コロナを生き抜くーカミューが生きた時代

(アルベール・カミュー。写真出展:wikimedia)

コロナ感染症が蔓延しているなか、カミューのペストが過去にないほど売れているのだそうです。異邦人もシーシュポスも読みましたが結局あまり好きになれない作家でした。しかし、何か人間の本性を抉り出すような静かな迫力を感じる作家だという印象は強く残っています。

カミューが生きたのは20世紀前半。アルジェリアの地でした。アルジェリアはフランス領でしたが、植民地ではなく本国扱い。なので、アルジェリアでフランス市民権を有する入植者も多くその数100万人とも言われ、カミューが生まれた海岸都市オランでは人口の8割が入植者であったと言われます。

彼らはコロンと呼ばれていたそうですが、コロンは自らをアルジェリア人と呼び独立を声高に叫んだ。そしてそのコロンと現地人の争いがあったり、その現地人の間でもコロンに協力するか否かで争いがあったり、またコロンとフランス本国との争いもあったり、更にはフランス本国内でもコロンを擁護するものと反対するものの争いもあったり、とにかく内部の言い争いが非常に多かった時代として現代に伝わっています。

そうした中でアルジェリア独立運動が起きたのが1954年から始まるアルジェリア戦争です。カミューがペストを発表してから数年の経過したころです。結局フランスはこの戦争で9万人以上、アルジェリアはなんと100万人とも言われる犠牲を強いられることになります。これ以降、民族自決運動の流れでフランスはアフリカの植民地の独立を次々と容認していきます。第二次世界大戦で強硬な姿勢で臨んだシャルル・ド・ゴールが戦後再度政権に就いたときに方針転換した結果だと言われています。

そのコロンをフランス本国政府はどう見ていたかというと、隣国エジプトの支援を受けていたと見ていました。従ってフランスはエジプトを忌々しく思っていた筈です。

一方そのころのエジプトは中東戦争真っただ中でした。1948年にイスラエルが誕生するとアラブ諸国はこれに反発しイスラエルを攻撃、第一次中東戦争が勃発します。そしてそれに対抗するためイスラエルはエジプトを侵攻します。エジプトは米英に支援を要請しますが断られ、結局ソ連に近づきます。この決断は後に、スエズ運河やアスワンハイダムを巡って、中東を冷戦構造の最前線に立たせることになります。

エジプトは当時イギリスの保護国でした(*)。イギリスにとってスエズ運河は世界覇権を維持する中心のアセットであったからです。しかしエジプトのナセルはそうしたイギリス支配構造に反発、クーデターを起こして親英の王政を打倒し、スエズ運河の国有化しチラン海峡を封鎖するという強硬手段にでます。

ここに、エジプトのアルジェ介入阻止というフランスの思惑と、エジプトからスエズ権益の奪還というイギリスの思惑と、チラン解放というイスラエルの思惑が一致し、ウィルソン平和原則があるにも関わらず秘密外交で3か国による忌まわしい対エジプト攻撃が実施されます。第二次中東戦争ともスエズ危機とも称される戦争です。

そしてこのスエズ危機は、国際秩序構造に大きな変化をもたらした事件となりました。変化とは何かと言えば、結論だけ書けば派遣国家としてのイギリスの地位が名実ともに決定的に低下、同盟国のアメリカにとどめを刺される事件でした。考えてみれば、この米英間の覇権をめぐる攻防は、国際秩序安定化のために第二次大戦真っただ中から議論されていた国際金融秩序構築のための議論に既に見ることができたわけで(後のブレトンウッズ体制に繋がる)、アメリカはイギリスの覇権をはく奪する為にアラユル手を尽くしていた感があります。

ペストを読んだのはもう30年も前。とても響いた言葉が今でも心に残っています。ペストに勝つには人間は誠実でなければならない。確か主人公の言葉です。誠実。生きることに誠実。結局、万人が自らできることを誠実に尽くす、自分の為でもあり、人の為でもあり、という理解を私はしています。

今、巷で多くの言い争いが起きていると言います。生活を支える宅配便配達人に暴言を吐く人、医療関係者をばい菌扱いする人、家庭内でのDV、フェイクニュースの愉快犯、必要以上にマスクを買い占める者、懸命に働く役人をSNSで滅多切り。目に見えるもの全てに悪態をつく。そんな忌まわしい社会の入り口に立たされている予感がします。カミューが生きた時代ほど国際社会の混乱はないはずですが、結局、人間の本質はあまり変わらないのかもしれません。だったとしたら、少しでも誠実でいたい、そして社会がそうあって欲しい。私はそう思います。

(*参考)

スエズ運河が完成したのは、徳川幕府が大政奉還した直後の1869年。スエズ危機に先立つ半世紀前ということになります。その直後に派遣された岩倉使節団も、完成したばかりのスエズ運河を通って帰国したという記録が残っています。

建設を企図したのはフランスの元外交官であるレセップスという人。自国政府の全面協力を獲得するも、アレクサンドロス=スエズ間の鉄道権益を持っていたイギリスの妨害で進捗芳しくなかった。転機となったのが、エジプトの国王交代で、当時極度の財政悪化にあったエジプトは、イスマイルの英断でスエズ運河株式会社の株式を放出。実業家のロスチャイルドは、イギリスのディスレイリー首相に、スエズ運河は中東海洋覇権の要衝であるから、株式を取得し管理権を獲得すべきであると説き、スエズ管理の実権をフランスと共に握ることになります。

スエズ運河の航行の自由が関係国によって訳されたのは随分後、1888年のコンスタンティノープル条約によってですが、イギリスはこの時点でこの条約に締結こそしたものの、アフリカや東南アジアで権益を争うフランスの中東での版図拡大を恐れ、批准はしていませんでした。しかしボーア戦争で財政的負担が増大し国際的地位は低下、ファショダ事件での英仏の大激突による両国の疲弊、さらにドイツの興隆によるドイツ脅威論の高まりもあり、またフランスもビスマルクの戦略に嵌り国際社会から孤立していたため、英仏はタッグを組むことになり、1904年という日露戦争開戦の年に英仏協商が成立します。この協商で、英仏は対立していた植民地の分割統治を約し、エジプトは全面的にイギリスの手に落ち、イギリスはスエズ運河に関するコンスタンティノープル条約に批准しました。