久しぶりの善然庵閑話シリーズ(政治とは直接関係ない取り留めも無い事を書き綴った散文で、遠藤周作の狐里庵閑話を捩って名付けたもの)です。
今日、とある御仁との会話のなかで故竹下昇先生の話題になり、それでもってヘルマン・ヘッセをふと思い出してしまいました。ヘルマン・ヘッセなどと40代の中年の私が言えば、恥ずかしげもないのかと罵倒されそうですが、誰しも通った青春の時代(私もあったんです)、ご多分に漏れず、ヘルマン・ヘッセをいくつか読み、そうだこれでいいのだ、などと、自分の悩みを消化していたことを思い出します。今となっては単なる恥ずかしい苦く酸っぱい思い出です。
でも、25歳くらいのときに読んだ、とても印象に残ったヘッセのマイナーなエッセーがあり(駄洒落じゃありません)、それは「人は成熟するにつれて若くなる」というエッセー集に納められた、「日本の森の渓谷で風化してゆく古い仏像」というものです。
と言ってもなんでこんなエッセー集を25歳ごろに読み始めたのかも全く覚えていませんし、タイトルさえ正確に思い出せずネットで調べてようやくわかったくらいのものですが、どんな内容なのか、正確に現代に再生する力は私にはありません。
ただ、雰囲気だけ伝えれば、
雨や霜に晒されて静かに目標に向かっていく柔らかな顔をした仏陀像。その目標とは、自らすすんで森の中で朽ち果てて形のない無になることであって、客観的に見るとその行為自体が究極の高潔であって、その無の中に万象全てが含まれている、みたいな感じです。
まるで日本人のように人間の内面を追求する人がヨーロッパにいたのだという驚きと共に(ヘッセらしい)、こうした内面追及が人類普遍的なものなのかもしれないという勘違いをしながら読み耽った詩です。
般若心経にも色即是空というのがあります。万物すべて因果でつながっていて因は果になり果は次の因になる。形あるものは全てこの因果のサイクルの中の一現象でしかない。だからこそ、私のような世俗の人間自身が形のない空なるものであって、そんな空が自分の基準で判断する欲望やら怒りやら嫉妬なるものは当然のごとくすべてが煩悩でしかないというもの。
ヘッセの内面世界は実はこうした般若心経の教えをも超越した、無に向かうというダイナミズムの美学を感じます。
翻って政治における無とはなにか。それは公僕に徹することであろうか。ある種こんなどうでもいいことをぼやっと考えてしまった一日でした。