(写真出典:wikipedia)
昨年あたりから近現代史について筒井清忠先生に学ぶ機会を頂き、大変幸運だと思いながらも知識の少なさから歯ぎしりをする場合が多いのですが、改めて別の機会で先生のお話を伺う機会がありました。題して近代日本の政治的非常事態。話は二・二六事件についてです。
大変多くの示唆に富む話で結論だけ掻い摘むことも難しいのですが、敢えて冒頭に本旨だけ言えば、事件はご存知のように、皇道派青年将校がクーデターを起こすものですが、目的であった皇道派政権樹立を達成するためには天皇のご聖断(裁可)が必要であった。一方で暗殺された内大臣の秘書官長であった木戸幸一が早々に暫定内閣樹立阻止のために天皇の方針を叛乱鎮圧一本に絞ることを打ち立てたため、事後に多くの皇道派重鎮が参内して暫定内閣樹立を天皇に上奏しても、首相臨時代理が閣僚の辞表を纏めて天皇に提出しても、天皇が拒否し続けたため、反乱軍の成功に帰すことはなかった。つまり、木戸幸一の洞察力と行動力によって属人的にクーデターが回避された、というもの。なるほど。
更に言えば、事態収拾にあたった陸軍中央の動き。一言で言えば動きが早い。その理由には少し歴史があるそうな。もともとの統制派中堅幕僚による初期の研究テーマは高度国防国家建設。その流れで後に片倉衷大尉らが、政治的非常事変が勃発した時の当面の対策と中長期的国策の検討を行って報告書にしたのが1935年の「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」。政治的非常事変とはまさにクーデターのことで、統制派と皇道派の対立が深刻になっていたからこそ予見していたのかもしれません。
この報告書が事後の陸軍中枢の行動の参考にされた可能性は高いといいます。確かに事変後ほぼ丸1日で歴史上3回しか発出されなかった行政戒厳令の天皇裁可までこぎつけ、戒厳令が発出されたころには、彼の有名な奉勅命令(反乱軍の原隊復帰命令)の準備が始まっていたというのですから、まるで周到に用意されていた行動に見えます。当時の軍隊が実戦経験が豊富だったというのも大きいかもしれませんが、天皇と政治が絡む行動なので単純なオペレーションではなかったのだと思います。いずれにせよ、周到な準備による対処のシステム化が為されていたとも言えます。
危機の対処には、指導者層の属人的能力、平時からの想像力と対処ルール整備、が必要だということを、たとえは悪いのですが、物語っているのだと思います。もちろんそれだけではなく、更に言えば、迅速な行動、情報や意識の共有、様々な事柄が求められます。しかし今回のコロナ感染症対策で思うのが、やはり平時の想像力と対処要綱策定。日本人はこの手の問題が不得意と言われます。なぜならば、起こってもいないことを、起こった時にどうするという議論を進めるのは、なんと骨の折れることなのか。私自身も経験があります。起こらないよ、そんなことは、という白い目で周囲から見られるのを横目に、事を運ばなければならないからです。
しかし、これまでも、結局起こったじゃないの、と言う羽目になったことが多い。もちろん、平時に立案した計画がうまく行くとは限りませんが、検討しておくことは重要なのだと思います。平時からプランB研究が必要です。