必要最小限度の自衛力/グレーゾーン事態対処の問題点

先日、安全保障と国際法を専門にしている東京の某大学の博士課程の学生さんから、インタビューをしたいとのお申し出があり、リモートミーティングとしてお引き受けすることにしたのですが、これまでの私の発言記録なども入念に調査のうえ、ものすごく丁寧な質問内容を事前にお送り頂いたので、それに感動して、改めて、議論したことに基づいて、私の考え方を整理しておきたいと思い立ちました。

内容は、保持できる必要最小限の自衛力の意味と憲法について、そしてグレーゾーン事態についてでした。すこし長くなりますが、お許しいただければと思います。

1.必要最小限度の自衛力とは

人類は19世紀から20世紀にかけて国益を争い幾多の困難を乗り越えてきました。そして現在は当時より遥かに平和を享受できる世の中になりました。その過程で、国際社会は、紛争を回避するための努力を重ねてきました。第一次大戦後、紛争を回避するため、ケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)が締結され、戦争が違法化されましたが、戦争の定義も不明確であり、また19世紀から発達した概念であった自衛権の行使は留保されました。その結果として自衛権の拡大解釈が横行し、第二次大戦が勃発。これの反省として、第二次世界大戦後に、国連憲章にて明確に武力行使自体が違法化・禁止され、違反国には経済制裁や国交断絶を課しました。そしてその武力攻撃を受けた際の対抗手段として、国連安保理が紛争処理をするまでの間について、加盟国に自衛権が認められました。

(国際法上の自衛権)
当然自衛権が正当化される条件というのも国際社会は判例という形で紡いできました。その歴史は意外なほど深く短いものですが、代表的な判例は、武力攻撃の定義や集団的自衛権の正当化要件を示した「ニカラグア事件」(1985)、核兵器による自衛権行使の合法性に関する勧告的意見を示した「核兵器使用合法性事件」(1986)、個別的自衛権の合法性を示した「イラン油井事件」(2003)などです。

ニカラグア事件とは、ニカラグアが周辺国への武力攻撃を行ったことに対して、米国が集団的自衛権を援用してニカラグアの反政府組織コントラを支援し軍事介入した事件のことですが、ニカラグア政府は米国の介入は違法だとして国際司法裁判所ICJに訴えます。このことをきっかけに武力攻撃と自衛権の解釈が定着していくことになります。

ICJは、武力行使を「最も重大な諸形態(武力攻撃)」と「他のより重大でない諸形態」の2つに分けるべき、つまり「武力攻撃」と「そうでないもの」に分けるべきこと、武力攻撃であるかどうかは「規模と効果」によって区別されるべきこと、更には集団的自衛権が正当化されうる要件として、武力攻撃が存在し、反撃の要請が存在し、反撃行為に「必要性」が存在し、武力攻撃と反撃行為の間に「均衡性」が存在すること、が示されました。これはあくまで集団的自衛権に関する解釈でしたが、その後、イラン油井事件で個別的自衛権についても「必要性」と「均衡性」の2つの要件が確認されました。

つまり整理すると、自衛権の行使要件は国際法上は「必要性」と「均衡性」だということが定着しているということです。そして武力攻撃は規模と効果で区別されるということです。

(日本での自衛権)
一方で日本はどうか。広く知られている通り、自衛権は憲法上明記はされていませんが、独立国家である以上、主権国家として当然の固有の権利とされています。ただ、憲法上保持できる自衛力は、自衛のための必要最小限度のものでなければならないとされています。

必要最小限度というのは憲法が要請する解釈だというのが定説で、一般的な言葉としては受け入れやすい。しかしながら、実際の政治の現場に立つと、その定義の曖昧さから、様々な議論を呼んできたのは事実です。つまり、必要最小限度とはなんぞや、ということです。

(必要最小限の意味するところ)
なぜあいまいなのかというと、それは絶対的尺度に基づくものだからです。当たり前ですが、必要最小限というのは相手や状況によって変わってきます。目には目を、刃には刃をですから、相手や状況が決まらなければ何が必要最小限化は決まらない。従って、当然相対的尺度で解釈すべきものです。しかし、反対のための反対論者は、絶対的尺度で解釈しようとする。この観点からすると、国際法上の必要均衡というのは相対的尺度になっていて合理的です。もちろん、必要最小限という言葉を、さらに解釈を加えて必要均衡とすることもできますが、そもそも国際法とは違う表現をする必要性もないわけですので、必要最小限は必要均衡とすべきものなはずです。

(憲法改正論議と必要最小限)
18年の自民党憲法改正論議では、戦争放棄と戦力不保持を定める9条について、自衛隊を明記することが検討されたのですが、焦点は戦力不保持と交戦権否認を定める2項にありました。政府は旧来より一貫して、自衛隊は日本を防衛するための必要最小限度の実力組織として2項が禁止する戦力ではないとの立場を貫いてきましたので、自衛隊の法的地位を追記しても内容は変わらないというのが主軸の主張でした。

本質的には私が望ましいと考える最終形態として憲法は、国際標準です(ここの議論は話が長くなるのでまた別途したいと思います)。しかし、いきなり2項に手を付けることは国民の理解を得られないだろうとも思います。従って、2項は残したうえで自衛隊の法的地位を追記する主軸案を私は消極的に支持していました。さらに言えば、その追記される自衛隊の立場については、従来の政府見解である「必要最小限度」を踏襲するべきか議論がありましたが、上記の国際法上の相対的尺度が望ましいと考えていますので、当時の最終案であった「必要な自衛を目的として、自衛隊を保持する」との文言については、均衡性の概念が入っていないことは極めて残念と思いながら、これも消極的支持をしていました。

ただ、憲法草案の議論は今後も続きますので、努力していきたいと思います。

2.グレーゾーン事態

初当選以来、関心を持ち続けていることがこのグレーゾーン事態です。明白な武力攻撃が発生しているわけではないので有事とは言えないが、かといって明確な平時とも言えない事態のことを、グレーゾーン事態としています。例えば他国が大量の偽装漁船を島嶼部に送り込んできたとしましょう。その漁船群を少し離れたところから公船が援護、更に少し離れたところから軍艦が護衛している。その状態で上陸を試みてきた場合、法律上はまずは警察権を根拠として日本の警察や海保が対処しますが、現場では十分な抑止は効くはずがない。こうした異常事態に対して、国際法の言う規模と効果という観点では、明確に武力攻撃の事態を認定することはできないはずです。そこで、日本は自衛隊に警察権に基づく海上警備行動を発令することになりますが(場合によっては海上保安官を自衛艦に乗艦させる)、自衛権行使は直ちに認められないので現場対処は困難であることに変わりはないはずです。これは結構有名なシナリオですが、他にも国際社会では武力攻撃とは見なせない紛争が多々存在します。こうしたグレーゾーン事態への対処がどの国にとっても困難なのは、主に二つの理由があるのだと思います。

(様態の多様性という困難)
第一には、様態の多様性によります。様々な様相を呈することが想定され、新旧様々なオプションが考えられます。烈度の弱いものから並べれば、様々な媒体による心理戦や世論戦、一方的な法律戦や情報戦、係争地域やEEZでの民間船舶妨害や締め出し、邦人不法逮捕、観光制限や輸出入制限、不法上陸や係争地での違法操業、係争地公船侵入、軍事演習や軍艦回航、他国軍艦追従、外交官追放や民間人拘束、銀行口座凍結、航行の自由の妨害や大規模演習などで、挙げればきりがありません。特に最近では、フェイクニュースも含むサイバー攻撃、電磁波やレーザーによる衛星の無力化など、対象領域が広がっているため、宇宙・サイバー・電磁波と言った新領域と旧来の陸海空の従来領域を横断する能力が必要になってきています(クロスドメイン)。

グレーゾーン事態もしくはクロスドメイン対処の具体的な典型例として特に注目を集めたのが2014年のクリミア危機でした。ロシアはサイバー攻撃によって、ウクライナのネットや放送や行政を混乱させ、クリミアを奪取、世界各国の安全保障関係者を覚醒させたと言われています。米国がこうした文脈でグレーゾーン事態という言葉を使い始めたのはこの頃からですが、実は安全保障上のグレーゾーン事態という言葉を初めて使ったのは2005年前後の日本だと言われています。折しもその前年には、石垣島近傍の領海で中国の潜水艦による潜没航行事件がありました。

(国による認識の多様性という困難)
第二には、国によって認識の差があることです。例えば上記の例でグレーゾーン事態と言い始めたのに日米間で10年ものギャップがあったのも自然なことかもしれません。日本は自衛権行使を極めて厳格に運用していますが、先の「必要最小限」議論で示したニカラグア事件でアメリカがICJ判決を受け入れていないことから明らかなように、アメリカは自衛権行使について極めて緩やかな運用を行っています。従ってグレーゾーンでも手足を縛られないアメリカと縛られる日本で危機意識がかなり違ったと言えます。

また、クリミア危機でもグレーゾーン侵攻を受けたウクライナはロシアによる明白な武力攻撃(黒)だと言い、ロシアは単にグレーと言い、アメリカは白に近いグレーとしました。アメリカが白に近いグレーと言ったのは意外かもしれませんが、自国の行動を制限するような他国の武力攻撃認定には否定的であったのではないかと思います。従って、まず基本的な認識として、グレーゾーン事態については、その様態の多様性が問題になることは当然として、各国の認識が違うのだ、ということを前提にしなければならないのだと思います。

(グレーゾーン事態でも自衛権は有するか)
次にグレーゾーン事態の場合でも、つまり武力攻撃がなくても、日本は自衛権を有しているのか、が問題になります。国連51条は武力攻撃を違法化・禁止した上でその対抗措置として自衛権の行使を各国に認めていることは既に申し上げましたが、これは武力攻撃があった場合の話であって、武力攻撃以外の規定ではありません。一般国際法上は、グレーゾーンの自衛権行使は認めうるとされています。そして日本でも政府は一貫としてグレーゾーン事態でも自衛権は有しているとしています。

(現在はグレーゾーン事態は警察権で対処している)
ところが自衛権発動要件は極めて厳格に運用されています。具体的には現行要件では「武力攻撃が発生し」となっています。従って、権利は有するが行使はしないことになります。では、どうやって対処しているのか、ということですが、それは警察権の行使ということになります。例えば尖閣諸島周辺で、連日のように中国公船が侵入してきますが、これに対して警察権を根拠とする海上保安庁が対処しています。しかし、海上保安庁だけで対処できる事態であり続けるのかについて、長らく疑問が呈されています。

(グレーゾーン事態対処に関する過去の議論)
そこで、14年前後のことですが、こうしたグレーゾーン事態については、新しい概念を導入しようとする動きがありました。いわゆるマイナー自衛権というものですが、私自身は、日本特有の概念は望ましくない、事態対処の根拠が3つになりオペレーションが複雑になるうえ、新たなグレーゾーンが増える、との理由で消極的でした。現在ではこの論は完全に下火になっています。

(過去に政府が行ったグレーゾーン事態に備えた施策)
従って、答えは2つしかなく、自衛権発動要件を緩和するか、若しくは警察権の対処能力を向上させるか、のどちらかということになります。その後、政府はグレーゾーン事態については2つのことを行い現在に至っています。1つは、15年の平和安全法制が制定される際に、無害通航でない外国軍艦について自衛隊による警察権行使を迅速に行えるよう要件緩和の閣議決定をしました。もう一つが、海上保安庁による対処能力の向上です。15年以降、予算人員装備を大幅に拡充し現在に至っています。

(今後の議論の方向性)
しかしそれでも問題が本質的に解消されているわけではありません。そしてグレーゾーンの領域は海上に限られるものではなく、領域や様態が複雑多様化する一方なので、対処が必要と考えています。まずは直ぐにできることから言えば、警察権の対処能力の更なる向上を続けていくことは論を待ちません。しかし、それ以外の事態に関して正面から対処できる法律体系を整えるべきです。

(再び武力攻撃とは何か)
先ほど自衛権発動要件の緩和と書きました。実はこれは乱暴な書き方なので少し深掘りします。自衛権の発動要件に、「我が国に対する武力攻撃が発生し」とあります。これは国際法からの要請にも合致していますので緩和などはできません。一方で、武力攻撃の定義は何かというと、「我が国に対する外部からの武力攻撃」(武力攻撃事態対処法)という狐につままれたような定義です。例えば鉄砲1発撃たれても武力攻撃と言う人はいません。ゲリラが若干名、着上陸侵攻した場合はどうでしょう。過去にイスラエルはこれを武力攻撃と認定し自衛権を行使しましたが国際社会から非難されました。先のニカラグア事件もそうです。偽装漁船やフェイクニュースなど多層的な敵対行為の累積は武力攻撃と見做されるのでしょうか。実は、何をもって武力攻撃なのかは、国会でも殆ど議論されてきませんでした。国際社会でも様々な意見があり断続的に議論されています。国際社会に支持されうる武力攻撃の類型整理はしておく必要があるのだと思います。少なくとも国際法に準拠して武力攻撃は規模と効果で判断することくらいは閣議で決めておくべきなのだと思います。

(グレーゾーン事態における日米同盟の脆弱性)
直近の最大の課題は、冒頭示したように、グレーゾーン事態の認識が各国で違うため、混乱が生じる可能性があることです。具体的には自衛隊の活動は日米同盟と密接に関係していることがグレーゾーン事態で課題になります。例えばトランプ政権も、次期バイデン政権も、尖閣を日米安保条約適用対象にすると明言しました。これはこれで有難いことですが、抑止力にはなるけれど、グレーゾーンの対処力には必ずしもならない、という問題があります。なぜならば、日本とアメリカで武力攻撃認定にギャップが生じる可能性があるためです。つまり日本は武力攻撃ではない(白)、アメリカは武力攻撃だ(黒)とした場合どうなるのか、そしてその逆のパターンはどうなるのかを真剣に考えなければなりません。また、日米双方で事態認定における政治判断に遅れが生じた場合はどうなるのかなども実際に即した形で検討を重ね、日米で共有しておく必要があるのだろうと思います。