アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか、アメリカがやってくれと言えばNoとは言えないのではないか、仮に今の法案ではできなくても、そのうちまた憲法解釈を変更して、巻き込まれるようになるのではないか、そうした不安をお持ちの方がいらっしゃると思います。そんなことは絶対にない論理的理由を書いておきたいと思います。
簡単に言えば、限定的集団的自衛権は、日本に相当の侵害が起きる明白な危険がない限り発動されませんが、それは憲法の限界だからです。自分とは関係のない、あるいは関係の薄い、つまり明白な危険が高くない紛争に関与することは憲法上も法案上も許されていません。だからNoと答えるしかない。
一言で言えば日本を助けてくれる人は助けようよということであって、それが憲法の限界なのです。逆に言えば、日本防衛のためのことだったら、その用途に合致した部分の集団的自衛権だけは認められるということです。
ではなぜそこが憲法の限界なのか。重要なことなので書いておきたいと思います。
まず、砂川事件は避けて通れません。在日米軍の合憲性が争われた事件で、最高裁判所が示した自衛権に関する唯一無二の判決です。まず誤解が多いのが、砂川判決が集団的自衛権について触れていないのだから合憲だ、という単純な論を政府がとっているように言われますが、違います。確かに根拠を構成する1つの重要な要素ではあります。
簡単に言えば、砂川判決は何を言っているかというと、いわゆる傍論ではあるものの、自国防衛の自衛権は否定されませんよ、としか言っていません。それを受けて、有権解釈権をもつ政府は昭和47年に公式見解を発表しています。それは、その自衛権は否定されないと最高裁は言ったけど、それはそれとしっても憲法の趣旨に鑑みれば、その自衛権は必要最小限の範囲に限る、というものです。これが規範と呼ばれる部分で、自衛権の解釈の土台。つまり砂川判決をさらに政府は狭めたわけです。ここは新しい安保法制も全く変わっていません。
この規範の次に、では必要最小限はなんぞやということになるわけですが、それはその当時の国際情勢や武器技術に鑑みれば、当然集団的自衛権などは100%認められないよね、となった。いわゆる時代の当てはめの結果と言われる部分です。つまり、規範を更に狭めた結果です。念のため整理しますと、規範があって、時代背景があって、当てはめの結果がある。
昨年7月1日の閣議決定による集団的自衛権の限定的行使容認は、この公式見解を根拠にしていて、時代背景の当てはめの部分が変化すれば、その結果は変わるのではないか、というところです。規範の部分は自国防衛の意味での自衛権ですから、結果としては、最大限度認めうる必要最小限とは、自国防衛の為という限定された集団的自衛権が認めうることになります。
つまり逆に言えば、今後解釈で変更できる部分というのは、時代背景やら武器技術というあてはめの結果の部分ですが、その結果は当然、規範の範疇に入っているわけで、では現在の新解釈以上の解釈拡大の余地があるかというと全くない。なぜならば、自国防衛のための集団的自衛権というものより広い概念がないからです。これ以上広げるなら、規範を変えなければなりません。しかし、この規範は先ほど書いたように、憲法の趣旨に直結した論理なので変えようがないのです。
結論として法案には「我が国と密接な関係にある他国に武力攻撃が発生し、それにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が起こった場合が自衛権発動のそもそもの条件の1つになっています。だから、アメリカに何を言われようが、全部従うことは憲法上許されない。
憲法解釈の変更がけしからぬという意見を私は横暴にも全否定しようとは思いません。しかし是非ご理解を頂きたいのは、論理としては通っているものなのです。この部分の論理は単純ではないので、法案内容とは異なる不安が先行しているのだと思います。
ちなみに憲法学者の多くは、砂川判決は政治的配慮があった判決であって司法の独立性が疑わしい最悪の判決だという認識に立っています。憲法学者の大家である芦部信喜先生(私も20代に読み漁りました)も、憲法9条の解釈について有力説、通説を解説し、その他の説を紹介していて、前2者は共に戦力である自衛隊も自衛権も認められないと説き、最後のは、自衛権は放棄していないという説もあるという紹介をしているに留めています。だから、そもそも違憲になるわけです。
参考までですが、共産党は、政府の公式解釈は、規範から結果まで一体のものだから違憲だと主張していますが、根本的な論理としては憲法学者の伝統的解釈に近いものと思います。民主党も同様だと思われますが、より現実的解釈であると理解しています。正確には不明。維新の党は憲法学者や国民が違憲だと言っているから現時点は好ましくないと主張していると理解しています。