本日は、沖縄の本土復帰から丁度50周年となり、報道にもありました通り、天皇皇后両陛下のご臨席のもと、沖縄と東京の利用会場をリモートで結ぶ形で記念式典が開催されました。岸田総理や閣僚、沖縄県知事、アメリカ大使や衆参両議長、最高裁判所裁判長など、多くの関係者とともに、内閣府副大臣として参加を致しましたが、沖縄の苦難の歴史に思いを致しつつ、今日の式典の様子も含めて書き残しておきたいと思います。
今から丁度50年前の1972年5月15日に、沖縄は27年ぶりに米国統治から解放され、日米両国の友好と信頼に基づき、日本に返還されました。沖縄が占領されたのは、戦争に負けたからに他なりませんが、一次大戦後の戦後処理方法とベルサイユ体制の反省から、連合国は苛烈な賠償を敗戦国に求めることなど一切なく、極めて国家主権と民主主義プロセスを重んじた、歴史上希にみる外交的な返還でした。
本日のエマニュエル大使の言葉にもあったように、アメリカにとっては、世界の民主主義国家が共産主義のまん延を防ぐために結束した中での返還であったのだと思います。もちろん、反共政策という一言だけで片付けるほどに国際政治や人間の感情というものは単純ではなく、終戦から返還までの27年間には、この反共と言う戦略目的を達成するための様々な外交的手段や主張が様々入り乱れていたのだと思います。しかし、アメリカと言う国が、あれだけ多大な犠牲と負担を負って勝ち取ったものは何かと言えば、それは自由という価値観と原則なのだということしか言えず、これからもその自由は守っていかねばならず無償ではないのだ、という今日の大使の言葉と頭の中で繋がり、繰り返し頭の中で反響し続けています。
一方で沖縄戦は、非合理な作戦指導のために住民が苛烈な犠牲を強いられた地です。沖縄から見た返還は国際政治とは別物なのだと思います。沖縄県民代表の高良政勝さんは、今世界で多くの子供が亡くなっているということを目の当たりにし、命こそ一番大切なのだ(ぬちどぅたから)、この戦争の教訓は忘れてはならず、世界で今も子供たちが犠牲になっているなかで、沖縄が世界平和の発信地にならなければいけない、と訴えていました。高良さんは、公益社団法人対馬丸記念館の代表理事。対馬丸というのは、終戦直前に学童疎開の用に供された民間船舶で、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、1500人以上の多くの子供たちが犠牲になった事件です。生き残った高良さんは、今も苛烈な戦争の教訓を現代に伝える努力をしているのだとか。
また沖縄県民若者代表の、青年団協議会代表の普天間真也さんと、学生ボランティア団体VONS代表の平敷雅さんは、戦争体験談を聞く機会は減ったように感じるが、世界で起こっている状況を見て戦争の悲惨さを感じる、先輩方が沖縄の平和と権利を取り戻す努力をしてくれたおかげで今がある、その思いを未来に繋いでいきたい、スマホで便利な時代になったが子供の貧困などの課題がある、立ち向かっていきたい、そしてより良い沖縄の未来に繋げていきたい、との趣旨のことを熱く語っていました。
在日米軍基地が集中する沖縄では、毎回基地負担軽減が大きな争点になります。岸田総理も、基地負担軽減に向けて努力していく旨を本日の式典で宣言しましたし、その思いは我々政治家に共通する認識なのだと思います。一方で世界の秩序維持のために安全保障を確保することは極めて重要です。その点、近年の沖縄での選挙を見るにつけ、これまでのような単に基地に賛成か反対かだけが争点であったものから、より未来志向になっているように感じていました。そのことを再び実感させられる話でした。
悲惨な戦争体験を伝え残し、二度と戦争の惨禍に見舞われることの無いよう普段の努力を積み重ね、未来志向で豊かさを追い求める必要があるのだと思います。天皇陛下からは、「今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています」とのお言葉を賜りました。エマニュエル大使も、歴史上の熾烈な敵同士であった日米が、現在は最も親密な同盟になったこと、そしてその中での沖縄の意味合いに触れ、「同盟は単なる条約ではなく、人と人との友情である」として沖縄の未来のために「沖縄の高校生を対象とした2年間の英語学習奨学金プログラムを本年設立することをここに発表いたします」としました。
返還交渉当時の佐藤栄作首相は、1965年に沖縄を初めて訪れ、「私たち国民は沖縄九十万のみなさんのことを片時たりとも忘れたことはありません。本土一億国民は、みなさんの長い間の御苦労に対し、深い尊敬と感謝の念をささげるものであります。私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後が終わっていないことをよく承知しております。これはまた日本国民すべての気持ちでもあります」と演説しました。
途轍もない努力が途轍もなく多くの関係者により成し遂げられた沖縄返還。しかし、それ以上に表現しようもないほど多大な犠牲を強いられた沖縄の地。沖縄に奇跡の1マイルという繁華街に面する通りがありますが、戦後直後に奇跡のように復興を成し遂げたから付けられた俗称なのだとか。当時の沖縄の人々がどのような感覚で奇跡の1マイルと言う言葉を使うようになったのか。また、730運動という、米施政下の自動車右側通行を返還後の6年間で左側通行にするために行われた事前周知のためのキャンペーンも、沖縄の当時の人々の間では複雑な思いが入り乱れていたように思います。
沖縄の熾烈な戦争の歴史だけではなく復帰後の歴史も、しっかり心で感じて思いを致していく態度が何よりも重要なのだと思います。
(参考)