今回は核兵器禁止条約について書いてみたいと思います。なお念のためですが、私は核兵器廃絶を目指しており、核兵器を持つなどと言うことは理論的にも感情的にも思想的にもすべきではないと思っていますし、議論すらも必要ないとも思っています。その上で、核兵器禁止条約に参加しない政府の方針とその理由に賛成しています。その理由を述べたいと思います。
かつて日本の国際的立ち位置は、経済一流、政治三流、などと言われた時代がありました。しかしこの10年の安倍政権の外交努力によって、日本の国際政治力は劇的に向上しました。すなわち、日本は現実の国際秩序形成をけん引すべき立場になっているということです。ただ、国際政治ベテラン組はまだ沢山いる。そういう状態で、日本は何をすべきなのかを現実的に考えなければなりません。
まず何が起こっているのかを解説します。大量破壊兵器は国際法上管理されていますが、ものによって手法がかなり違います。例えば化学兵器などは国際法上明確に違法とされていますが、核兵器は国際法上明確に違法とされたものはありません。ただ、核兵器の拡散を防止するための条約はあって、それがNPTという核拡散防止条約というものです。人類の知恵なのですが、中身は、核兵器保有国だけは核兵器をもってもよろしい、しかし非保有国はもってはならぬ、という条約です。一見不平等ですが、拡散防止には役に立っており、核兵器に関する基盤ルールとなっています。そしてこの条約は、保有国に削減義務を課しています。
問題は削減努力がちんたらしていること。そこで最近、一部の非保有国が結束して、核兵器そのものを違法化しようじゃないかという話になった。それが核兵器禁止条約です。至極真っ当な話であってこれで全ての国が納得して廃絶することができれば、とてもいい話です。しかし、核戦略論という現実対処のための理屈を打ち出している核保有国が大反対し、その結果、保有国と非保有国で大激論になり、溝は広がる一方になりました。今、この溝を埋めようとする国はほとんどおらず、冷え切った関係で二分しています。
日本政府がなぜ核兵器禁止条約に参加しないのか。まさにこの溝を埋める努力をするためです。すなわち、核保有国が参加していない条約に参加しても核兵器廃絶に向けた具体的な解決策を見いだせないからです。逆に素直に参加すれば目先は気持ちいい。参加しないと無用な詮索をされる。日本の核兵器廃絶に向けた意思も単純明快に示せる。選挙にも有利でしょう。しかし現実的な核兵器削減に向けた議論は、むしろ当たり前ですが保有国を巻き込んでいくほかありません。かつてエドワード・ギボンは、改革は内部から実行されるものであると言いました。溝を埋める役割を担う国が必要なのが現実の国際社会です。そしてそれが日本なのです。
核兵器は、核戦略論で言えば必要悪ですが、人道論としては私は絶対悪だと思っています。そして政府も核戦略論には直接触れていませんし唯一の被爆国の立場を訴えているので人道論としての絶対悪の考え方に近いのだと思います。ただ、現実問題として人道論は正義観なので保有国には通用しないのは事実です。それは核保有国は核抑止論を前面に出して必要性を訴えるからに他なりません。なにせ別の保有国がいるわけですから。
正義観の話をすると、例えば警官が所持する拳銃も治安維持の文脈では必要悪ですが、正義観では絶対悪なのでしょうか。人を殺傷するものが絶対悪だとするなら警官の拳銃も絶対悪です。大量殺戮が可能なものと考えればそうではない。しかし拳銃を乱射して100人が亡くなれば絶対悪になるのか。もしそうなら、人を殺傷するものは全て禁止されるべきとの結論も導き出される可能性もあります。正義観というのは、正義の裁定者が誰なのか、という話になります。(核戦略論などの現実対処は相対的均衡の話になります。)
かつて正戦論(正義観)が主流であった頃の中世ヨーロッパのように、ローマ皇帝という正義の裁定者がいる場合には、正義観の絶対座標が決まりますので、絶対悪の領域がはっきりする。しかし宗教改革以降、唯一無二の正義の裁定者がいなくなり、国際社会は無差別戦争観に突入して未曽有の大戦を経験。その反省から戦後に戦争禁止に至り、現実に対処するために必要性と均衡性を要件とする自衛権が認められた。云わば戦争禁止という正義観に基づいた前提を置きつつ、現実対処のための自衛権を認めたというバランスをとった形になります。
少なくとも現実論として自衛権を排除して正義観を振り回すことは不可能です。すなわち結論として言えば、NPTを諦めて核兵器禁止条約をとると世界は正義観と戦略論がぶつかり絶対に習合しない。NPTは戦略論がベースの条約で、核兵器禁止条約は正義観や人道がベースの条約です。本来、2つの価値軸のバランスのいいところを打ち出す条約が核兵器の場合は現実的なはずです。(否、保有国が納得すれば後者だけでもいい)。
我々は現実の人間世界に生きています。究極的には理想に死すか現実に生きるかの選択です。当然前者の方がかっこいい。一方で、マキャベリは愛されるよりも恐れられる方がよほど安全だと喝破しましたが、そう考える国があるのは脅かす国があるからです。そして相互に恐れられる方を選択するばかりだと決して両者は愛される存在にはならず、良い世界が築けません。
であれば、自らは決して恐れられる選択はせず、愛されることを求めてそのことを決して忘れず、今は脅かす人がいる限り恐れられる存在になりたいと思う人がいるのを理解しつつも関与して巻き込み、世界が愛される存在になりうる現実のプロセスを追い求めていくことがベストな選択だと思います。若泉敬ではありませんが、まさに他策ナカリシヲ信ジント欲ッスの心境です。
1945年のアメリカによる広島・長崎への原爆投下について、これまで多くのアメリカ人は戦争の早期終結に必要であったと理解していました。早期終結によって多くの日米将兵の命を救ったと理解していた。しかし最近多くの歴史学者が、皇室維持を条件にすれば日本が降伏する可能性が極めて高いことをトルーマンは十分知っており、必ずしも原爆を投下しなくても早期終結は実現できたはずだということ、一方で早期の原爆投下によってソ連の対日参戦を防ぐとともにその後のソ連の影響力を削ぐことがアメリカの当時の主要な課題であったこと、を指摘しています。そしてアメリカ人の意識も徐々に変わってきています。
昨年のNHKの調査によると7割のアメリカ人が核兵器は必要ないと考えているそうです(日本人は85%)。そして1945年のアメリカによる原爆投下については、41.6%が許されないと考え、31.3%の必要だったを上回っています。ここ10年で大きく変わっています。可能性を信じて実質的に核兵器のない世界を模索することが必要なのだと思います。
■核兵器禁止条約交渉第1回会議ハイレベル・セグメントにおける高見澤軍縮代表部大使によるステートメント(平成29年3月27日)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000243025.pdf