戦没者追悼式と歴史観

終戦から75年となりました。私が生まれたのは1968年ですから、終戦がその僅か23年前であったことを改めて思うたびに驚き、戦争の惨禍が実は思うほど遠い過去のものではないことを感じます。改めて、現在の日本の礎を築いていただいた先人先達に心から感謝し、また戦時において祖国の安泰を願い散華されたご英霊の御霊に心から哀悼の誠をささげます。本日、全国戦没者追悼式に参列してまいりました。

月日が経つほどに、巷で懸念されることが、悲惨な戦争を語り継ぐ者が少なくなっていくことです。だからこそ、歴史を文章で残しておくということは極めて大切なことです。しかし、一言で歴史と言っても、極めて重層複雑で立体的なものです。指導者層の歴史もあれば地域生活での歴史もあります。それらは必ず偶然と必然の中で絡み合っています。どれほど優れた歴史家であったとしても、どれほど膨大な著作を残したとしても、書かれた歴史は完全なものにはならないはずです。だからこそ、そうした歴史家の皆様には深甚なる敬意を表したいと思います。

国家指導者層の歴史だけで見ても、様々な見方があります。例えば戦後教育を受けた者は、特に深く歴史に興味をもった者でなければ、先の大戦の国家指導層や政治と民意の関係を意識した者は少ないのではないかと思います。民主化がされておらず民意に反して指導部が独走し、更にはそのなかでも軍部の独走によって戦争に突入していった、というのが大まかな認識なのだろうと思います。事実、私自身も大学4年生までは、漠然とそう思っていました。そして一面を捉えれば確かにそう見える。でも複層的に見れば違う見方ができる。複眼的に見る。そのことこそが重要なのだと思います。

大日本帝国憲法が制定されたのは、明治維新から30年後。木戸や大久保が民主制への暫定移行期間として君民共治体制を模索していた中で、内部からは大隈重信、外部からは板垣退助といった当時は急進的な民主化要求を受けて、国会設置が決まったのが1890年です。西洋の国家以外で憲法を制定したのは日本だけでした(チュニジアとトルコが同時期に制定しましたが、制度不足によって憲法停止に至っています)。従って立憲主義、民主主義という意味では当時は時代の最先端であったのだと思います。

当時の世界の雰囲気はどうであったのか。世界の中心であった欧州では、勢力均衡メカニズムのウィーン体制が、パリ民衆蜂起とクリミア戦争によって崩壊し、その後のドイツの興隆(第二帝国)や英仏墺洪交えた国際政治は、植民地勢力争いも相まって、複雑な形で緊張が高まっていました。覇者であるイギリスは、スエズ運河を建設し、世界中に海軍基地を持ち、海底通信ケーブルを敷設して繋ぎ合わせていったのもこのころで、インテリジェンスの重要性を世界で最初に認識した国でもありました。地政学の祖であるマッキンダーがハートランド論を提唱したのもこのころでした。

しかし、ビスマルク失脚後に若きドイツ皇帝が提唱した3B政策がイギリスの3C政策を脅かすようになり、周辺国では対独脅威論が巻き起こります。イギリスに二国標準主義が貫き通せる国力が十分にあったわけではなく、1902年に日英双方の思惑が合致し同盟を締結します。そもそも明治政府にとって富国強兵は、アヘン戦争が引き金であったと思えば、日本には相当な高揚感があったのかもしれません。そして日本は、朝鮮半島を巡って日清に続き日露の戦争を経験しました。また、イギリスは宿敵のフランスとも協商を結んだのを皮切りに、日露戦争でロシアが敗れると、すかさず英露協商を結び、英仏露の三国協商が成立。独墺伊の三国同盟と対峙するようになり、欧州ではブロック化が進んでいきます。

勢力均衡と言うと論理では正しそうに見えても、実際には勢力均衡の概念が、産業革命に伴った技術革新による軍事力重視に繋がり、軍拡が戦争回避の唯一の手段であるかのごときムードが国民の中に醸成されたことで、後の世界大戦という信じがたい大規模な犠牲者を伴う参事を生むことになりました。日本はといえば、日露戦争で得た朝鮮半島の権益を守ることが行動原理の中心になっていき、このころから後背地の満州が重要視されるようになっていく一方で、ポーツマス条約では日清戦争と比較にならないほどの犠牲を払ったにもかかわらず賠償金が得られなかったことなどから、政府に対する国民の非難が激化し、日比谷焼き討ち事件などが起きています。

一次大戦は、バルカン半島での汎スラブ主義を背景に弱体化していくオスマン帝国と墺洪二重帝国と露の駆け引きや最前線のセルビアでの反墺運動の高まりから必然的に発生しました。日本は、満州権益の期限撤廃に夢中になりすぎて、対独参戦によりドイツ権益であった山東半島を奪取し、それと交換条件で満州権益の期限撤廃を目指すため、悪名高い21か条の要求を発表します。加藤高明外相が発案したと言われていますが、加藤の戦略に基づけば21か条の1と2条だけでよかったはずだと言われています。3~5、特に5号が追加されたのは、日本国内のナショナリズムに抗しきれなかったためだと言われています。

いずれにせよ1次大戦後にベルサイユ体制が構築されていきますが、歴史上の価値転換は、ウィーン体制の無差別感から差別感が重視されるようになったことで、具体的には正義があるかないかということから、侵略的かどうかという開戦法規が重視されるようになっていきました(ケロッグブリアン条約)。無差別戦争概念であれば、正義が重視されますが、中世のころのようにローマ教皇という正義の裁定者が存在したわけでもなく、近代化に必要な流れであったのだと思います。

また、このころ世界恐慌によって、持てる国(the haves)と持たざる国(the have nots)の対立が激化していきます。英仏は既得権益の維持に有利な既存国際秩序の維持を目指す一方で、日独伊は海外権益も少なく、特に経済的に深刻な状況であったため、武力による領土拡張を正当化し、国際秩序を変える動機となっていきました。一方で、ベルサイユ体制の主要な反省点は、ドイツに対する懲罰的意味合いが強く、ドイツ国民にとっては耐え難いものとして映り、それが結果的に熱狂的歓迎をもってヒトラーを生み出すことになったことですが、こうしたことと世界恐慌がマッチしていき、各国国民の熱狂的支持のもとに極端な政策が打ち出されるようになっていきます。

一方で、日本の政治は何をやっていたのか。戦時中の政治や政党の研究が令和の現在でも進んでいることに驚かされます。日本は引き続き満州権益を行動原理の中心に据えて決断を重ねていきますが、世界恐慌の中で国民の満州権益に対する強硬論が蔓延するようになります。その頃の政界は、醜悪な疑獄事件が相次ぎ、国民から、見れば私欲を肥やすことしか考えない政治と、国民を守り将来の糧を築いてくれる素晴らしい軍部、という見方が定着していきます。

若槻内閣のあたりから朴烈怪写真事件のような男女の大衆スキャンダルが政界を巻き込む大政争に発展するケースや、陸軍機密費横領事件などのように政治とカネにまつわる問題が政争に発展するケースなど、まさに現代と同様の劇場型の政治に移行していきます。更に統帥権干犯問題に代表されるような天皇の政治シンボルとしての肥大化が起き、天皇型ポピュリズムが台頭することになります。結局、女性問題、贈収賄問題、天皇政治利用を中心に、メディアは徹底的に政治を批判する劇場型政治になり、この民衆の力、メディアの力によって、政治は正統な対処が困難になっていきます。

しかし何もしなかったわけではなかった。例えば、彼の有名な張作霖爆殺事件は、関東軍河本大作の陰謀によるものであることが分かっていますが、暴走する関東軍に対して政府は追従する一方であったわけではなく、国際協調主義の幣原外相は閣議で陸軍謀略論に言及、若槻首相は事件不拡大を決定し、臨時参謀総長委任命令という天皇命令を逐次発して関東軍の動きを制限しようとしています。これにより、徐々に軍の動きは鈍化していきますが、結局、幣原外相の外交の失敗(スティムソン事件:幣原外相が米国務長官に関東軍の動きは封じ込めると約束してしまったことから再び統帥権干犯論が沸き起こった)により、抑制派であった幣原外相・南陸軍相・金谷参謀総長の求心力が下がり、若槻内閣は辞任に追い込まれることになり、結局、政府は関東軍に好意的な強硬派で占められました。

斯くして一概に政治が何もしていなかったということではなく、国民の膨張意識と相まって、軍部と政府が独特の緊張関係を持つ中で、権力掌握に失敗した政府抑制派が失脚するということが必然と偶然の交錯のなかで続いていくことになります。もちろん、こうしたことが可能であったのは、統帥権干犯という憲法制定時に予期していなかった事態により、政府が国家を統治する仕組みが制度的に担保されていなかったからにほかなりません。

以降、誠に不幸な、そして二度と起こしてはならぬ、謎としか言いようのない、大戦に日本は突入していきます。当時の日本としては大義があった。それは紛れもない事実だと思います。しかし歴史が好意的に解釈する余地はない戦いでした。二次大戦後、明確なシビリアンコントロールのもとに日本は再建されました。アメリカに負うところは大きかった。ベルサイユ体制の反省から、あれだけ多大な犠牲と負担を負ったアメリカは、日本に賠償を微塵も要求しなかった。それは反共戦略があったからだけでは理解しえない方針決定であったのだと思います。

長々と書きましたが、一言だけで言い表せば、ポピュリズムによる国家統治は必ず失敗する、ということ、そして日本が平和を指向するには自らが世界秩序の構築維持に率先して努力しなければならない、ということなのだと思います。一方で、戦争の反省と悔悟の念は持ち続けるべきですが、将来の世代に永遠に謝罪を続ける宿命を負わせ続けるわけにはいきません。歴史を正面から捉えて反省し、その上でプラスの循環を作っていくのが政治の役割であろうかと思います。

なお、こうした歴史観については、私の力では到底言い表すことはできませんので、下記におすすめの書籍を紹介いたします。

・筒井清忠、戦前日本のポピュリズム
・山内昌之他、日本近現代史講義
・小川浩之他、国際政治史
・細谷雄一、自主独立とは何か
・谷口智彦、明日を拓く現代史
など