図解:限定的集団的自衛権と憲法

集団的自衛権と憲法

ものすごく基本的なことで、え?そうなんですか?知らなかった!、と驚かれることがあるので、念のためもう一度書きたいと思います。

図を作りましたのでそれで説明したいと思います。

真ん中の円で示した⑤より内側が個別的自衛権。その⑤と①の間が一般的な集団的自衛権です。そしてそれは③の自国防衛と④の他国防衛に分けることができます。正確に言えば国際法上③も④も他国防衛ですが、③は自国防衛に資するような他国防衛という意味です。

現在議論中の限定的集団的自衛権は、③だけです。つまり、やられている他国を助けないと、自分の国が危機的状況に陥ることが明らかなときのみに、発動されるものです。

これは法律にも明記されています。だから自分と関係ない外国での戦争に参加することはあり得ない。

そして今後どんな内閣が表れてもこれ以上解釈の拡大は起きようがありません。

そもそも憲法が言っているのは、②であって、それは自分の国を守る必要最小限のことは認めます、ということです。あくまで自国防衛。

で、昭和40年代当時、図にある旧国際環境に対応するために何が必要最小限かが議論され、どう考えても③も④も不要だから、③+④はセットで否定されていた。いわゆる集団的自衛権は憲法上許されないとされていた解釈です。

ところが、時代が変わり新国際環境になったとき⑥が問題となってきた。これに対応するための必要最小限は何かを議論すれば、③も認めざるを得ない。そしてこれは②の範囲内なのです。

だから、今後どんな内閣が表れても、国際環境が②のラインを突き抜けたとしても、憲法解釈でそれ以上できるようにはならないのです。憲法の限界だからです。

もし⑥の領域が更に広がっても、②を突き抜ける解釈は論理がありませんので憲法改正を行わなければ絶対に対応できない。

ちなみに、③は個別的自衛権でも対応できると言う人がいます。確かにできる場合もあります。しかしそれは国際法違反の可能性が高い。当たり前です。他国から見たら集団的自衛権だからです。

さらに言えば、民主党政権下でも、総理の諮問機関は集団的自衛権は必要だと結論付けています。

解釈の変更は軽々にするものではありません。しかし全くできないという性質のものでもありません。過去に例が何度かある。自衛官が文民かそうでないかも一例です。自衛権の有無もそうです。その当時の一内閣がそれをやってのけた。安保以外で不作為も併せれば、もっとその例はあります。

立憲主義の否定というのは誤りです。なぜならば、上で説明したとおり、論理があるからです。論理があるから立法準備ができているわけです。明々白々に違憲なのを無理やり解釈変更し立法化しようとすれば立憲主義の否定にあたります。野党が星一徹のようにこうした論理を全否定するのは政局睨みだとしか思えません。

 

シェアリング・エコノミーの可能性

シェアリング・エコノミーと言うと、なんのこっちゃ、と思う人もいるかもしれませんが、海外では信じがたい勢いで急成長している領域です。そして実は地方創生とも関係する概念です。

名前の通りですが、みんなでシェアー(共有)する、ということに尽きます。例えば、家でも車でも、これまでは所有することが中心でしたが、共有することもしっかりと考えていかなければならない。つまり、ストックとフローの隙間を利用したサービス産業ということです。実は農業分野で導入されている農地バンクも貸し借りのマッチングですのである種この概念の中に入ると思います。
 
そしてなぜ地方創生に関係するかというと、新しいストックをつくり続けるよりも、ストックの有効活用を考えた方が、地方はより好循環を生む可能性がある。例えば空き家があって、そこを少しでも貸し出す努力をする、とか、過疎地域で既存サービスも存在しない地域であれば、低額のサービスを提供できる、などです。

問題3つ。 

既存のサービスを提供する業種と競合し既存産業が衰退しないかという視点。それは困ります。共存できる範囲を模索する必要があります。1+1=1になっては困るわけで、1+1=3にしなければなりません。マッチングビジネスが栄えるとビジネスチャンスは増えるわけで、既存産業も得するという明確な計画が必要です。実際に米国では既存業種形態の売り上げも伸びているという話も聞きます。既存業種が納得するものでなければなりません。

もう一つはストック関係産業がサービス産業の中に組み込まれることになる。つまりストックというモノ作り産業が衰退しないかという問題。しかし、よく考える必要があります。例えば携帯電話は携帯電話というモノ、それを利用して通話するというサービスがあります。昔は携帯電話というハードで儲けていたものが、携帯電話そのものがほとんど無料になって、サービスで儲けるというビジネスモデルが20年くらい前から主流になっている。コピーという事務機器も本体価格は極端に安くなってコピーというサービスで儲けるモデルが主流。しかし、ごくごく最近では更に発展していて、サービスや周辺技術を完全オープン化し、ハードのコア技術を徹底的に知的財産によってクローズにして、このコア技術で儲けるというビジネスモデルが興隆しつつあります。皆にただで使わせて普及させ、それが無ければ困る社会を作った後、ハードで儲けるということ。アップルのiPhoneは実はサービスで儲けているわけではなく、ハードで儲けています。シェアリングという、ストックをフローに繋ぐ概念を、練りに練ったオープンクローズ戦略でビジネス化すれば、ストック産業はより発展する。IoTやCPSやビッグデータという新テクノロジーによる社会大変革の時代、世界が仕掛ける戦略に飲み込まれてはなりません。

もう一つは、見ず知らずの人と共有するわけですから、トラブルが発生しないか、という視点。誰でもいいということは絶対あってはならないので公的個人認証などを有効に使うことがまず考えられますが、いずれにせよ必要なルールは導入しなければなりません。ただ重要な視点は、トラブル回避するインセンティブを導入強化しトラブル処理のルール作りにエネルギーを割く方が健全だと思っています。まずはマッチングビジネスのルール作りから始めるべきです。

以上からすれば、既存の規制を撤廃することよりも、まずはプラットフォーム事業者のプラットフォームを作ることが先決だと思います。

ただ、政治は30年後くらいを見据えて社会のありかたを考える必要があります。国家、であるならば、どこでも産業を育成し消費者を保護するための規制というものがありますが、日本の場合、できることをやたらめったら細かく書いてある。だからその中で生きる既存産業はその中である限りは温室で生きていける。反面、IoTやビッグデータなど新しいテクノロジーが出現して新しいビジネスを展開しようと思ったら、必ず規制に引っかかる。一方で、ニュービジネスが発達しやすいアメリカはどうなっているかというと、規制こそありますが、細かくないか、むしろやったらダメなことが書いてある。だから、やろうと思えばなんとかビジネスを興せるわけですが、トラブったら訴訟するというコストが発生する。つまり、平たく言えば、明確な産業戦略を国家が把握している場合は、前者の方が産業活性化しやすいわけで、一方で民間の活力とか多様性を頼りにするならば、後者の方が活性化しやすい。牧歌的にアメリカンスタイルを導入することを排し、日本らしい社会の在り方、規制の在り方を、しっかりとした国家観をもって、じっくりと議論していかなければ、日本は世界の戦略に飲み込まれてしまいます。

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国際金融の世界で起きていることーバーゼル規制

現行の国際金融秩序は完全無比なものかというと、必ずしもそうではない。だからこそ、安定した秩序にするために努力を重ねる必要があるのであって、例えばリーマンショックが起きたらそれを教訓としてやれることをやるべきだとは思います。これは行き過ぎた新自由主義を世界が反省しなければならないということだと思います。

バーゼル規制委員会の議論もその方向でなされているのですが、出発点として、今一度原点に立ち返ってみる必要があると思っています。それは、規制の強化がかえって不安定さを助長することになってはいないか、また、経済的悪影響を及ぼす遠因になっていなか、という視点です。さらに言えば、国ごとに環境が違うものを一律の規制にすることによって、個別の国が割に合わなくなる可能性を政治も関心をもっておかないといけないという視点です。

つまり、リーマンなどの金融危機が起こらないための大きな流れでの規制は必要ですが、国に産業が興るためにはリスクマネーの供給は必須であって、そうしたローカルな資金の移動に影響を及ぼすような規制であってはならないはずです。

バーゼル規制の柱は3つから成り立っており、第1は、有名な自己資本比率規制によるリスク管理。第2は、銀行の自己管理と各国の規制監督省庁に委ねる方法によるリスク管理。第3は、情報開示の徹底によって市場の自浄作用を求めるリスク管理です。

現在議論中のバーゼル3では、リーマンショックを受けて、再証券化商品など高度に複雑化した金融商品が絡む信用リスクをどのように評価管理するのか、例えばこれまでのように外部格付けで評価していいのか、という問題や、金利上昇などの市場リスクをどのように評価するのか、などが主要な関心事になっています。その他にも多くの論点がありますが、一言で言えば、リスク評価の精緻化を行おうとするもので、2013年から2019年にかけて段階的実施がうたわれています。

例えば日経新聞が定期的に報じていますが、自己資本規制で国債のリスクも評価対象にするから大変だ、というのがありますが、それは上記の一環の話です。つまり、リスク評価対象が増えるということは、貸出を減らして自己資本を積み増すか、国債を含むリスク資産を売却して分母を減らすかしなければならない。売却が進めば金利は上がるので大変だというわけです。

こうした報道は実際は当たらずとも遠からずではあります。国債は信用リスクと市場リスクの両方にかかってますが、前者については全くあわてる必要もなく、外貨建ての国債でもない限りデフォルトの可能性は低く、信用リスクに積み増す必要はありません。実際に2柱の範疇で取り扱われています。一方、市場リスクの方は、まさに議論ど真ん中。9月11日までにパブコメをまとめ来年には最終化される見通しです。

具体的には、金利リスクを1柱の範疇で機械的に評価して資本の積み増しを求める案と、2柱の範疇で当該国の当局が銀行を監督するやり方が議論されています。欧州勢は1柱案に固執していますが、これはギリシャなどを抱えるから、日米は2柱案を支持していますが、これは国債保有比率が欧州勢に比べ高いからです。これだけ国によって違うのであれば、1柱案で提案のあった単純な評価方法では十把一絡げに扱うのは無理だし、それを単純に受け入れることはできません。

一方で、信用リスクの評価方法の変更検討についても注意深く見守って行く必要があります。前述したように、これまでの信用リスク評価は専ら外部格付け機関によっていました。確かにそれだけでいいのかというのは大いに疑問がありますが、健全な与信先への貸付に負の影響がでるようなことは避けなければなりません。

例えば、法人向け債権は従来外部格付けを参照しリスクウェイトを20%〜150%、無格付けは100%に設定していました。中小企業など小口与信先は一律75%です。協議中の内容は、法人は売上高とレバレッジの水準を参照してリスクウェイトを60〜130%(債務超過は300%)。中小企業などリテール向けは旧来と変わらず75%とされています。中小企業の定義と為替の関係が気になるところです。

これだけではなく、先立つ記事に書いたように、中露の動向など国際金融体制の大きな流れも考えあわせて、変なことにならないように注意深く見守って行こうと思います。

国際金融の世界で起きていることーBRICS銀行とAIIB

先日9日、BRICS(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)の首脳会談がロシアのウファで行われました。取り上げられた議題の1つに、新開発銀行設立(BRICS銀行)がありました。

新開発銀行は、新興国や途上国のインフラ整備のためのものとされ、AIIBと連携するものであること、出資比率は参加国それぞれ100億づつの合計500億でスタートすること、などを軸とするものですが、本質は、AIIB同様、欧米国際金融体制に対抗するものであるという見方もあります。

そもそもAIIBがあるのになぜBRICS銀行という話になったのかと言えば、おそらく中露のギリシャやインドを含めた国際政治的な思惑が背景にあるものと思われます。例えば、ロシアとギリシャの急接近は有名ですが、AIIBではロシアはそれほど幅を利かせられないのでBRICS銀行でギリシャを誘っているという見方ができます。それ以外でも、中露はSCO(上海協力機構)でも欧米対抗基軸を打ち出しているようにも見えます。インド・パキスタンの正式加盟を認めるなど、ロシアは旧来からの友好国であるインド取り込みも積極的です。ロシアとしては、インドを取り込めば中国の影響力のカウンターバランスになるとの思惑も見えてきます。中国にしてみれば、BRICS銀行強化がAIIB体制強化にもつながるとの思惑が見えてきます。結果的にロシアもハッピーということです。

しかしその延長線上の遥か先には、例えば米ドルが基軸通貨じゃなくなる日というのも想像が全くできないわけではない。そうなることは日本にとって国際金融秩序のみならず国際政治秩序としても良いことではないはずです。そういう文脈で捉えれば、BRICS銀行は置いといても、設立と運用のポリシーが根底から異なるAIIBに日本が参加してAIIBの信用力を決定的に高めてしまうよりも、お互いに相補関係になるべきではないかと思っています。

日本と関係ない戦争に巻き込まれない理由

アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか、アメリカがやってくれと言えばNoとは言えないのではないか、仮に今の法案ではできなくても、そのうちまた憲法解釈を変更して、巻き込まれるようになるのではないか、そうした不安をお持ちの方がいらっしゃると思います。そんなことは絶対にない論理的理由を書いておきたいと思います。

簡単に言えば、限定的集団的自衛権は、日本に相当の侵害が起きる明白な危険がない限り発動されませんが、それは憲法の限界だからです。自分とは関係のない、あるいは関係の薄い、つまり明白な危険が高くない紛争に関与することは憲法上も法案上も許されていません。だからNoと答えるしかない。

一言で言えば日本を助けてくれる人は助けようよということであって、それが憲法の限界なのです。逆に言えば、日本防衛のためのことだったら、その用途に合致した部分の集団的自衛権だけは認められるということです。

ではなぜそこが憲法の限界なのか。重要なことなので書いておきたいと思います。

まず、砂川事件は避けて通れません。在日米軍の合憲性が争われた事件で、最高裁判所が示した自衛権に関する唯一無二の判決です。まず誤解が多いのが、砂川判決が集団的自衛権について触れていないのだから合憲だ、という単純な論を政府がとっているように言われますが、違います。確かに根拠を構成する1つの重要な要素ではあります。

簡単に言えば、砂川判決は何を言っているかというと、いわゆる傍論ではあるものの、自国防衛の自衛権は否定されませんよ、としか言っていません。それを受けて、有権解釈権をもつ政府は昭和47年に公式見解を発表しています。それは、その自衛権は否定されないと最高裁は言ったけど、それはそれとしっても憲法の趣旨に鑑みれば、その自衛権は必要最小限の範囲に限る、というものです。これが規範と呼ばれる部分で、自衛権の解釈の土台。つまり砂川判決をさらに政府は狭めたわけです。ここは新しい安保法制も全く変わっていません。

この規範の次に、では必要最小限はなんぞやということになるわけですが、それはその当時の国際情勢や武器技術に鑑みれば、当然集団的自衛権などは100%認められないよね、となった。いわゆる時代の当てはめの結果と言われる部分です。つまり、規範を更に狭めた結果です。念のため整理しますと、規範があって、時代背景があって、当てはめの結果がある。

昨年7月1日の閣議決定による集団的自衛権の限定的行使容認は、この公式見解を根拠にしていて、時代背景の当てはめの部分が変化すれば、その結果は変わるのではないか、というところです。規範の部分は自国防衛の意味での自衛権ですから、結果としては、最大限度認めうる必要最小限とは、自国防衛の為という限定された集団的自衛権が認めうることになります。

つまり逆に言えば、今後解釈で変更できる部分というのは、時代背景やら武器技術というあてはめの結果の部分ですが、その結果は当然、規範の範疇に入っているわけで、では現在の新解釈以上の解釈拡大の余地があるかというと全くない。なぜならば、自国防衛のための集団的自衛権というものより広い概念がないからです。これ以上広げるなら、規範を変えなければなりません。しかし、この規範は先ほど書いたように、憲法の趣旨に直結した論理なので変えようがないのです。

結論として法案には「我が国と密接な関係にある他国に武力攻撃が発生し、それにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が起こった場合が自衛権発動のそもそもの条件の1つになっています。だから、アメリカに何を言われようが、全部従うことは憲法上許されない。

憲法解釈の変更がけしからぬという意見を私は横暴にも全否定しようとは思いません。しかし是非ご理解を頂きたいのは、論理としては通っているものなのです。この部分の論理は単純ではないので、法案内容とは異なる不安が先行しているのだと思います。

ちなみに憲法学者の多くは、砂川判決は政治的配慮があった判決であって司法の独立性が疑わしい最悪の判決だという認識に立っています。憲法学者の大家である芦部信喜先生(私も20代に読み漁りました)も、憲法9条の解釈について有力説、通説を解説し、その他の説を紹介していて、前2者は共に戦力である自衛隊も自衛権も認められないと説き、最後のは、自衛権は放棄していないという説もあるという紹介をしているに留めています。だから、そもそも違憲になるわけです。

参考までですが、共産党は、政府の公式解釈は、規範から結果まで一体のものだから違憲だと主張していますが、根本的な論理としては憲法学者の伝統的解釈に近いものと思います。民主党も同様だと思われますが、より現実的解釈であると理解しています。正確には不明。維新の党は憲法学者や国民が違憲だと言っているから現時点は好ましくないと主張していると理解しています。

もう一言だけ言わせてくださいー平和安全法制ー

現在審議されている安保法制は、紛争未然回避法案です。本来、紛争を未然に回避するには何をどうすればいいのか、を決断して苦労してやっているものです。それが戦争法案と喧伝されています。

この安保法制について大多数の憲法学者がこぞって違憲だ、と主張されています。確かに真摯に受け止めなければなりませんが、憲法学者って6割が自衛隊の存在自体が違憲だという現実社会では化石みたいな存在。災害発生時に助けに来てくれたのは憲法違反だと訴訟を起こしそうな勢いです。

さらに言えば、自衛隊の存在が違憲だという憲法学者の大多数95%弱が憲法改正して自衛隊の存在を認める必要すら無いのだとか。存在位は誰が聞いても認めるべきではないのか。

彼らの意見は論理で言えば理解します。が、現実社会では理解に苦しみます。

かつて、論語と算盤を著した渋沢栄一を思い出します。算盤が論理、論語が現実。論理だけで突っ走っても神学論争にしかなりません。いわゆるドツボ。

なぜならば、論理で言えば、現在の安保法制は明確に合憲の論理があるからです。

もし論理で押し通すなら、最終的に合憲か違憲かを判断するのは最高裁判所なはずです。立法府は立法府で立案する法律が合憲だという論理を元に立法するわけですが、それで具体的な権利侵害が生じたら違憲審査を最高裁に求めればよいはずです。仮に無茶苦茶な総理が将来現れて、合憲の論理さえない、とんでも法を創ろうとしても論理がないので間違いなく立案さえできず、仮に立案できたとしても成立するこはなく、まして仮に成立したとしても、違憲訴訟が直ぐに起きるはずですし、選挙の洗礼も受ける。だから、民主主義国家として成り立っているわけです。ここが論理の終着点。証明終わりでQEDです。

一言で言えば、1×1=1と、(−1)×(−1)=1を争うようなもので、合憲違憲の言い争いは意味がない。最高裁しか、1か(−1)を最終的に判断できない。

本当の最大の政治の課題は現在の安保法制の先にあるものです。ここをバランス感覚を持ち続けてハンドリングする必要があります。そういう意味では批判は常にあってしかるべきで、批判のある国は真っ当だと思います。しかし、何をやるかよりも、遥かに、何をどうやり続けるのか、どうバランスを取り続けて進んでいくのか、の方が重要です。この法案は紛争を避ける意味でも外交の最大のツールとしても絶対に通す必要があると思っています。これは親分がそういうからではなく、私自身、そう思っています。

なぜそう思うのかというと、例えば現実の社会で、この法案を審議しているだけで、近隣諸国となんとなく上手くいきそうな兆しが見えてきていると感じるのは私だけでしょうか。アメリカとの距離が2012年あたりに比べて急激に良好になってきていると思うのは私だけでしょうか。国際政治は国内の論理だけで生きていけない世界だと感じているのは私だけでしょうか。

吉田満と安保法制

かつて史実作家にしてバッハを愛する吉田満は、作品「戦艦大和ノ最期」の中で、とある実在する大和乗組員の白淵海軍大尉の言葉を紹介している。吉田の創作なのか本当の言葉なのかは定かではないが、なんとも哲学的な表現であって、随分昔に読んだものだが、未だに鮮明に心に残っています。

白淵が大和に乗艦し沖縄戦特攻に向かう途中、下士官と予備士官が激しく言い争う場面です。戦死は軍人の誇りだという下士官と、無駄死であり意義が解らぬという予備士官。そこに白淵大尉が間をとって諌める話です。

「進歩(※1)のない者は決して勝たない 負けて目覚める事が最上の道だ 日本は進歩という事を軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺達はその先導になるのだ。 日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃあないか」

私的な潔癖や道徳に拘って・・・。私にはこの言葉と今の安保法制の相関性を表現する言葉の力は残念ながらありませんが、敢えて努めると、負けて目覚めるようなことがあってはならないのであって、負けるか勝つかをする前に、気づかなければいけないことが確かにあると思っています。

決して「私的な潔癖や道徳に拘って」空想をしてはいけないと強く思うのです。吉田をして白淵にこの言葉を言わせしめたのは、時代が生身の人間を精神論で突撃させるようなことがあったからであって、そこには決定的にリアリズムが欠けていたからだと思うのです。

だから、リアリズムを追求すると、戦わないために何をするのかになるのであって、何をするかと言えばパワーバランスを保っておかないといけないと強く思うのです。そう考えれば必然的に現在の安保法制は必須になってくるのであって、これを違憲の戦争法案と断罪しようと試みるのは、特攻行ってこいと言うのに等しいと、哲学的に、そして論理的に、全く同じだと思ってしまいます。

吉田満に言わしめたこの言葉を、私は決して左寄りの人が利用するような「だから武力は持つべきでない」と言う意味で捉えるものでは全くなく、また右寄りの人が使う「ここまでして先人は日本を守ってくれたのだから現代人も守らなければならないのだ」という文脈でも捉えない、むしろ単純なリアリズムの教訓としてとらえる必要性として感じています。

かつて現代の史実作家の塩野七海さんは、著書ローマ人の物語のなかで、カエサルが言ったとされる言葉を現代に伝えています。「人間とは見たいものしか見ない」。

リアリズムとアイディアリズム。この狭間で見たくないものをしっかり見る努力をしつづけること。憲法精神的に言えば、左巻き進歩的文化人(※2)の精神的支柱であった丸山真男ではないですが(※3)、生きる権利の上に胡坐をかいていては駄目で権利は不断の努力をしなければ勝ち取れないのだと思います。

(※1)この進歩と(※2)の進歩は全く別義で使っています。
(※3)念のためですが丸山の結論には私はまったく賛同しませんが思考の清さは尊敬に値すると思っています。以下、参考記事。

https://keitaro-ohno.com/?p=2398 自民党機関誌寄稿論文
https://keitaro-ohno.com/?p=1165 説を変ずるはよし、節を変ずるなかれ(陸羯南・徳富蘇峰・田岡嶺雲・正岡子規・司馬遼太郎との関係)
https://keitaro-ohno.com/?p=57 主張は清くありたい
https://keitaro-ohno.com/?p=1532 主権回復の日について
https://keitaro-ohno.com/?p=2408 祝ノーベル賞
https://keitaro-ohno.com/?p=1188 幼子は誰が責任を持って育てるのか
https://keitaro-ohno.com/?p=1818 確かな安全保障制度を構築し心豊かな国家の創造を

地元で賜る安保法制に関するご意見

安保法制の審議が続いています。私自身も、平和安全特別委員会の委員として審議に参加しております。報道もようやく諸説報じて頂いているためか、皆様のご理解も進んできているのではないかと思います。問題はどのようにご理解いただいているのかということだと思います。
 
ご年配の方々によく賜るのが、戦争を知らない世代の政治家が作る法律は危ない、というもの。真摯に受け止めなければなりません。現在の安保環境は間違いなく法改正を必要としています。問題は、極端に安保前のめりにならないことです。そしてこの法律案は、私自身、真剣に精査をし、まったくもってその範疇に入るものではないことは明言しておきたいと思います。
 
そして本法律案は違憲ではないかというご指摘も賜ります。私は、この角度からも法律案を精査し、間違いなく明々白々に合憲だと言える論理があることを確認しています。そのために国会では神学論争になっていますが、合憲だ違憲だという両論があったとしても、最終的な違憲審査を行うのは最高裁判所ですので、合憲の筋道が通った論理がある以上、世界の現実と向き合うのが政治であろうかと思います。
 
また、憲法解釈の変更というのは姑息であって正々堂々と憲法改正すべきではないかというご指摘も賜ります。私は姑息だとは思いませんが、当初は憲法改正すべきだとは思っていました。しかし、現在はこのプロセスの方が真っ当に感じています。なぜならば、憲法改正を仮に実現したとしたら、恐らくそれはフルセットの集団的自衛権、一般的な集団的自衛権を意味するのだと思います。そうなると、法律上の審議は困難を極めるのではないかと思います。現在の憲法では、行使可能になる集団的自衛権はかなりの制限がかかっていますので、まずはこの限定された範囲で実施するのが現実的な政治ではないかと理解するようになっています。
 
恐らく他にも漠然とした不安をお持ちの方もいらっしゃると思いますが、これからも真摯に丁寧に説明をしていきたいと思います。

平和安全特別委員会

昨日、平和安全特別委員会の質問に立ちました。岸田大臣に基本的認識を、そして米艦の他国による攻撃に際する武力攻撃事態と存立危機事態の棲み分けの在り方について外務防衛両大臣に意見を求めました。本来、それに引き続き、後方支援活動と宇宙空間についての質問をする予定でしたが時間切れ。また機会があれば望みたいと思います。

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201507/2015070100623&g=pol

【時事通信社】1日の衆院平和安全法制特別委員会で、(中略)、外相は、日本防衛のため活動している米艦船が公海上で攻撃を受けたケースに関し「個別的自衛権で対応できるのは極めて例外的な場合だ」と述べ、基本的に集団的自衛権で対処すべきだとの考えを示した。自民党の大野敬太郎氏への答弁。