米中対立やフェイクニュースなど、複雑多様化する社会にあって、政治と学術界の合理的関係を確立し、解決していくことこそが重要なのです。海外から見たら内輪もめとしか映りません。