【善然庵閑話】インパール

インパール作戦

インド北東部マニプール州、と聞いてもピンと来る日本人は少ないと思いますが、その州都であるインパールという名前は、おそらく未来永劫日本人の心に焼き付いて離れないのだと思います。その地は今、インドのモディ政権にとって国内統治の意味で最重要地域になっています。

なぜこの話題なのかというと、実は今夏にインパールでの記念式典に参加するためにインド訪問を計画していたのですが、暴動が発生したとのことで中止になったため、思いだけが取り残されたので書き記しておくことにしたものです。従って、何かを皆さんにお伝えしたいというものでもないので、久しぶりに「善然庵閑話」シリーズとしました。

(多民族多言語国家インドとグローバルサウス)

インドは多民族多言語国家であることは有名ですが、東北部ほどこの傾向は強く、マニプール州も、中心部のメイテイ族のほか、山間部のクキ族やナガ族など、多くの民族を擁しています。ただ、この辺りはモンゴロイド系が多いため、日本人と見た目はそれほど違わず、インドらしくないインドなどとも言われているらしい。

多民族国家を統治するのはどの国でも大変で、インド政府もいわゆるアファーマティブ・アクションの一環で、指定部族に対して就職や税制や土地占有などの優遇政策を講じていますが、何をするにしても政治的にセンシティブな問題です。今回のインド北東部の暴動騒ぎも少数民族を巡る争いで、具体的には、中心部のメイテイ族が指定部族に入っていない(優遇されていない)のは違憲だとするマニプール高等裁判所の判決があり、これをきっかけに、周辺少数民族からの大反発とデモが始まり、内乱に発展したとされています。

参考)時事通信)部族衝突で54人死亡 インド、デモ隊が暴徒化(5月7日)

現在は、当局が強力な法的措置を講じて、発砲許可を与えた上で1万人規模の軍や機動隊からなる治安部隊を派遣し、デモを鎮圧しているために徐々に混乱は収束傾向にあるようですが、17日の時点で73名の死亡者、243名の負傷者、4万人規模の避難民が発生ということですから、暴動規模は決して小さいものではありません。現在も、ネットや物流の遮断、小規模衝突は継続していると言います。

政治的には、クキ族選出の州議会議員がメイテイ族中心の州政府運営を厳しく批判してクキ地区の自治権を求める運動を展開、また州住民は暴動処理で中央政権の積極関与が見えないとの批判があり、さらに言えば、そもそも暴動の背景にミャンマーからの避難民増加によるクキ族人口増加、ミャンマー国境の麻薬栽培、地政学的観点など、様々な憶測があることが、混乱を強めているように見えます。

実はこうした混乱は過去にも何度も発生しています。それだけ、多民族国家の統治は日本では考えられないくらい大変だということです。そして、そのためのインドの統治機構は極めて特徴的なものになっています。その典型例が、全インド公務職と言われるもので、地方州政府の課長級以上のポストは全員中央政府から派遣されるというもの。優秀で意識の高い人材を中央で一括採用して地方に配する代わりに、強大な権限を州政府に移譲しているとも言えます。

いずれにせよ、インドは、いわゆるグローバルサウスと呼ばれる新興国や開発途上国側のリーダーだと自ら自認しており、国際場裏ではその存在意義と発言力が益々高まっていますが、そのインドの政権が抱える決して小さくはない課題が、国内の統治システムと民族間対立であることは、しっかりと認識しなければなりません。

(インパールと日本)

インパールが日本で有名なのは、旧帝国陸軍が大東亜戦争で最も無謀と言われた作戦の攻略目標地点だったからに他なりません。この作戦の戦略目的は、インドを英国から独立させること、そのためにビルマ防衛、そして補給路である援蒋ルートの遮断でした。援蒋ルートは正確に言うと4つのルートがあったようですが、インパール作戦は最後に残っていたビルマルートの遮断を狙ったものでした。そして、最も無謀との汚名通り、この作戦で7万人近くが戦死しています。そして、もっと悲惨なことに、作戦失敗後から敗戦までの約一年間で、更にこの地で10万人の将兵が命を失ったと言われています。

私が非常にシュールだと感じるのは、敵の補給路を断つという作戦で、自らの補給を考えていない、ということです。全てが現地調達を前提としているのですが、そのための情報収集もなければ細部計画もなく、従って各フェーズの実行可能性も検討されていないという有様でした。実はこの作戦は俄か作りのものではなく、開戦当初から大本営陸軍部によって企画されましたが、当時も非現実劇であるとして多くの参謀から否定されていました。実際の作戦指導をしたのは、牟田口第15軍司令官ですが、牟田口が大本営に参謀として勤務していた時は、この作戦には否定的であったと言う記録が残っています。

なぜ牟田口が転向したのかは分かりませんが、ミッドウェイ海戦で海軍が壊滅的打撃を喰らった以降、徐々に敗戦色が強くなっていく中で戦争指導部の意識も暗くなっていたものを、何とか起死回生の一撃で立て直しを図ろうとしていたのではないかとの解釈が一応は共有されているように思います。だとしても、全く成功する見込みのない作戦は、当然起死回生にもならないのは明らかです。

一方で、日本目線のインパール検証が多い中、笠井亮平先生は、英印目線のインパールの戦いを書いています。イギリスでは、開戦直後から日本軍の快進撃で撤退を繰り返し、インドがアジアの最後の砦になっていたこと、反転攻勢の機会を常に狙っていたこと、そのために緻密な情報収集と細部の作戦計画を立てていたこと、全体としてはイギリス優位で進んだ戦いだったものの、戦局を左右しかねない局地戦では辛うじてイギリスが勝っていること、などから、イギリスでは、「東のスターリングラード」ともいわれ、ノルマンディーやワーテルローを押さえて歴史上で最も重大な戦闘であったとしています。

いずれにせよ、名著「失敗の本質」だけではなく、多くの著作で細部にわたって検証されているインパール作戦。大きな組織が犯す失敗をしっかり学び、そうしたことに陥らないよう、体制・制度・運用・意識の各面から常に検証する必要が議会にはあります。

(参考:インパールに関する過去の投稿