【善然庵閑話】岡倉天心と日本人の相対性

日本人とは、と問われたときに、日本人ならば殆どの人が、これこれしかじかと答えるように思います。確かに日本人による日本人論は巷に溢れていますし、これほど自国やその国民性の分析を好む人種というのも珍しいものなのかもしれません。

それは、私が度々引用する内田樹も指摘している様に、日本人は相対的であって、絶対軸を持たないか持っていると実感できないので、常に周囲の事、例えば他所の何々人はどうしたこうした、何々国はああしたこうした、と比較分析しながら自分の立ち位置を確認しないと不安になるのかもしれません。

これは、古来の日本の宗教観に基づくものであるように思いますし、仮にラーとかオシリスとかキリストとかモハメッドとかの絶対神を信仰する国であったら全く違う文化が生まれていたものだろうと思います。

日本人が相対的であることは、もちろん、内田樹自ら明かしている様に、何も内田氏が独自に編み出した思想でもなく、古来からなんとはなく日本人が漠然と自覚していた心を再掲していることでもあります。その直近でいえば丸山眞男などです。丸山にも私自身、内田樹と同様に、その行きつく主張の結果にはさっぱり共感はできませんが、その言論のプロセスには大いに痺れたものです。

一方で、岡倉天心は、茶の本(村岡博訳)で明快に書き残している様に、不完全であることを崇拝している人種と言っています。曰く、真の美というのは、不完全を心の中で完成させる人によってのみ見出される、と。確かに茶道は複雑なぜいたくよりもむしろ単純の中の慰安を教えるし、宇宙に対する相対観を定義するわけで、それをすんなり受け入れるのが日本人です。であれば、対象物に完全を求めても、それはそれ自体として褒め称えるべきことではあっても、結局は相対的なものです。

一定とか不変は単に成長を停止する言葉であって、定義は常に制限であると岡倉天心は喝破します。国は社会の慣習を守るために個人を絶えず犠牲にするし、我々は恐ろしく自意識が強いから不道徳を行うし、他人に真実を語ることを恐れているから良心を育むし、自分に真実を語ることを恐れるから自惚れを避難所にする、と反語的に続けます。

しかし、老子的に終わらないのが日本人なのだと私は解釈しています。結局、世の中が相対に支配されていることを認識し、だからこそ常に前進することを意識するからこそ、日本は発展してきたのだということもできます。

トヨタのカイゼン方式は世界の経営者ならば誰でも知っている言葉ですが、それに胡坐をかくようなことはない。安倍政権も5年前の金融政策に胡坐をかいていることはまずありえない。常に変化をし続けなければ、皆さんが心の中で美を完成することはないのだから。

ところが為政者は国民が心の中で美を完成させるために政治を行うわけではなく、対象物が完全な美たらんことを求め不断の努力を行うのが普通です。であるならば、このギャップを常に埋める不断の努力も必要です。

ということで、本日より暫くの間、東京を離れられない生活に入ります。ここ1〜2年で急激に悪化している安保環境に万全を期すためですが、今まで仕事が終われば”終わった”と思える空間が家にあったのに、”終わった”と思えない空間に蟄居を命じられた気分です。そうなると、人間取り留めもないことを考えるもので、少し出てきた腹を摩りつつ、ヘルシア緑茶を飲みながら、お目汚しとは知りつつ書き残した次第です。