【善然庵閑話】思想と現実について(京極会報誌)

今年も京極会から会報誌の執筆依頼を賜りました。京極家や郷土の歴史に思いを馳せつつ、投稿した拙文を謹んで掲載させていただきます。ご笑納くださいませ。

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思想というものは、左だろうが右だろうが、相反する思想の持主が無視できない存在になってくると、相反する思想を封じ込めるために先鋭化し、言葉を単純化してワンフレーズ運動を展開し、時には思想源流と懸け離れた単なる反対のためのワンフレーズが横行し、単純化された言葉の持つ運動エネルギーに酔いしれ、遂には盲目的となって思考停止に陥るという傾向にあります。司馬遼太郎の作品は、史実の正確さを巡って論争が絶えませんが、私が司馬遼太郎を好きなのは、その史実の正確さ如何ではなく、先鋭化された思想が本来持つ虚構性を鋭く指摘しているからです。

ロシアや北朝鮮の暴挙を例に引くまでもなく、国際秩序は年々劣化しています。欧米が戦後築いてきた民主的国際秩序は、決して完璧な秩序ではないし満足のいく秩序でもありませんが、日本は辛うじて戦争の災禍を免れ得たし、これからも十分に免れ得ると信じています。ただ問題は、何の努力もしないで既存の基盤を墨守して秩序が得られるのか、あるいは何かの改革の努力が必要なのか、です。思想史上のニーチェやフロイトらも、アポロン(形式と秩序)とデュオニュソス(創造と混乱)の対立を論じてきましたが、日本の政治の俎上にも再度上ってきたとも言えます。

安倍晋三元総理の祖父に当たる岸信介元総理は、日米安保条約の改定を断行しました。この改定とは何だったのかと言えば、戦後直後に締結された元々の条約が、米軍の駐留を無条件で認めていたものを、駐留に制約をかけた上でアメリカに日本の防衛義務を課すものでした。平たく言えば、戦争に勝ったんだから駐留させろ、というアメリカ目線の条約から、駐留するんだったらルールに従ってね、いざという時は日本を守ってね、という日本目線の条約になった、ということです。しかしその時に、戦争に巻き込まれる、という理由で安保闘争という大反対運動が起こりました。

安倍元総理は、平和安全法制の整備による日米同盟の抜本的な質的強化を断行しました。平たく言えば、日本を助けに来た人がやられそうになったら、日本はそれまで眺めることしかできなかったのを、日本を助けに来た人は助けることができるようにした、ということに尽きます。助けに来る側にとってみれば雲泥の差で、アメリカの真の信頼を勝ち取ったというのが日米同盟の質的強化の本質です。しかしこの時も、戦争に巻き込まれる、という理由で大反対運動が起こりました。歴史は繰り返すとは言うものの、私にはお爺様の断行した安保条約改定と完全にダブって見えました。

私が大学生の時、冷戦後の国際秩序はイデオロギーの衝突ではなく文明の衝突になるという内容の「文明の衝突」という本が一世風靡しました。果たしてその通りになっているのかは別として、少なくともイデオロギーの時代は間違いなく終わったのであって、現実を見て対処するという他になく、アポロン的な安定にデュオニュソス的な改革を加えてバランスをとり、新しい秩序を形成するしかありません。思えば丸亀京極家も、京極高次や忠高の時代には、安土桃山や江戸乱世の武家による国際政治を経験したはずで、常にこのバランスを意識して安寧を求めたのだろうと思った時、秩序には完成形はないとの複雑な思いに駆られます。

安倍晋三元総理が凶弾に倒れました。東京事務所が隣同士だったからか、私にも気さくに声を掛けて頂き部屋に招いて頂くこともありました。世界中の要人から追悼文が寄せられ、多くの国で追悼決議や半旗掲揚がなされる大政治家でしたが、私の職場の大先輩でもあり、常に明るく陽気で情のある一人の人間でもありました。無念でなりません。改めて心からご冥福をお祈り申し上げます。