現在審議されている安保法制は、紛争未然回避法案です。本来、紛争を未然に回避するには何をどうすればいいのか、を決断して苦労してやっているものです。それが戦争法案と喧伝されています。
この安保法制について大多数の憲法学者がこぞって違憲だ、と主張されています。確かに真摯に受け止めなければなりませんが、憲法学者って6割が自衛隊の存在自体が違憲だという現実社会では化石みたいな存在。災害発生時に助けに来てくれたのは憲法違反だと訴訟を起こしそうな勢いです。
さらに言えば、自衛隊の存在が違憲だという憲法学者の大多数95%弱が憲法改正して自衛隊の存在を認める必要すら無いのだとか。存在位は誰が聞いても認めるべきではないのか。
彼らの意見は論理で言えば理解します。が、現実社会では理解に苦しみます。
かつて、論語と算盤を著した渋沢栄一を思い出します。算盤が論理、論語が現実。論理だけで突っ走っても神学論争にしかなりません。いわゆるドツボ。
なぜならば、論理で言えば、現在の安保法制は明確に合憲の論理があるからです。
もし論理で押し通すなら、最終的に合憲か違憲かを判断するのは最高裁判所なはずです。立法府は立法府で立案する法律が合憲だという論理を元に立法するわけですが、それで具体的な権利侵害が生じたら違憲審査を最高裁に求めればよいはずです。仮に無茶苦茶な総理が将来現れて、合憲の論理さえない、とんでも法を創ろうとしても論理がないので間違いなく立案さえできず、仮に立案できたとしても成立するこはなく、まして仮に成立したとしても、違憲訴訟が直ぐに起きるはずですし、選挙の洗礼も受ける。だから、民主主義国家として成り立っているわけです。ここが論理の終着点。証明終わりでQEDです。
一言で言えば、1×1=1と、(−1)×(−1)=1を争うようなもので、合憲違憲の言い争いは意味がない。最高裁しか、1か(−1)を最終的に判断できない。
本当の最大の政治の課題は現在の安保法制の先にあるものです。ここをバランス感覚を持ち続けてハンドリングする必要があります。そういう意味では批判は常にあってしかるべきで、批判のある国は真っ当だと思います。しかし、何をやるかよりも、遥かに、何をどうやり続けるのか、どうバランスを取り続けて進んでいくのか、の方が重要です。この法案は紛争を避ける意味でも外交の最大のツールとしても絶対に通す必要があると思っています。これは親分がそういうからではなく、私自身、そう思っています。
なぜそう思うのかというと、例えば現実の社会で、この法案を審議しているだけで、近隣諸国となんとなく上手くいきそうな兆しが見えてきていると感じるのは私だけでしょうか。アメリカとの距離が2012年あたりに比べて急激に良好になってきていると思うのは私だけでしょうか。国際政治は国内の論理だけで生きていけない世界だと感じているのは私だけでしょうか。