訂正とお詫び


民主主義にとって政治家の政治資金の透明性を確保することは極めて重要なことで、我々政治家は、日常の政治活動の他、選挙時についても、収支を報告することが義務付けられています。従って、私どもも日頃から細心の注意を払って報告書の作成に努めておりましたが、今般、過去の選挙時の収支報告について、誤りの指摘が外部からあり、改めて確認をしたところ、記載に誤りがあったことが分かりました。誠に痛恨の極みであり、心よりお詫び申し上げる次第です。

選挙費用の原資は大きく分けて2つあります。1つはいわゆる自腹部分(自己資金か関係する政治団体が支出するもの)と、もう1つが公費です(選挙ポスターなど)。公費は受託業者が国庫から直接受け取るため、我々政治家は直接タッチしません。

選挙の収支報告書では、収入の部については公費負担部分は当然含まれないのですが、支出の部分については公費負担部分を加算して報告するように求められています。ところが今般、前者の収入の部について、本来は前述の通り公費負担分を除いて記入すべきところを、支出の部と同様に公費負担分を加算して記入していたことが分かりました(一般の決算は収入と支出が同額になるのが通常ですが、選挙収支報告では同額とはならない)。

記載すべきであった額は下記の通りです。なお、記載方法の誤認であり、実際の金額のやり取りに変更はなく、これについては支出元の政治団体収支報告書に同額の支出があることで確認できました。今後の対応は現在検討中ですが、最も早く皆様にご報告できる手段として、取り急ぎこの場で訂正をさせて頂きました。改めて深くお詫び申し上げる次第です。

なお、当問題をご指摘頂いたメディアの調査目的は、使途不明な余剰金が発生しているのではないかというものでした。つまり収入と支出が同額だと必然的にその差額(当方の場合は公費相当額)が使途不明金に見えるというものです。これは前述の通り全くありません。

選挙運動用収支報告書
収入の部 (正)7,891,228(誤)9,370,928 (差額が公費の1,479,700)
尚、支出の部は、9,370,928で変更はございません。

※後日追記)初稿時点から本日に至るまで、選挙収支並びに関連するその他の収支報告も精査をし、現時点で問題ないことを確認しました。本稿で触れた誤りについては、本日、訂正を申告いたしました。誠に申し訳ありません。(令和元年8月5日)

アメリカ出張報告

アメリカに出張に行ってまいりました。この出張の目的は、国際社会に日本の社会構造をわかってもらうこと、それを起点として、国際社会のあり方と日本の役割を同盟国と議論すること、それを通じて日米同盟の安定的運営に向けた次世代のコミットメントです。小泉進次郎代議士を団長として、福田達夫代議士、村井英樹代議士とともに参りました。大掛かりなテーマの出張でしたが、発信力の高いメンバーでしたので、成果もあったものと思います。

背景には国際社会の構造変化と秩序の揺らぎがあります。それを見越して戦略的にとは言いませんがアクションを起こしておかねばなりません。日米関係も首脳同士の個人的な関係が大きく寄与していますが未来永劫安倍トランプ関係に頼れるわけではありません。若手議員によって日米同盟の維持強化に対して将来的な積極的コミットメントの意志を示すことは重要なことです。そのためには、日米双方の社会構造の変化と政治を相互に理解しておかなければなりません。また、二国間だけではなく、WTO改革など、日本が果たしうる役割を考えつつ、雰囲気を醸成していくことも重要です。

因みに、こういう雰囲気というのはすぐに変わります。例えば◯◯国は良い国だという雰囲気が、数年経つとあっという間にダメな国だ、となり、◯◯同盟の方が良い、などということになってしまいます。そしてその雰囲気は、ワシントンDCのものと郊外のものとのズレもあります。したがって政治におよぼす影響もかなりのダイナミズムがあります。そういった意味で、常に努力をし続けなければならないのだと思います。

さて、日程は5月1日から5月6日まで。CSISでの団長の講演を中心に、同会場でメンバーによるパネルディスカッション、上院議員やシンクタンク、政府関係者との意見交換などを行い、情報発信に勤めました。いつものことですが、海外出張にくると、全力で日程を詰め込むので、朝は7時台から活動を開始し、夜は11時頃になるという、まぁこれは結構しんどいことになります。

 

 

CSISでのパネルディスカッション後の一幕

CSISでのパネルディスカッション後の一幕

多少具体的な日程に触れると、アーリントン墓地での献花、マーシャ・ブラックバーン上院議員、コリー・ガードナー上院議員、アレクサンダー上院議員、エド・サリバン上院議員との意見交換、経団連主催のレセプション、ヘリテージ財団、アーミテージ、CSIS、ブルッキングス研究所、CAPといったシンクタンクとの意見交換、政府関係者との意見交換、そしてアナポリス海軍士官学校への訪問と昨年他界したマケイン上院議員のお墓に献花して参りました。

最後のマケイン議員の追悼から触れます。マケイン議員はアナポリス出身の元海軍パイロット。アナポリスはエリート中のエリートが行くところで国民の尊敬と期待が集まるところですが、そこ出身というだけではない多くの魅力がマケイン議員にはあったと思います。特に軍関係者の同氏に対する尊敬は絶大で、多くの軍施設で他界後長きにわたってアメリカ国旗が半旗掲揚されていました。改めてご冥福をお祈りします。

マケイン上院議員

マケイン上院議員

また到着早々に訪問したアーリントン墓地は国が運営する国のために亡くなった兵士を祀る墓地で、私もしばらく行く機会がなかったので、貴重な機会となりました。改めて哀悼の誠を捧げます。

CSISでの団長の講演は、冒頭述べた趣旨に基づくものですが、海外の評価は非常に高かったのだと思います。よく耳にした意見の代表的なものは、次世代の政治が人口減少などの諸課題に非常に明るい前向きな姿勢で挑んでいるという印象を持った、というものです。また、後半のメンバーによるパネルディスカッションも比較的好評で終始英語で明るく直接訴えたことも功を奏したのだと思います(私は少しクソ真面目だったなと反省)。特に、村井英樹代議士の発言は、爽やかで心温まる雰囲気を会場に作ったのだと思います(上記動画の51分あたりから)。

各上院議員での意見交換で、それぞれから日米関係の重要性について、表面的社交的なものではなく熱いメッセージをいただきました。ありがたい事に、コリー・ガードナー上院議員は我々との面談の翌日に、メネンデス上院議員ら4名での超党派連名で、日米同盟強化に関する国会決議を提出してくれました。ありがたい事です。

Resolution Calling For A Stronger U.S.-Japan Alliance, U.S. Senate Committee on Foreign Relations, May 02, 2019

シンクタンクでの議論は、深い議論になる場合もあれば、表面的なものに終わることもありましたが、全般的に言えば良い議論ができたものと思います。

ハドソン研究所

ハドソン研究所

 

ハドソン研究所ワインスタイン所長

ハドソン研究所ワインスタイン所長

アナポリス。アナポリスには現在も毎年海上自衛隊の幹部職員が派遣されており、日夜日米同盟の強化を下支えしてくれています。そしてアナポリスは日本を感じさせるものであることを実感しました。例えばアナポリスは設立1845年ですが、爾来、日本人も入校しており、驚くことに、先程触れたマケイン議員のお墓と同じように、亡くなった日本人のお墓もあります。また、琉球の鐘(本物は日本に返却・現在レプリカ)や戦艦大和の模型、苦戦したミッドウェイ海戦など、負の歴史なのにも関わらずそれを乗り越えた関係であることに気付かされます。

アナポリス

アナポリス

因みに、咸臨丸もアナポリス出身の米海軍にお世話になったのだとか。咸臨丸は日米黎明時代に活躍した軍艦で、日米修好通商条約調印のために帰路についていた米艦船に随伴し、福沢諭吉やジョン万次郎を乗せて米国に向かった船として有名ですが(我が地元の塩飽水軍から水夫が多くでている)、途中で嵐に遭遇し操船が危ぶまれたところを救ったのが、アナポリス1期生卒業の米海軍士官であるブルック大尉。本当は自国の船で帰るはずだったところ、事情で乗れず、咸臨丸にたまたま乗せてもらったのだとか。アナポリスが無ければ、福沢諭吉もおらず、日本の発展も遅れていたかもしれません。

G20ー国際秩序、そして豊かさと公平さ

(写真はG20とは関係ありません)

先日、G20財務相・中央銀行総裁会議(以下G20蔵相会議)が行われました。日本が初めて議長国となったのですが、このことは、国際社会にとって極めて意義深かったと思います。なぜならば、後述しますが、世界の中で自由貿易の旗手たりうる国が陰りを見せているため、必然的に日本にお鉢が回ってきている情勢にあったからです。

この会議では、世界経済の動向や構造的問題、デジタル国際課税などについて議論されました。コンセンサス(合意)が得にくい分野もありますが、6月に大阪で行われるG20大阪サミット(以下G20サミット)に向かって日本はしっかりと役割を果たさねばならず、その前哨戦である今回の蔵相会議は大きなマイルストーンになると期待されていました。そこで今日は、世界経済について書いてみたいと思います。

g20.org

G20大阪サミット(来る6月開催予定)

■世界経済は減速傾向

G20蔵相会議に先立って、IMF(国際金融基金)が世界経済の見通しを発表しました。過去半年で連続3回目も下方修正であって世界経済の減速傾向が改めて鮮明になりました。これは、中国経済の減速、世界的なエネルギー需要の低下と資源国の経済減速、新興国全体の減速、また、ドイツをはじめとしたEU諸国全体の成長鈍化、などが影響しているものと思います。いずれにせよ、G20蔵相会議では世界経済は減速傾向にあるということを現状認識として一致しています。

因みに余談ですが、G20の役割はこうした減速傾向にある世界経済を再び回復基調に戻すために国際協調することにありますが、日本が消費税増税をこの場でコミットしたことについて、評価が分かれるとの論評がでています。つまり、財政赤字の拡大はリスク増大をもたらし世界経済に不確実さをもたらす要素であるはずですが、一方で消費税増税は世界経済の足を引っ張る可能性があり回復基調への国際協調という路線とは逆行するのではないかという主張です。しかしながら、これは消費税増税に伴う財政手当をしっかりしているので、私は指摘は当たらないと認識しています。

本題に戻りますと、世界経済の減速傾向の裏側には、経済グローバル化の負の側面として各国で経済格差が広まり、政治の不安定化を通じて、自国主義や保護貿易主義の傾向が世界に広まってきていること、他方で、経常収支の不均衡の問題が大きな構造的問題として存在します。それらが米中貿易摩擦やブレクジットの問題を引き起こし、世界経済の先行きを不透明にしています。

■経常収支の不均衡は誰が是正すべきなのかー米中貿易摩擦

米中貿易摩擦は典型例ですが、経常収支の不均衡を、自国主義に先鋭化した先進国が関税などで単独で対処しようとしている、という傾向が鮮明に表れているのですが、一体それは正しいのか。正しくないとすれば、経常収支の不均衡を一体誰が是正するべきなのか。これが国際社会の経済面での課題の最大のものであろうと思います。そして自国主義・保護貿易主義は、世界経済の足を引っ張るのみならず、必ずブロック経済化に繋がり、国際政治が先鋭化して、紛争が多発する不安定システムになります。ですから、絶対に避けるべきです。

米中貿易摩擦の構造はどのようなものなのか。中国側からすれば、経済成長に伴って債務を増やして消費や輸入を拡大し、それが世界経済や米国経済に裨益し貢献した筈なのに、なぜ俺らだけが虐められるのか、という見方をしていますし、一方アメリカ側は、不均衡の原因は中国にあるから、関税を上げて対処しようとしています。

現在のトランプ政権のこうした認識は誤りとは言いませんが正しいとも思えません。まず第一に、サプライチェーンがこれほどグローバル化していれば関税を上げたからと言って必ずしも貿易赤字の解消にはダイレクトに効かないはずです。しかも、現在はモノ以外の取引量が多くなっているので、モノの関税を上げ下げしても効果は限定的です。

しかしそれ以上に重要なのは、関税操作では貿易赤字は多少は減らせるかもしれませんが経常収支の不均衡を本質的に是正することにはならないということです。より本質的に不均衡を是正するのであれば、消費を減らすか財政赤字を減らすかのどちらかの選択をすべきです。しかしこれらは政治的には厳しい。一方で、輸出を増やす方法もありますが、失業率が低い米国ではこれも簡単ではない。

であれば、国際社会全体の問題として、経常収支の不均衡を是正する仕組みを整えるべきだということになります。これが今回のG20蔵相会議での日本側の主張の一つになっているのだと思います。そしてもう一つ、先ほど触れた、先進諸国の国内格差と政治不安定をもたらした過度のグローバル化もセットで是正に取り組まねばなりません。つまり現在の自由貿易の基準軸を少し引き戻すということを意味し、過度な格差を生まないようなシステムを模索すべきだということになります。

一方で中国型資本主義の拡大も大きな議論となるはずです。経済発展すると民主化するというのは通説でしたが、現在の世界経済の発展モデルは2極化していて、前述の既存の民主資本主義経済モデルが不均衡と格差にあえぐ中で、中国型覇権政党資本主義経済モデルが成長を遂げています。経済が減速しているといっても引き続き6%以上の成長を続けています。アメリカ経済規模を追い抜くのもそう遠くはないはずです。2040年には人口減少と高齢化のフェースに入ると言われておりますが、それ以降も6%は無理としても緩やかな成長が続くとされています。

これを可能たらしめている理由は様々あると思いますが、次に述べるネットテクノロジーも大きな貢献をしているのだと思います。特に、中国のような覇権政党制であるならば、ネットテクノロジーとの親和性は極めて高い。日本ではシェアエコをやろうとすると、利害調整に極めて膨大な政治コストがかかりますが、中国型は決断があればいい。

世界の経済成長モデルが2極化しているなかで、将来は今よりも大きな摩擦が生まれる可能性は残っています。次世代移動通信規格であるG5でも相当な覇権争いが始まっています。国際社会の秩序を維持するために、あらゆる国際機関を通じて調整の努力を怠ることはできません。AIIBの例をみるまでもなく、不可能ではないと思います。

■デジタルプラットフォーマの国際課税

現在の世界的な株式時価総額ランキングを見ると、GAFA( Googe, Apple, Facebook, Amazon )やBAT( Baidu, Alibaba, Tencent )で埋め尽くされています。世界経済の牽引役は、そうしたデジタルプラットフォームビジネスを行う会社で、これらの会社のサービスのお蔭で、人々の暮らしは確実に豊かになっているのだと思います。

ただ、それらの企業の富が適切に分配されているかというと、どうもそうでもないらしい。とある機関の報告では、一般的なグローバル企業の法人税実効税率は23%程度である一方で、こうしたデジタルプラットフォーマーのそれは、たった9.5%程度しかないとのこと。なぜそうなるのかと言うと、デジタルビジネスのサービスは、その消費地に支店や営業など何も置かなくてもできるため、現在の国際的ルールのもとでは課税されないことになってしまうからです。

こうした企業も含めて富の適切かつ適正な配分を行うべきという観点から、デジタル国際課税という議論が数年前から起こっていて、OECDなどの場で概ね2つの論点を議論しています。1つは、こうした企業を誘致するために法人税を極端に安くするタックスヘブンについて、法人税の見直しを行ってミニマムタックス(国際的な法人税課税最低水準)を定める方法などが議論されています。過度な法人税切り下げ競争を防止するのは極めて有効だと思いますが、どの水準にすべきなのかは難しい問題です。

もう1つは、支店などの恒久施設(PE)を置かないと課税ができない問題について、データ利用量などサービスの利用度合いに応じて課税する方法や、顧客データなどマーケティング無形資産に応じて課税する方法などについて触れています。前者はプラットフォーマを持たない英国などの案で、米中のプラットフォーマを狙い撃ちするようなものです。後者は米国などが提案しているもので、一般企業にも適用されるような一般概念への拡張です。後者の方が理解を得やすいと私は思っています。現在すでにイギリスやフランスで独自のデジタル課税を行っている国もあり、6月のG20で日本は確実に取り纏めを行うべき役割を担っています。

いずれにせよ、日本でも競争政策や個人情報保護の観点で議論が加速しているプラットフォーマーの問題について、一番重要なのは、これらの企業が確実に人々に豊かさを提供しているということであって、それを損なわずに、如何に公平な環境をつくるか、がポイントになります。(これを書いている本日、自民党の会議で、政府に対する一次提言を取りまとめたところです)。

イギリスはどこに向かうのか

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」−ゴーギャン

この長い名前が付いた絵画をつい思い出してしまうくらい、イギリスのブレクジット(Brexit: British Exitの混成語で英国のEUからの離脱の意)が大騒ぎになっています。2016年に国民投票によって離脱が決まりましたが、現在、どういうプロセスで離脱するのかで揉めに揉めています。無理やり全ての関係を断つような合意なき離脱、と、合理的な話し合いを伴って離れる合意ある離脱、と、離脱慎重派、の3つ巴。合意無き離脱であれば、世界の秩序を揺るがす問題であるとともに、世界経済の混乱を招く原因となりかねません。特に英国とEUにダメージがでるはずです。合意ある離脱であれば、短期的には極端に大きなインパクトはでないはずです。今回はそのことに触れたいと思います。

◆何でEUから離脱する騒ぎになったのか(離脱宣言に至った社会背景)

背景としては国際社会全体が大きな挑戦を受けていることによるものです。1つは主に安全保障上の挑戦です。2つ目は経済的な挑戦です。これらは密接に関係しています。有名なエレファントカーブでしめされているように、経済のグローバル化によって世界は富める者とそうでない者に2分化しています。発展途上国の下位所得層でも所得は伸びていて生活改善の実感は伴っているものの、先進国の低位所得層は所得が何年も全く伸びず生活改善の実感がない。つまり大雑把に言えば不満は先進国の低位所得層にのみ蓄積している。アメリカのトランプ大統領によるアメリカファーストや、フランスの黄色いベスト運動、イタリアの五つ星運動など、欧米で自国主義やナショナリズムの傾向が強くなっているのはそのためです。

イギリスでは、特に高齢者や農村部では、なぜ高い税金を払って東欧やギリシャを支援しなければならないのか、というEU拠出金の不満、なぜワシらの職が移民にとられなければならないのか、という人の移動の自由に対する不満、そしてなぜワシらはEUの司法裁判所に服さなければいけないのか、という国の在り方に対する不満、などが出ていました。

また、そもそもイギリス人は欧州人という意識が低い。ドイツやフランスも一部にそういった不満がでているのも事実ですが、欧州人としての意識がイギリスよりは高い上、EU加盟国としてのメリットをイギリスよりは享受できているので、状況は違う。歴史を振り返れば、イギリスは欧州大陸とは常に異なる動きをしてきたのは事実です。栄光ある孤立と言われたのは19世紀末の振る舞いのことですが、紆余曲折在りながら、時にはバランサーであり、時には敵対し、時には失敗し、20世紀を走り抜け、EUに加盟する際も、他の諸国とは異なる立場で加盟していました。

◆そもそもなんで国民投票なんかしたの?(離脱までの政治の動き)

消費税は反対ですか賛成ですか、という国民投票をしたら、おそらく反対になるはずです。英国は離脱を選択した時点で短期的には経済的損失は目に見えています。ではなぜ国民投票なんかしたのか。英国のEU離脱に関する国民投票を決定したのは保守党のキャメロン政権です。キャメロンは残留派でしたが、当時、党内には強硬離脱意見が多かった。そこに、強硬離脱派の野党が急伸してきて党内強硬派の圧力が高まった。つまり、キャメロンは、国民と野党からの風当たりに加え、党内の風当たりの、3つの風に対処する必要がでた。

普通ならば、党内をまとめる懐柔策にでるところですが、キャメロンは恐らく選挙になれば、自分の保守党は過半数を取らないと踏んだ。そうだとしたら離脱慎重派の自由民主党と連合を組む体制に変わりはないはず。であれば、選挙の公約に国民投票を差し込んでおいても、自由民主党との関係で公約の国民投票を実施することにはならないはずだと踏んだ。ところが選挙の蓋を開けてみたら、勝って過半数をとってしまった。あっ、やばい、勝っちゃった、と思ったに違いない。その結果、2016年の国民投票に至ったというのがどうやら背景らしい。

政治の世界では2つ以上の方向から強い風を受けることは珍しくありませんが、個人的な感想を言えば、そこは踏みとどまるべきであったはずです。

◆今は何で揉めてるの?(合意なき離脱と合意ある離脱)

2016年に離脱が決まって以降、英国政府はEU側と離脱の交渉を続けていました。政府としては途方もない混乱が生じる可能性のある合意なき離脱は避けたい。だから、離脱に関してEU側と、主に拠出金関係、市民の権利関係、アイルランド国境関係、そして離脱プロセスの4つについてのみ話し合いをし、合意案をまとめた。イギリス政府の筋書きとしては、この案で英国議会が可決してくれたら、離脱発効させ、2020年末まで移行期間を設けて具体的な関税などの将来関係に関する協議を行って離脱するというもの。EU執行部側はそれは現在飲んでいるということになります。

ところがこんな合意案ではダメだと反対する議員が少なからずいた。議会が合意案を批准しないのだったら普通は政府はEUと再交渉ということになるのですが、EU側としては出ていこうとしている者に甘い態度をとると離脱国が増えるので、交渉には応じないと宣言した。そうした経緯で合意ないまま離脱するのかという問題がでてきた。なぜならば、離脱を国民投票で決めた後に法的に離脱期限を今年の3月29日としたからです。

合意なき離脱は、移行期間もへったくれもなくなりますから関税などの将来関係の政治議論が不透明になり、結果的にイギリスがしばらくは丸裸になるも同然。関税は跳ね上がり、物品サービスのサプライチェーンは分断され、ポンドは下落、物価は上昇し、外国からの投資も大きな影響を受ける。北アイルランドとアイルランドの国境管理はどうするのか、飛行機は普通に飛ぶのか、介護人材はちゃんとイギリスに入ってくるのか、など、短期的には、それはそれは壮大な、というか、むちゃくちゃなことになるのは目に見えてます。GDPが8%低下するという意見を出す公的機関もある(もちろん中長期的にはイギリス国益中心のEUとは異なる国際化路線を歩むことになるので成長する可能性もある)。

ただし、合意案で完全にまるく収まるかと言えば、そうでもない。最も大きな論争となっているのは、前述のアイルランドとの国境問題。政府は、来年末までには国境管理の具体的解決策を決めるので、それまでは関税同盟に残る、という安全策(バックストップ)を提示しています。これによりアイルランドとイギリス北アイルランドの国境はなくなり、来年末までは凌げるという寸法です。が、離脱強硬派はこの安全策の変更を主張しています。なぜならば関税同盟に残るというのは現状のEU加盟国としての状態と関税的にはほとんど変わらないし、国境管理の具体策を出すと言っても難しいので纏まらなければ永遠と関税同盟に残ることになり、実質的にみなし残留となってしまうことを懸念したものです。

つまり、冒頭書きましたように、合意なき離脱派と合意ある離脱派と残留派のそれぞれが、まぁまぁの勢力をもっていて、議会で何を諮ろうが、全く決まらないという状態が続いているということです。

◆決まらないって実際政治は何してたの?(国民投票後の政治の動き)

2016年に国民投票結果が示され、キャメロンが辞任したのちに就任したメイ首相は、離脱という方向を明確に宣言しました。ただ、離脱を宣言したら党内がまとまるかというと、前述のとおり、すでにその時点で何も決まらない政治になっていた。国論を二分する課題だからしょうがない。そこでまず、メイ首相は、まだ党首として国民の信任が得られていなかったことから、政治基盤を固めることから始めた。つまり2017年の春、解散に打って出た(イギリスの解散は議会の承認がいる)。その結果、保守党(与党)は得票率こそ増やしたものの議席を少し減らして過半数割れとなった(ハング・パーラメント)。なったのですが、民主統一党(DUP)と連立を組むことで過半数を得て、離脱方針のメイ首相は国民の信任を得たことにはなりました。

さらにその後、2018年末には党内の支持が弱くなってきたことをきっかけに、メイ首相は不信任投票にかけられましたが、これは信任された。ただ、そうだからと言って挙党体制が築けたのかというとそうではない。

そしていよいよ今年に入ってメイ首相は、議会に対してEUとの離脱合意案を提示し議会採決を求めました。1月のことですが、結果は与党からも大勢の造反がでて全体で230票の差で否決。当初の法的離脱期限は3月29日でしたから、メイ首相としては何としてでも合意案を議会に通さなければ、合意なき離脱になってイギリスは数年間、地獄を見ることになる。そこでメイ首相は議会に対して更に政治的な勝負をかけていくことになる。

3月12日から14日の3日間、集中的に離脱審議がありました。12日は再度の離脱合意案の採決。結果は149票差で否決。内容があまり変わっていないのだから当然と言えば当然ですが、230票に比べると賛成に回った議員が40人程度いたことになります。しかし否決は否決です。13日は、合意無き離脱回避動議の可否。結果は43票差で可決。法的拘束力はないものの、少なくとも英国議会は合意なき離脱はしないという選択したということになります。最後の14日は、20日に合意案が可決されることを前提にEUに対して6月末まで離脱期限延長を申請することの可否。これも211票の大差で可決。延長の意思は示した。メイ首相は、20日に合意案を可決してくれたら必ず6月までに離脱するけど、合意してくれなかったら長期の延長になるぞ、と半ば脅したことになる。長期延長は殆どみなし残留を意味するので強硬離脱派を牽制することには成功したという結果になりました。

ところが3回目の合意案採決をする予定だった3月20日の前日の19日、バーコウ下院議長が、大幅修正なき合意案の採決は不可能だとする声明を出しました。同じ案を再度採決するような議会にはできない、とのことなのでしょう。

この時点で離脱の法的期限である3月末までの議会承認は不可能と思われたため、もはや大幅延長を申請するしかないと思われていました。しかし実際は、メイ首相はEUに対して6月末までの離脱延長の申請をしました。まだまだメイ首相は諦めていなかったということです。そして申請を受理したEU首脳会議は、イギリスに改めて今月中の合意案の議会批准を求め、否決された場合は2週間期限を延ばして4月12日とし、その時点で新しい計画が出てこない場合は、合意なき離脱、もし議会批准が行われれば期限を5月22日とするということになった。英国議会は再度、合意なき離脱か否かを突き付けられたことになります。

因みになぜ5月22日かというと、7月にはEU議会が始まるので5月にはその議員選挙がある。ということは、離脱の結論が出ずにずるずるとこの時期に入れば、イギリスはEU加盟国資格を失わないままということになるので、法律上、議員を送り込まないといけなくなる。離脱を宣言した国が、改めてEUに議員を送り込むという不思議なことが起きる。イギリスにとってもEUにとっても困難な状況が生まれるということになる。いずれにせよ4月12日までにはEUに議員を出すのか出さないのか決めないといけない、と言うことになった。

メイ首相は最後の挑戦に出る。議会に対して合意案を承認してくれたら辞任するとまで啖呵を切った。迫真に迫る勢いですが、議会側は、メイ首相の強硬な議論の進めかたを疑問視し、法的拘束力はないものの数種の示唆的投票と呼ばれる議員意思確認の採決をした。結果次第では法的拘束力をもった法案化を行ってメイ首相を従わせようとした行動だと言われていますが、結果は示唆に富むものではありましたが、影響を与えるものではなかった。すべて否決。合意なき離脱は160vs400。EU単一市場・関税同盟残留188vs283。EU単一市場残留65vs377。関税同盟残留264vs272。野党労働党案273vs307。離脱撤回184vs293。国民投票再実施268vs295。英EU-FTA139vs422。

そしていよいよメイ首相提案の議会採決が3月29日に行われた。先のバーコウ議長の再裁決不可の判断が一度あるにもかかわらず、なぜ再採決が可能だったのかと言うと、政権は、国境管理に関するEUとの合意について法的拘束力を持たせたことが先の採決とは違うとして議会再採決を願ったということらしい。しかしこの議会採決の結果は、敢え無く否決となった。

もう何やっても否決の議会です。4月12日までに新提案をするか再採決して可決されなければ、いよいよ合意なき離脱となった。メイ首相は、4月に入って後も、議会側と協議を重ねたようですが、結局折り合うこともなく、再度EU側に6月末までの延長を申請したところ、最終的にはEU側からは10月末までの延期することで合意ということになった。4月11日時点の話です。

結局、EU側は、3月から4月11日時点までの英国内の目まぐるしい政治的駆け引きと動きを見て、英国は短期で何らかの結論を出すことはできないと踏んだのでしょう。延期すれば英国に生ぬるい対応と見られるけれども延期しなければ合意なき離脱による混乱で自らも火の粉を被ることになる。思えば3月に決まった4月12日という期限は、EU側にしてみれば、期限を短くして、このままだと合意なき離脱になるぞ、と英国を揺さぶってみた、ということなのでしょうが、何ら結論はでなかった。ならば今度は10月だ、とメイ首相の提案以上の期限を切って、このままだとみなし残留になるぞ、と揺さぶっているように見えます。

◆これからイギリスはどうするの?(今後の政治の動き)

いずれにせよ、少なくとも3月末までの離脱期限が10月末までに延期されたことは確かなことです。3月中の採決がもはや困難であることが明らかになるにつれて、直前の期限であった4月12日には合意なき離脱になる公算が高いと見られていただけに、ひとまずの混乱は避けられたことになりますが、なんら決まっていないことには変わりがない。

再度国民投票できないのかという意見もときどき聞きますし、そう主張する英国議会議員も一定程度います。どういう内容の投票にするのか、するとしてもその結果に満足しない勢力が再再度の投票を求めたら無視できなくなるため、当初は実現可能性は乏しいと思われていました。また、解散という話も聞こえてきます。これで解決することにはまったくなりませんので、これも当初は実現可能性は乏しいと思われていました。しかし、期限が10月となったため、期限という意味で多少の余裕がでてきたため、可能性はなくもない。

メイ首相は自らの離脱案を修正することはまずないと思います。一方、3月までの議会の投票行動を見てみると、メイ首相案に賛成とは言えないけれど大きな政治判断として賛成に転じる議員が増えてきたことは事実。であれば、第一義的にはメイ首相は議会に理解を得る活動を続けるのだと思います。ただ、強硬な姿勢を崩さない議員もいるため、結果がまったく分からないとしても、解散するとか国民投票するとかの奇策をうって事態を打開するということも十分可能性はでてきたのだと思います。これはまるで、調子が悪くなった機械を、軽くトントンと叩いてみたくなるのと同じです。それで解決されるということではないものの、何かが変わるかもしれないということと、実際に何かが変わって調子よくなることもあるという経験則に基づくものです。

合意ある離脱になった場合、離脱から2020年末まで移行期間が設けられます(延長されるかもしれませんが)。この間は英国はEU加盟国並みの扱いになり、表面的には混乱はそれほど多くないと思います。英国としては、その間に、将来関係の具体的外交協議に入ります。英国にとって主要な交渉国は当然EU。しかし、その他の国との外交交渉もこの間に済ませるのが望ましいはず。日本で言えば最低3本の協定を交渉することになる。この間、英国外務省は恐らくバケツの水をひっくり返したような忙しさになるはずです。

将来関係の議論の結果は、ヒトの移動や司法管轄権、拠出金や意思決定への参画などについては制限されることになると思いますが、その他は現在のEU関係と同程度になるものと予想しています。もちろん、EU側が立場的には圧倒的に有利であることは間違いないので英国は細部で譲歩を迫られることになるのかもしれません。

仮に合意なき離脱になった場合、おおよそ7000程度の外交的協定を再交渉する必要がでてくると言われています(未確認)。日EUの経済協力協定EPAがこの2月に発効しましたが、この交渉でも相当の時間がかかっています。こちらのほうが、途方もない労力がいるはず。

いずれにせよ、イギリスのEU離脱は国際秩序の形成にとっても経済的にも短期的にはネガティブインパクトとなる話ですので、合意なき離脱だけは避けてほしいと願うしかありません。ただ、仮に合意なき離脱となったとしても、中長期的にはイギリスが独自の手法で国際秩序形成に大いに貢献することになる可能性は大いにあります。世界にとって、短期的に大きな痛みを伴っても、中長期的にメリットを享受できる可能性はある。しかしそれは現時点でエビデンスに基づく確度の高い将来予想からくるものでは決してないことは、我々は肝に銘じないといけません。

◆日本にはどんな影響がでるの?

先行きが見通せないために、メーカー企業が英国から撤退を計画したり、在庫を積み増したりしているようですが、それ以外に、ポンドの下落、EUと英国両方の需要縮減と経済成長低下、物価上昇、関税手続き煩雑化、旅券制限、犯罪者情報相互共有、携帯電話、運転免許、など、様々な意見がでています。実際にはどうなのか。

合意ある離脱の場合は、マクロでみれば直接大きなインパクトとなる可能性は低いはずですが、問題は合意なき離脱の場合です。実際に前述したような影響は大いに出る。まず貿易ですが、イギリスが諸外国と経済協定を全部結びなおすには少なくとも3~5年。全部できて10年くらいはかかると見ています。一方、典型的に影響を受けるのは日本の自動車メーカです。イギリスを拠点にEUに出荷しているケースが多い。従って在英支店の収支は劇的に悪化するはずなので、この間に生産戦略を再考しなければならなくなる筈です。5年とか10年というスパンで先が見通せない事態になるということは、イギリスから生産拠点は撤退しなければならなくなると見るのが一般的だと思います。

一方、その他の商品のイギリス向け貿易の絶対額は意外かもしれませんが限定的です。しかし、関税手続きが暫くは煩雑になったりと、困難は続くものと思います。

私が最も気になるのが、イギリスが金融立国であること。先にも書きましたが、合意なき離脱となった場合、短期的には生産・消費・労働力のアラユル面で低迷が続き、為替下落と物価上昇の圧力が加わります。金融立国は世界全体のマーケットに多大な影響を与えるのはよく知られていることで、必ず世界経済に影響がでます。日本政府も日銀も、ブレクジットの影響を見越して経済財政金融政策を運営する必要がでてきます。

◆日英の関係は?

日本とイギリスの関係は、過去最高と呼べるレベルにあります。今年1月、安倍総理は4度目の訪英で日英共同声明を出し、最も親密な友人でありパートナーとして、同関係が次のステージに引き上げられたことが確認されました。次のステージとは、安保、経済、イノベーションです。特に連接性と安保協力で言えば、例えば昨年から今年にかけて4隻ものフリゲート艦(「サザーランド」「アーガイル」「モントローズ」)や揚陸艦(「アルビオン」)が日本を訪れ、日本と協力して東シナ海を含む日本周辺海域の警戒監視活動を行っています。これには、北朝鮮に向けた違法活動(瀬取り)の監視も含まれます。また、昨年10月には英陸軍と陸上自衛隊が初の共同訓練を行っています。また、今春は外務・防衛両大臣による「2+2」と呼ばれる安保会議が開催される予定になっていました(離脱問題で延期となりましたが)。メイ首相は、昨年初頭、日本が誇る護衛艦「いずも」を訪問し、この時は小野寺防衛大臣が同行しています(私は待機要員で防衛省にいました)。またそれに先立つ一昨年末、小野寺防衛大臣も訪英の際にイギリス海軍が誇る最新鋭空母「クイーンエリザベス」を訪問しています。

既存のリベラル秩序を維持発展させるため、それを支える世界の自由貿易体制を支えるため、また自由で開かれたインド太平洋を実現させるため、日英協力は極めて重要なパートナーシップであることは間違いありません。英国が如何なる困難に突き当たったとしても、この関係は維持すべきです。

◆EUとはそもそもどんな結束?(参考)

EU(英国含む)を一括りにすると、人口は中国に次いで5億人の2位、名目GDPは米国に次いで17兆ドルで2位の28か国からなる地域で、4つの自由、つまり、ヒト、モノ、カネ、サービスが結束の中心軸になっていて、その上で加盟国はEU法に縛られ、EUに拠出金を払い、一方で意思決定に参画できることになっています。

EUの予算は15.7兆円。拠出金は、独3.4兆円(21.9%)、仏2.5兆円(15.8%)、伊1.9兆円(11.9%)、英1.7兆円(10.6%)、スペイン1.3兆円(8.4%)など。一方で、EU議会議員はほぼ人口割りで、議席数は750。独96、仏74、伊73、英73、スペイン54などです。

貿易で言えば、EU→米47.5兆円、米→EU32.5兆円、EU→中国25兆円、中国→EU47.4兆円、EU→日本7.7兆円、日本→EU8.7兆円。

因みにイギリスの貿易はEU中心で、輸出は、EU43%、米18%、中国3%、日本2%、輸入は、EU54%、米11%、中国7%、日本2%です。

(状況の進展を受けて適宜加筆訂正しております)

2度目の米朝会談と韓国

2回目となる米朝会談が行われました。事前の調整が不調に終わっていたため、あとは首脳間の話、ということになっていましたが、トランプが非核化を急いではいないと事前に発言したことなどから、ウルトラCでもない限り、合意は困難であろうというのが大方の見方でした。したがって、今回の結果はそれほど大きな驚きではありませんでした。

ただこの常識感がストレートに通用しないのが今のアメリカ。そもそも会談をセットできる段階ではなかったはず。それでもすると言うのは余程国内事情的に成果が欲しいのだと一般的には映ります。今回、妙な驚きがなかったのは、ボルトン補佐官が正しいことを言い続けたからなのであろうと言う見方が多い。とある民主系の方がボルトン氏(伝統的には最も民主から遠い共和の人)を評価していたのが印象的でした。従って、今後も不安定で注意が必要だと言うのが一つのポイントです。

次に以前もこの場で交渉は長期化するはずだと書きましたが、北朝鮮は核兵器等を段階的に放棄することで制裁解除と経済支援を引き出そうとする一方で、国際社会は完全な非核化を求めています。北朝鮮がミサイルや核の実験もしくは拡散につながる移転をしなければ、長期化することで困るのは本質的には北朝鮮です。

問題は北朝鮮が頼っているのが韓国に見えること。先のレーダー照射などの一連の事案の韓国の不自然な動きも、文寅在大統領の発言も、どうも北朝鮮シフトしていて朝鮮半島統一が最大のプライオリティになっているとしか思えません。そう考えると、米朝会談の長期化は、結果的に文寅在大統領にとってメリットに映っているかもしれませんが、韓国にとっては国際社会から孤立化する可能性が高くデメリットなはず。すでに韓国は一部の領域で北朝鮮を支援し始めているとの見方もあり、仮に事実だとすれば、国連決議違反ですし、それ以上に、交渉中の米国にとっては望ましくなく、米朝会談の現実を困難にさせているとも言えます。

こうしたことが背景なのか、米国では、この韓国の動きをけん制するかのような動きが加速しています。
2019.2.14 Washington Post:Congress sends a warning shot to Moon and Trump on North Korea
2019.1.12 産経新聞:米国の微妙な韓国疲れ
2019.2.14 日本経済新聞:米議会、日韓関係の改善促す決議案 超党派議員が提出

日本から見るとここ最近の韓国の外交は極めて遺憾ですがそれ以上に不可解です。少なくとも、非核化が見えるまでは北朝鮮に対する制裁は継続されるべきであるし、国際社会に対してこれまでの路線を変えないように団結を求めねばなりません。これが第二のポイントです。

完全な非核化が可能なのかという議論もあります。日本経済新聞がとても分かりやすいサイトを開設していましたので紹介します。

2019.2.22 日本経済新聞:北朝鮮マップから見る遠い非核化

米朝会談では、北朝鮮から寧辺(ヨンビョン)核施設の廃棄が提案されたとの報があります。内情は全く承知していませんが、では降仙(カンソン)はどうなるのか。運搬手段であるミサイル発射場はどうなるのか。核実験場はどうなるのか。遥かに広大な意識のギャップが国際社会と北朝鮮の間にはあるのが分かります。しかし、急ぐがあまりに過去の繰り返しになっては何もなりませんし、寧ろ北朝鮮がアメリカまで届く核攻撃手段を持ちうる能力を持った今、最後の砦と思って対処しなければならないのだと思います。

歌舞伎と統計

国会での統計問題の議論が昭和感満載なのが残念でなりません。とにかく政治を政局ばかりのものから中身勝負のものに変えていかねばなりません。統計は国家の基本。戦後直後に吉田茂がマッカーサーに「日本の統計は間違いだらけじゃないか」と問われ「日本の統計が正しければ戦争などしていません、間違っていたから負けたのです」と答えたという話は有名ですが、何をするにも、自分の状態が見えていないと、戦略など立てられるはずがありません。だから、今般の統計問題は大問題なのです。ただ、国会の議論の方向が180度違う。何が起きていたのか理解できていないのか、そうじゃなければ歌舞伎を演じているのか、どちらかです。

分かりやすく例えを挙げると、賃金が約1万円の人が100人いて平均を求めるには100人分の賃金を足し合わせて100で割りますよね。平均がぴったり1万円になったとしましょう。一方、100人全員調べるのは大変だから、10人に限定抽出調査にしたとします(※)。10人の賃金を合算したら10万円になった。なので平均は10万円/100で1000円。ではないですよね。これが起こっていた。抽出調査にするなら公式に変更手続きをしないといけなかったのにしなかったという大問題と、100で割っちゃったという技術的問題。(※:統計理論上のよくある操作です。その場合、誤差が±〇%という数値がでてくるはずです。)

で何年もこれが間違って行われていたのだとか。

で、間違ってたので賃金は低くでることにお気づきだと思います。だから、アベノミクスを偽装している、という主張は、理屈に合いません。そうじゃないですよね。給付が正しく行われなかったところが最大の問題なのです。正しい手法で計算しなおしたら、実際の賃金はもっと高かった。高かったから、社会保障給付を追加で給付する必要がでてきて(雇用保険とか)、予算を組んで手当をした。お粗末な話です。受給者にはお詫びの仕様もありません。

上昇率は下がったじゃないか、偽装だ、との歌舞伎主張も見受けますが、数値って毎月変動しますよね。数年前に、野党は年金基金の運用が大赤字だ、と歌舞伎をしてました。株価をチャートを見たことがあれば分かると思いますが、小刻みに上がったり下がったりしながら、大刻みで上がったり下がったりします。過去7年は上昇基調にありますが当然その間の一部を切り出せば下がっているところもあります。その当時、確かアベノミクス大失敗、〇兆円も損しているじゃないか、とのご主張でした。全国民が不安になる。こんなのグラフを見せればいいのではないかと思うのですが、そういう主張をされる方はグラフは見せない。理由は、歌舞伎がしたいから。

余談ですが、そもそも、私、この政治の世界に入ってきて大変驚いたのが、みんな4%とか23億円とかのスタティックな数値を見て議論するのです。理系はほとんどそんなことしません。グラフを書かいてトレンドを見ないと意味がないと思う。私も残念ながら慣れてきてしまいましたが。

いずれにせよ、こうした問題を議論するのに、森友加計と同様に再び忖度に結び付ける論、つまり経済政策を打ち出す安倍総理に忖度して役所が勝手に変えたのだ、恐ろしい政権だ、という主張では本質に迫れません。先にも書いたように、長年間違ってきたわけですから、自民が野党であったときの政権も忖度されていたことになります。なぞですね、政治というのは。

もう一度書きますが、統計は国家そのものです。だから、この言語道断の問題は解消しなければなりませんし、二度と起きてはなりません。そのために、チェック機能をどうするのか、複数の代替統計もとるべきではないか、どの程度の予算と人員を確保すべきなのか、など、そういう議論の方向にしていかなければなりません。政局歌舞伎をする方には無理だと思いますが。

改めて国際秩序について

今日、中長期的視点に立った外交勉強会があったこともあり、改めて国際秩序について記しておきたいとおもいます。再掲部分が大半ですがお許しください。

中国は、小平(ドン・シャオピン)以来の改革開放によって独自の発展モデルを作り上げ、目覚ましい経済発展を遂げていますが、独自の安保システム構築をも模索しており、軍事費増大や急進的海外戦略(例えば南シナ海)によって諸外国との軋轢を生んでいます。

その一方で、先進国ではグローバル化等によって低所得者層の所得は伸びなやみ、格差が拡大、既存の民主主義では内政の安定化ができないほどに不安定化し(選挙)、排他的自国優先主義の跋扈によって国際政治が不安定化するというプロセスをたどっています。

エレファントカーブ(像の鼻)という有名なグラフがあります。全世界の所得階層毎の過去30年の所得の伸びを示している図で、横軸に所得階層(左が貧しく右は金持ち)、縦軸は30年間の所得の伸びになります。すると、まるで象の鼻のようなグラフができあがり、名前の由来になっています。

左から新興国低所得層は20%程度(象の尻)、新興国中間層は80%程度(象の背中)となり、先進国内の中間層は0%程度(象の鼻の付け根)、先進国高所得者は60%(像の鼻の先)となります。

つまり、新興国の低所得者層に位置する人たちも、確実に賃金は上がっているのに、先進国の中間層のみが賃金が上がらず、世界の中で唯一割を食った結果となっていて、その結果、民主主義国家は政治が不安定化するということになります。

中国でも近年の急速な経済発展によって格差問題が顕在化していますが、その低所得者層でも、賃金は伸びていて、確実に生活レベルの改善が実感できている、ということになるのだと思います。

もちろん中国共産党も、恐れていることは格差による政治の不安定化なのだと思います。民主化されていないので、選挙が無い分、不安定化リスクは民主主義陣営ほど顕著ではありませんが、確実にその可能性はある。そして著しい成長を遂げたと言っても、格差が存在するのは事実で、内陸部や中西部は未だに豊かではない。だからこそ、仕事を作り、社会保障制度を作り、発展モデル都市を作り、ということを中国政府は懸命にやっていて格差是正に努めている。その結果として、ひずみが海外戦略に表れていて、諸外国からの批判に繋がっている、と言えます。(このあたりの件は、丁度2年前くらいに記事にしているので、ご興味があればご高覧ください。  https://keitaro-ohno.com/3405 )

一方、民主主義陣営の最近の傾向は米英で特に顕著で、ブレクジットは合理的に考えれば圧倒的不利益を被ることが分かっていても国民は新しい革新を求めて離脱を選択した。アメリカもアメリカファーストの旗印の下、長期的に利点の多い国際政治の安定化より短期的な自国の利益を優先する傾向にあります。トランプ大統領だから、とうよりも、前述のように構造的にそうなる可能性を秘めています(もちろん反動で元に戻る可能性もありますが)。こうした国際社会の動きは、20世紀初頭の世界のパワーコンフリクトを彷彿とさせるものがあります(地政学の復活)。

もちろん戦前とは要因やタイミングや規模が全く違いますが、いずれにせよ、こうした異なる発展モデル同志の争いが顕著になるのであれば、今後はグローバル化が見直され、国家若しくは経済ブロックの役割が高まり、サプライチェーンは再調整される可能性があります。戦前の失敗を繰り返さないためには、WTOや国連など、既存秩序の維持に貢献してきた国際システムを改善し、政治対立や経済対立を緩和させなければなりません。さもなくば、明らかに対立が構造化してしまいます。そうなると世界が軍事拡大路線を歩まざるを得ず(既にその傾向がある)、歴史が繰り返されることになる。

更に言えば、構造化するだけならまだしも、その後に国際秩序が180度変わることもある筈です。もし国際秩序が中国を中心としたものになり、戦後に米英が中心となって構築してきた既存のリベラル秩序の延長線上にないものだとしたら、政治のみならず経済や文化も含めて、ゲームのルールが変わり、日本をアップデートどころかリセットする必要がでてきてしまいます。

ここまで読んで頂いて、そんなことはあるものか、と思われる方もいらっしゃると思いますが、民主主義がポピュリズムにドライブされる可能性のある政体である以上、既存秩序は不安定モードになる可能性を秘めたものだと理解しなければなりませんし、そうしたポピュリズムとは無縁の発展モデルは、善政が可能ならばという条件付きながら、覇権を握る可能性を秘めているのも事実です。

特に、プラットフォームビジネスに代表されるように、今後の経済覇権は人工知能やビッグデータが中心的役割を担うはずで、こうしたデータ駆動経済は一党支配体制との相性が極めて高い。新しいことを矢継ぎ早にできる。米国がファーウェイにびっくりするくらいの危機感をもっているのは、単にサイバーセキュリティの問題では全くないからだ、と理解すべきだと思います。

米中貿易戦争の行方が注目されます。これは国際秩序不安定化の端緒なのか、覇権争いの端緒なのか、対立構造化の端緒なのか。ビジネスのサプライチェーンが複雑に絡み合っている現代において、関税を引き上げたり引き下げたりすることによって、自国が有利になるかどうかは、短期的な意味においても単純には分からないはず。分かっていることは、間違いなく世界経済に負の影響を及ぼすということです。

欧米の混乱のなかで、既存のリベラル秩序を維持していく旗手は誰なのかと言えば、日本がしゃしゃりでていかなくても必然的に日本が期待されることになります。ここしか残っていない。日本が世界の秩序をマネージしたことは有史以来一度もありません。前人未到の難行を成し遂げるという覚悟を我々は持たなければならないのかもしれません。

いよいよJPXとTOCOM統合か

東京証券取引所と大阪取引所を傘下に持つ主に現物を扱う日本取引所グループ(JPX)と、主にデリバティブを扱う東京商品取引所(TOCOM)の統合の話が昨年末あたりから再び持ち上がっています。再び、と書いたのは、この統合の話は私が議員になる前から議論されていたことで、俯瞰的に見れば日本の取引所の国際的影響力の強化に資するものであるので、是非とも成し遂げたいものでありますが、政府があれこれ指示を出す立場のものでもないので、それぞれの思惑が一致せず、実現しなかったということだと思います。

昨年末、JPXとTOCOMが統合の検討に入るために秘密保持契約を結んだとの報道がありましたが、今日、改めて自民党の金融調査会で議論しました。平たく言えば、与野党ともに政治で反対する人はさしているような気がしませんし、市場参加者側は、監督官庁の一元化など手続きが簡素化されるはずですし、システム統合も進めば、手数料も安くなる可能性もあります。本日の調査会でも、金融庁から、昔と雰囲気が随分変わってきたので、改めて統合に向けた動きがでてきたのではないか、との解説がありました。実際、日経が報じたところによると、業界の8割以上が賛成しているとのことです。

日本では、商品先物取引と言えば、どうも怪しいイメージが付きまとうのですが、それは昔の話。実際に苦情件数もこの10年で10分の1以下になっています(後述の取引量減少の影響もあると思いますが)。本来の商品先物取引の意義は、公正で透明な価格形成とリスクヘンジの機能です(それを支えているのが資金運用機能)。農産品や貴金属などが代表的な例で、先の物の価値を市場化することで実現するものであって、極めて重要な金融インフラの役割を担っているものですが、最近では日本では取引量が少ない。過去15年で世界の取引量が8倍になっている一方で日本のそれは5分の1に落ち込んでいます。これは10年以上前から累次に亘って、投資勧誘規制等を導入したからで、当時の国内環境からすれば致し方ない部分もありますが、本来は国際的な価格形成力向上もセットで行っておくべきものでした。

問題は、統合により取引量が増えるのか(確実に増えるとの専門家の試算はありますが根拠が定かでない)、国際社会へのインパクトがどのようなものになるのかという視点の下、形式的にどのような統合を目指すのか、国際社会の中でグルーピング化が進んでいるのでどのような国際連携戦略を描くのか、ボラティリティを高めないのか、規制監督をどのように一元化していくのか、取扱商品をどのように拡大していくのか、など、賛成派として注視していきたいと思います。

日本学術会議と安全保障研究

数年前に、防衛装備庁(防衛省・自衛隊の装備品の技術研究開発若しくは調達を行う機関)が防衛技術に資する基礎研究を広く公募する安全保障技術研究推進制度を始めましたが、これについてメディアでは、軍事研究だと批判し、研究者の代表機関である日本学術会議も、この安保技術研究に対して懸念の声明を発出しました。

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-s243.pdf
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/anzenhosyo/anzenhosyo.html

私もかつては研究者の端くれであったのと、最近防衛の仕事に就いていたこともあり、この問題に高い関心をもって現在に至っておりますので、改めて思うことを書き記しておきたいと思います。結論から書きますと、学術会議の議論の方向と結果的に導かれた結論(資金源で判断する方法)に違和感を感じる事、更には事実誤認があること、についてです。

防衛装備品の調達には莫大なコストがかかっています。その内、結構なボリュームを海外調達に頼っています。マーケット規模が小さい自国のみの調達では単価が高くなることに加え、安全保障環境の変化のスピードと技術進歩のスピードが目まぐるしく、自国での研究開発サイクルが間に合っていないこと、などが原因です。つまり海外から買ってきた方が手っ取り早くて安いということになってしまいます。

この構造にメスを入れれば、ずいぶん効果的・効率的な調達が可能になるのではないか。防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度の本質的な目的は、私はそこにあると思っています。(もちろんメスを入れるには研究以外の様々な工夫が必要となります。)

掲題の日本学術会議の声明は、防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度を直接的に禁止する声明とはなってはいません。基本的には懸念を示しているに過ぎません。そして、議事録を見れば明らかですが、日本学術会議は前提として自衛隊を否定するものでもなければそれが保有する装備品を否定するものでもない。しかも、声明は学術会議の中で多くの時間を割いて真摯な議論を積み重ねた結果です。それについては深甚なる敬意を表したいと思います。

しかし、まずもって事実誤認がある。声明の中で研究の公開性や透明性、政府の介入などに関して「問題が多い」と「断定」しているところです。防衛装備庁の責任者からのヒアリングを直接受けているにもかかわらずですので、よほど不信感があったのか、防衛省の説明が悪かったのか、どちらかだと思います。防衛省以外の文科省等の政府公募研究と同じ仕組みですので、声明の指摘は全く当たらない。例えばインターネットの必需品である暗号通信研究は軍事に使われ秘密指定される可能性があると叫ぶのと同じ類のものです。全くのすれちがい。(例えば議事録を読むと、公開性について、制度の説明では”原則”公開とされているのが結構議論されていて、軍事研究なのだから秘密に指定されて非公開となる可能性があるなどの指摘が多く見られます。)

安全保障技術研究と学問が緊張関係にあるのは確かです。しかし声明にあるように、今般の「軍事的安全保障研究・・・が、学問の自由・・・と緊張関係にあること」はありません(学術会議の言う軍事的とは物理的効果を生むものを指す)。しかし、学術界の最高峰である日本学術会議による、このすれちがいによって生じた声明は、多くの大学等研究機関での原則禁止方針に繋がり、大きなネガティブインパクトとなりました。

もちろん戦前の強制国策軍事研究や侵略兵器・大量殺傷兵器研究などはもってのほかで、全面否定したいと思いますが、同制度がこういう研究を為そうとするものでは全然ないことは自明です。日本学術会議の方の懸念は真摯に受け止めるとしても、見る景色を合わせる努力をしなければなりません。

誤解を恐れずに日本学術会議の視点を紹介すると、結果論としてですが、防衛装備庁の公募研究制度に対して何か反応しないといけないけど、論点(※1)が沢山あって全てに学術会議が答えを出せないし出すべきでもないし、一般論での善悪の線引きが非常に難しい(※2)。しかしどこかで線を引かないといけないので、そこで研究の入口で判断することにし、その代表的な資金源に注目し、軍事が目的の防衛装備庁が提供する資金では研究するのは懸念が多い、と結論づけたということだと思います。(膨大な議事録を読んで私が感じたこと)。

(※1:論点と言うのは、例えば研究開発の目的と結果には常に二面性があって、軍事目的で研究開発したものでも民間に使われるようなもの(スピンオフ:例えばGPS)もあれば、民生目的であっても軍事に使われるものもある(スピンオン:例えばパソコン)。これをデュアルユースと言いますが、これにも良いデュアルユースと悪いデュアルユースがあるとすれば、境目は一般論では判断できない。放射線を発見したキュリー夫人を批判する人などどこにもいないはずです。)

(※2:多くの著名な研究者が軍事研究はダメだと独自の声明を出していた中でしたので、必ず何かは発出すべきという論が太宗を占めていたのだと拝察いたします。しかし、戦前のような単純な兵器の公募研究というのは存在せず、前述のデュアルユース性に鑑みると、線引きが難しい。また、防衛用と攻撃用というのも線引きが難しい。)

一般論として資金源で線を引いてしまったということですが、以下、この結論に至る議論の方向性と、この結果自体について、書き記しておきたいと思います。

論点1:では全く同じ研究内容を文科省が募集したらそれでいいのか?

学術会議の議事録を読んでも、防衛装備庁がどんな研究を募集しているか全く議論されておらず現場感覚がないと言わざるを得ません。ちなみに公募内容は以下のようなものです。

http://www.mod.go.jp/atla/funding/kadai.html

元研究者である私が見て、文科省の公募だとしても直ちに問題になりそうなものはありません。もし文科省がよくて防衛省がだめというならば、結果論として導き出されるのは、資金源が防衛省だと応募するのは気が引ける、ということにつきてしまいます。本当にそれでいいのでしょうか。あくまで結果論ですが国民に対して少し不誠実な気がしています。逆に言えば、国から見れば、ほとんどの研究は、わざわざ議論を巻き起こしそうな防衛省公募研究にしなくても他省庁公募研究にしたほうが批判はさけられるはずで、そういう意味では防衛省の方が国民に対して誠実だと思います。

本来、個別の研究テーマをそれぞれの研究者が判断すべき話であって、それぞれの研究者から見て、資金源が防衛省だろうが文科省だろうが環境省だろうが、望ましくない使われ方が為される可能性があると思うなら応募しない、ということであるべきで、それを科学と軍事のガイドラインに書けばいいのではないかと思います。

もしそれでも不足ならば、公募内容を日本学術会議が評価すればいいと思うんです。理由を付して。AとかCとかで。Aなら問題なし、Bなら慎重検討を要す、Cなら応募不適当など。もっともランク付けをするかしないかは別としても、一般論として良いか悪いかの線引きはそもそも難しいのは自明の理であって、そういう議論の方向ではなくて、自由な研究の中で、外から様々な角度で倫理的にチェックする倫理委員会のようなものを作るべきだ、と私は思いますし、実際に学術会議の検討委員からも同種の指摘がなされています。この方が絶対正しい。

論点2:撃たれても絶対死傷しないスーツの研究はどうなの?

良いか悪いかを一般論で線を引くのは難しいと申し上げましたが、それでは具体的な研究内容を想像するとどうなるのでしょうか。敢えて純粋に防衛用途のものを具体的にイメージしながら議論してみます。

平和のために安全保障技術の研究をしたい、という科学者がいたとしましょう。抑止論(ある程度強ければ手を出されないから喧嘩にもならない)と言います。そういう研究者にも、制限を加えるのが正しいのか。実際に、学術会議の検討委員の方からも、また現場の研究者のなかからも、同種の懸念が示されています。「一律禁止は科学者の自主性・自律性を阻害していないのか」「学問の自由を担保するために学問の自由を破壊していないのか」など。

議事録を拝読すると、この観点から、自衛力を認めるのか認めないのかから議論しようという提案が委員からもなされています。しかし驚くことに、この指摘をされた方は、多くの参加者から「論点がぼやける」との理由で、封殺されています。そして確かにぼやけるのは事実だと思います。何故ならば、そもそも一般論としての善悪評価などできないのですから、問題設定が間違っている。一般論や一般原則では解決できないはずです。

また、別の委員から、リサーチが問題なのではなくユースが問題だ、つまり研究すること自体が問題というよりはそれをどう利用するのかという方が問題だ、との発言もなされています。この委員曰く、テロ対処等という具体的に対処する必要がある課題がある中で、昔の国対国の侵略戦争というイメージに拘泥されてていいのか、という趣旨の問題提起であろうかと思います。

私が新入社員のころ地下鉄サリン事件が起きました。化学薬品によるテロです。多くの犠牲者がでました。自衛隊も出動しました。専門用語でCBRN対応と言いますが、研究開発による技術進歩があり、今では当時よりも遥かにアップグレードされた専門の部隊があります。仮に将来、テロが起きたとして技術がないため多大な犠牲がでたとします。自分の持っている研究成果があれば対処できた可能性があるという研究者がいたとして、なんと思うのか。恐らく、我々世代が過去の戦争を見て「あぁ政治が真っ当に機能していない」と忸怩たる思いがするのと同じ感覚を持つのだと思います。「あぁ科学が真っ当に機能していない」と。

化学薬品テロ対処技術研究の公募がでたとして、これを是とするのか、非とするのか。これは明らかにミサイルの研究とは研究倫理という意味で違うものなはずです。ですから、個別に判断していかざるを得ない。議論すべき方向はこの方向であって、組織としての個別判断と、研究者個人の個別判断があるべき方向なはずです。

その上で敢えて申し上げれば、全ての国家機能はシビリアンコントロールの下で、国民によって選挙を通じてコントロールされている。民主主義です。そしてそれを支えるのが自由であって、自由の支えがない国家は脆弱です。そして自由が制限されるのはあくまで公共の福祉です。そして公共の福祉という観点で、プラスにもマイナスにもなりうるものを、すべて忌避するのは、自由がないと言わざるを得ません。

論点3:かつてのマンハッタン計画のようなものがあったとしても使われることあるの?

声明にもある通り、同会議は、過去に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」(1950年)、「軍事目的のための科学研究を行わない」(1967年)と、2つの声明を発出してきました。前者はまだ自衛隊も無い時代のもの。それこそ声明発出のきっかけは「戦前の反省」そのものです(※3)。後者は米軍拠出資金による研究が問題となったときのもの。ですので「実際に米軍を通じて戦争に繋がる可能性を含むものに対する懸念」声明であった(※3)。つまりどちらも「憲法の規定を超えるような実際の戦争を目的とした研究」を対象にしていると言える。それらの声明の懸念は誠に健全で大いに賛同するものです。一方で最新の声明は、全ての軍事的安全保障研究を否定しているという意味において、前2者とは路線を異にするものです。逆に言えば自国防衛のための研究も否定する声明になっています。

その上で、第一に、戦前の反省に立つとありますが、その反省とは何かということです。最後に引用しますが、学術界として反省すべきなのは、「軍事研究をしたくない人に強制的にさせてはならない」ことだという指摘がなされています。そして現代において憲法上強制されることはありません。従って、マンハッタン計画のようなものはそもそもあるはずもなく、あったとしても強制されることは全くありません。

第二に、防衛省・自衛隊は自国防衛の為の活動しかし得ないのであって、限定的集団的自衛権の行使が可能になっても全く変わらない。つまり戦争は憲法上あり得ない事態であって、研究者が何をやろうが戦争のために使われることは絶対にないと言えます。また、仮に将来、外国との共同研究開発の話がでたとしても、平和に資さない内容であれば移転三原則に基づいて否定されます。

(※3:前者は「戦争目的」、後者は「戦争目的」と「軍事目的」の両方の言葉を使っています。後者について、会議の資料によると軍事目的と戦争目的をたいして区別はしていません。何故なら米軍用研究は常に実際に戦争に繋がる可能性を秘めていたからです。つまり、どちらも「戦争目的」を主眼に置いたものと言える。「戦争を目的」とする研究は、時代が変わっても誰も賛成する人はいないでしょう。)

論点4:現場の研究者は声明に納得しているのか?

前述したとおり、現場の研究者の方々から声明に対する懸念が示されていますが、これは学術会議も把握されているようだということは、学術会議のWEBサイトを見れば容易に分かります。もし学術会議の総会決議の議決権を持つ研究者の中にこうした人がいれば、この声明が総会で議決されたときに反対したでしょうけど、そうした記録は見つけることはできませんでした。何が起こっているのか。そこで、ここでは少し中身の議論から離れて、学術会議の構成とあるべき姿についてふれて見たいと思います。

まず、とある研究者が、この学術会議の発出した声明をきっかけに、興味深い指摘をしています。曰く、学術会議の発足当時は、会員の選出方法は直接投票であったものが、85年に登録学協会という組織に候補者と推薦人を推薦してもらって会議し会員を決定する方式に変わり、さらに2005年には会員と連携会員が次の会員候補者を推薦する方式に変わったのだとか。つまり、昔に比べて、現場の研究者と日本学術会議の距離がますます遠くなってきた歴史があるのだそうです。そして現場の研究者である「彼らは学術会議を自分たちの代表だと考えていない」と指摘しています。

http://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/22/7/22_7_10/_pdf/-char/ja

日本学術会議の”現場”の雰囲気を私は全く理解していませんが、仮にそうだとするならば、声明の「上からの押し付け」に「学問の自由を守るために学問の自由を破壊する行為だ」と批判的な立場をとる研究者の存在も理解できます。

http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/2019_112_01/112-1_47.pdf

少し長くなりますが引用しますと、この研究者は、「安全保障と科学についての議論は,第2次大戦におけるわが国の状況に対する反省から始まっているわけですが,学術界として何を反省すべきかと言えば,それは「軍事研究をしたくない人に強制的にさせてはならない」ということに尽きるのではないでしょうか.それに対して,「すべての軍事研究を禁止する」という極端な反動が出てしまったことが,今のややこしい状態につながっていると思います.そうではなく,学者のコミュニティとして素直に「学問の自由」を掲げ,研究者の意思に反する研究を強制されることは拒否する,と宣言するほうが普遍的で筋が通っています.そしてそれが最終的に,軍事研究をしたくない人を他からの干渉から守るために,最も確実な道であると考えています.」と結んでいます。

実は声明に批判的なこうした研究者は、全く同じ趣旨ではないにせよ、学術会議の会員にもいらっしゃる。ところが、安全保障と科学という、メディアの批判にさらされる可能性の高い課題に、敢えて声を上げる方は少ないのだと思います。

もし自由な環境にないのだとしたら、非合理を非合理と主張できない雰囲気の中で何となく戦争に突入した大日本帝国を想像してしまいます。これは軍部内でもあったし、政治のなかにもあった。メディアにもあったし国民の中にもあった。非合理でも積極性が重んじられ消極的だと弱腰と糾弾された時代があった一方で、非合理な議論でも戦争に直結すると糾弾される時代がある。我々政治家としてみたときの戦前の反省の最大のものは、こういったところにあります。つまり、司馬遼太郎が指摘している様に思想というものは先鋭化する力を内在しているものであって、合理的判断ができなくなることこそ、忌避すべきなのです。戦争なんてしたい人いませんから。だから自由という足腰がなければ国家は弱くなる。

論点5:それでも防衛省の研究なのだから怪しいのではないか。

公開性・透明性・政府の関与という意味で、声明は正にそういう視点に立っています。そして防衛省は否定しています。あるべき学術会議の議論の方向としては、現場がそういう公開性や透明性、また政府の不当な関与について疑念を持つに至ったら、その通報を受け入れる仕組みを作り、その場で審査し、不当であると判断すれば、その時点で”声明”を出すのが望ましいのではないか。

以上、結論めいたことを書きますと、軍事と科学が緊張関係にあることを前提とすれば、議論の方向としてあるべき姿は、一般論としての善悪判断は困難であることに鑑み、公募制度の是非は個別研究内容に即して判断されるべきもので、それは一義的には応募しようとする研究者によるものであって、その上で外部から学術会議などの組織がチェックする、という方向であるべきだと思います。一方で、政府の関与によって研究の自由がはく奪されることは絶対にありませんし、軍事を理由に公開を制限されることもありませんし、何かを強制されることもない。これについて、もしそうした問題に現場が疑念を持つに至れば、その通報を吸い上げる組織を作り、あるいは通報を義務化し、組織的にチェックする仕組みを作るべきです。また学術会議の会員推薦方法については、敢えてどうするべきかは言いませんが、現場の研究者が日本学術会議を自分らの代表だと思える会議にしていくよう改善されるべきだと思います。

http://www.scj.go.jp/ja/scj/kisoku/01.pdf

念のためですが、日本学術会議は引き続き独立して運営され続けるべきだということは何も変わっておりません。

天皇陛下とテクノロジー

来週から通常国会が始まります。国会は開会式から始まりますが、その際は天皇陛下にご臨席賜ります。そして陛下は退位されることが決まっていますので、平成最後の国会開会式となります。

平成を振り返ると、様々なテクノロジーが出現し、社会に大きな変化がありました。その功罪はよく分析しなければなりませんが、光の部分によって人々の生活様式が変わり利便性が向上し、新しい価値による繁栄がありました。我々は、平成の次の時代を睨んだSociety5.0の実現を目指さなければなりません。

そこで今日は、平成のその次の時代のテクノロジーと社会について改めて考えるためのベースとして、昭和時代に遡り、その時代の天皇とテクノロジーとについて触れたいと思います(テクノロジー=メディアと読み替えて頂いても結構です)。

ところで政治に身を置いていると、ときどき儒家経典などの古典を学ぶ機会に恵まれます。つい先日も1時間以上にわたって有識者に堯舜の原文を解説いただきました。余談ですが、その時代の尭や舜が先に生じた統計問題を見たらなんて思うか、などと思ってしまいます。もちろん、四書五経を読んだからと言って直ちに善政が可能だとは全く思いませんが、それでも多くの気づきを頂きます。

例えば性善説で有名な孟子。江戸時代にはまぁまぁ日本にも普及していたのだと思いますが、孟子の唱えた易姓革命論(王朝は腐敗し徳がなくなると、天によって王朝が変えられる)は全く日本では受け入れられなかった。

なぜならば、皇室は天照大神をルーツにもつ皇統とされていましたから、単純に考えれば、天命が改められたら困るわけで、仮に血統の分断じゃなくて徳の分断だと言われたところで、分断思想は日本では受け入れられなかったのだ、と思います。

ただ、天皇を歴史上の日本人がどのように感じていたのか、というと、いろいろ読み漁りますと、昭和初期の一時期のみが異質なものに見えます(敗戦後はもちろん別として)。明治政府が帝国憲法で、大日本帝国は天皇が統治するとし、また天皇は神聖にして冒すべからず、として神格化することで統治上の安定化を図ったのがその始まりだと思います。ヨーロッパのコンスタンティヌスがキリスト教国教化で安定化を図ったのと非常に対照的です。

明治政府は統治のツールとして天皇の神聖性を利用した。徳川幕府が朱子学を利用したのと対照的です。このことは、おそらく悪意というものではなく、それまでの漠然とした天皇のもつ神聖性というか敬意から考えると自然だったのかもしれません。ただ問題は、昭和の時代に入るとラジオの普及というテクノロジーの進化があった。民衆運動とメディアのうねりが大きな力を持つに至ります。このことは、ヨーロッパで言えばグーテンベルク的要素となったことと対照的です。

本来、明治政府が考えた天皇の神聖性は統治上のものであったはずですが、未熟ながらも議会制の下でテクノロジーと天皇の神聖性が合わさった結果、政府には統治できない程の力になっていきました。つまり、統治側が統治の目的で天皇の神聖性を利用し始めれば、瞬く間に国民の中の天皇の神聖性が高められ、統治側が統治できない程に民衆からの天皇崇拝圧力が加わるというような例です。例えば、統帥権干犯問題や天皇機関説事件などは典型です。日本は強くあってほしいという願望と現実のギャップをそうした歪んだことで埋めていった時代です。そもそも論理的に、統治者の神格化を根拠とする統治の在り方は、民主主義とは馴染まないどころか、齟齬をきたすのは当然です。コンスタンティヌスの試みがルター×グーテンベルクによって粉砕されるのと同じです。

古来からの日本人の天皇観というのは、おそらく極めて漠然とした神聖性であったのだと思います。神聖性というよりは、尊重すべき伝統と言った方がいいのかもしれません。それは、キリストとかモハメッドとかの肉体的現実的物理的可視的概念でなく、八百万神的な抽象的不可視的概念であったはずで、何となく神的に尊重すべき概念であったのが日本古来の天皇陛下像であったのだと思います。古典を紐解くと天皇が極めて世俗的に描かれているものもあります。明治政府が想定した天皇像では決してあり得ないし、それこそその古典は不敬罪になる(例えば源氏物語)。それを神聖なるものと明文化した明治政府は、その破壊力を理解していたとは思えません。ましてや、テクノロジーと民主主義が組み合わさった時の、統治方法を想像しえていたとは思えません。

倫理観・道徳観・宗教観・文化・伝統。そしてテクノロジーの進化。そして社会があって、政治がある。自由・民主主義であるならば、この4つは政治を行う上では常に意識しておかなければならないのだと思います。

なお、余談になりますが、韓国と種々の問題が沸騰しています(朝鮮労働者問題、日章旗問題、火器管制レーダー照射問題など)。党内では、沈静化不可能なレベルにまで達しています。本質的な原因というか淵源は、韓国にとって日本が悪者でないと成り立たないことにあると思います。韓国憲法には建国精神の淵源として有名な3・1独立運動(抗日独立運動)が記載されています。この独立運動によって韓国臨時政府が樹立され、大韓民国はこの精神を受け継いで樹立されたものだ(日本と戦って独立した)ということになっています。そもそもこの臨時政府に正統性はないのでそういうことにはならないのですが、いずれにせよ日韓がこの時代に戦ったことはないわけで、懲役3年以上の刑を受けた者はいなかったとか、石橋湛山は理解を示したとか、朝鮮総督府がこの事件を反省に武力による統治から文化による統治へと手法を緩和し、以降同種の事件はなくなった、とかいう記録もあるので、独立運動は鎮圧されたというのが実態なはずです。つまり現実には、単純に日本が太平洋戦争に負けて朝鮮から出ていったということ。この解釈には広大なギャップがある。

ある種、この建国精神の淵源が神格化していて、現在の韓国政権は、国民×メディアの呪縛から解放されることはないのではないか。これは、戦前の大日本帝国憲法の天皇神聖化と同じ効果をもたらしているのではないか、そう思えてなりません。