青年局の活動の一環で、我が党ホープの小泉進次郎団長の下、台湾に出張して参りました。実は社会人になって欧米への出張ばかりであったので、政治家としての1期目はアジア圏の人脈を築きたいという思いと、我が祖父は台湾総督府に勤務、親父も台湾育ちという意味で特別な思いがあるということ、、そしてまた近隣諸国との困難な外交課題がある中で台湾は重要だという思いなどが織り交ざって、新人の厳しい懐事情もありましたが、思い切って行って参りました。
私にとって短期間に二度の訪台となります。今回は、李登輝元総統講演会(リーダシップのあり方と日本が向うべき方向性などご意見拝聴)、馬英九総統との会談(大震災支援に対する謝意伝達と今後の新しい日台関係についての議論)、立法院議員との議論(漁業協定など)、外務次官との懇親、プロ野球始球式(台湾一般人への謝意伝達のため)、1999年に台中地区で発生した大地震の被災地訪問(青年局のチーム11としての活動の側面と311大震災を忘れないために日本がするべき課題を考えるため)、忠烈祠国立墓地献花(表敬)、李鴻源内務大臣陪席のもと東日本被災者救助隊の皆様との面談(謝意伝達)、八田興一記念館・烏山頭ダム視察など、短時間で相当過密なスケジュールでした。
台湾の歴史を考えた時に蒋介石という人物は欠かせませんが、その蒋介石を考えた時に欠かせないのが鄭成功(ていせいいこう)です。時に17世紀。明が清に駆逐されつつあった時代です。
鄭成功は福建省出身の父と長崎県平戸市出身の日本人母をもつ、平戸生まれので、清の勢力に徹底交戦し、止む無く勢力挽回のために当時オランダが支配していた台湾にオランダ人を駆逐して逃れ移った人。特に台湾人からは英雄視される逸話の多い人物で、父が清に投降した際に成功は泣いて止め今生の別を告げたとか、日本式の甲冑をつけた鉄砲隊を配備したとかなどが残っています。
清の時代には中国本土から大勢の人が台湾に移住しますが、清にとって台湾はそれほど重要な位置づけではなく統治も厳密ではなかったそうです。そしてそののちに日清戦争が起こり、下関条約を経て、台湾は日本に割譲されることになります。
そこから半世紀に渡る日本の統治が行われますが、終焉はご存知の通りサンフランシスコ平和条約。そして直後に日本は台湾と日華平和条約を締結、そして72年の日中平和友好条約によって断交となります。この間に蒋介石率いる国民党は、奇しくも鄭成功と同じような運命を辿ることになります。
この二人に共通することは本土から来たということです。そしてその後の台湾は、蒋介石の息子の蒋経国(しょうけいこく)(「民主化しなければ国際社会の中では生きられない」として国民選挙によって総統になった人)により民主化され、さらに「私は台湾人であり台湾人の台湾を築かなければならない」として台湾のメンタリティを的確に掴み選挙で総統になり、台湾成長の礎となった李登輝先生(今回の訪問で会談に立ち会う栄に浴しました)、独立を唱えた民進党の陳水扁を経て、現在は国民党の馬英九が総統になっています。
つまり、台湾は台湾であるべきだという考え方から、徐々に独立だということになって、今のままでいいじゃないのという変遷を経ていることになります。そして最近では、台湾は中国本土とECFAという貿易協定を結び、サービスや商品の貿易協定を結ぼうとしており、過去にない台中関係を作り上げています。ついでに言えば、馬相当は、日本統治時代の呼称を日治から日拠にすることを表明しています。明らかなる中国シフトに見えます。
こうした歴史を踏まえたうえで、忠烈祠国立墓地(辛亥革命や抗日戦争などで戦没した英霊を祭る施設)での献花に陪席し、李登輝元総統や馬英九総統との会談を終え、最近の台湾の動向が北東アジアの安全保障にどのように影響するのか、特に日本として今後どのように中国と向き合っていくべきなのか、また、冷え込んでいる日韓関係を考えたときに、同じ日本統治時代を経た台湾となぜ全く違う事態に陥っているのかも、非常に考えさせられました。
また与野党立法委員(国会議員)との意見交換会を終えたのちには、先に締結した日台漁業協定について、確かに尖閣をめぐる領有権の主張のぶつかり合いに新しい一石を投じましたが、一方で沖縄などの漁業者の間で新たな問題を提起してしまっていることを今後どのように収拾していくのかも考えさせられました。
それ以外にも、今回の訪台ではここで書ききれないくらいの多くのことを考えさせられました。
いずれにせよ日台関係は非常に重要ですが、特に今回の自民党青年局の訪問は過去最大規模の訪台事業であり、新しい日台関係を築いていくきっかけにしなければならないと強く感じています。