北京・深セン訪問。国際秩序、サイバー、倫理観など

(中国共産党対外連絡部宋濤部長)

先々週、中国を訪問しました。その時に思ったことを、徒然なるままに書き残しておきたいと思います。

中国は鄧小平以来の改革開放によって独自の発展モデルを作り上げ、目覚ましい経済発展を遂げていますが、軍事費の増大や急進的な海外戦略によって諸外国との軋轢を生んでいます。一方で、先進国では経済グローバル化の進展とともに低所得者層の所得が伸びなやみ、格差の拡大を通じて排他的ムーブメントが増大し、国際政治の不安定化の原因になっています。こうした異なる発展モデル同士の争いが顕著になるのであれば、今後はグローバル化が見直され、国家若しくは経済ブロックの役割が高まり、サプライチェーンは再調整される可能性があります。この国際社会の動きは、19世紀から20世紀にかけてのパワーコンフリクトを彷彿させるものがあります。もちろん要因やタイミングや規模の面では全く異なりますが、戦前の失敗を繰り返さないために、人類は努力を重ねなければなりません。

エレファント・カーブ(像の鼻)という有名なグラフがあります。所得階層ごとの過去30年の所得の伸びを示している図で、横軸は所得分位(左が貧しく右は金持ち)、縦軸は30年間の所得の伸びになります。そうすると、まるで象の鼻のようなグラフができあがり、名前の由来になっています。左から新興国低所得層は20%程度(象の尻)、新興国中間層は80%程度(象の背中)となり、先進国内の中間層は0%程度(象の鼻の付け根)、先進国高所得者は60%(像の鼻の先)となります。

つまり、新興国の低所得者層に位置する人たちも、確実に賃金は上がっているのに、先進国の中間層のみが賃金が上がらず、世界の中で唯一割を食った結果となっていて、その結果、民主主義国家である先進国で政治が不安定化しているということになります。中国でも近年の急速な経済発展によって格差問題が顕在化していますが、その低所得者層でも、賃金は伸びていて、確実に生活レベルは改善しているということになるのだと思います。

経済が発展し、国が豊かになると、民主化が進む、というのは通説ですが、別の発展モデルを可能にしているのは、ネットテクノロジーなのだと思います。私は現代版グーテンベルグだと思っていまして、後述するように民主化と同規模の社会的変化をもたらしています。さらに言えば、ネットテクノロジーによるイノベーションと中国のような覇権政党制というのは、相性が極めて良いことも指摘されています(例えばシェアリングエコノミーをやろうとすると、日本では分野によっては利害調整という膨大な政治コストがかかりますが、中国では、やろう、の一言で済む)。

もちろん、だからと言って中国型覇権政党制がよいなどということは毛頭ないわけですが、イノベーション力を高めるためにはテクノロジーの社会実装が必ず必要になるわけで、その意味では、日本も政治の決断力もさることながら国民全員の意識変化も必要になるのだと思います。

一方で、恐らく中国共産党の最も恐れていることは、格差による政治の不安定化です。著しい成長を遂げたと言っても、未だに格差が存在するのは事実で、内陸部や中西部は未だに豊かではない。だからこそ、仕事を作り、社会保障制度を作り、発展モデル都市を作り、ということを中国政府は懸命にやっていて格差是正に努めている。結果的にそのひずみが海外戦略に表れていて、諸外国からの批判に繋がっている様に見えます。このあたりの件は、丁度2年前くらいに記事にしているので、ご興味があればご高覧ください。https://keitaro-ohno.com/3405

さて、今回、中国を訪問したのは2年ぶりとなります。中国には、同期の同志と共に毎年訪問する努力をしており、毎回北京に入った後、地方を訪問することにしています。今回は、北京と深セン。訪問を始めた2013年当時は関係が冷え込んでいたので、話が全く噛み合わないことの連続でしたが、今回の訪問は、極一部で安保関係の話になった時以外は、終始柔らかい雰囲気に終始しました。たまたま訪問したのが、前述した鄧小平による改革開放の40周年にあたる12月18日を挟んでのものとなったのも理由の一つなのかもしれません。実は日本が防衛大綱を閣議決定した日でもあり、中国政府は懸念を示していましたが、現地ではその報道よりも改革開放の報道が圧倒的に多かったと思います。いずれによせ、今年の日中関係はかつてないほど好転しています。今年が丁度、日中平和条約締結40周年、日中国交正常化45周年の節目に当たる年だから日中関係が改善したのだ、ということではなく、もちろん周年行事というのは極めて重要ですが、背景には後述する米中貿易戦争などと報道される国際政治が大きく影響しているのだと思います。

訪問の目的は終始一貫しています。中長期的な視点で健全な日中関係を構築すること。日中関係が論じられるとき、中国は政治的にも経済的にも国際社会の中で主要なアクターであって重要な隣国である、とよく説明されますが、それは決して大国になりつつあるし隣国だから仲良くしなければならない、ということではなく、本来は、国際秩序の維持のために日中関係がどのような関係を構築しておくべきなのか、という事が主眼であるべきです。であれば、日本の立場を主張することは重要ですが、言い「たい」ことを言えば良い、のではなく、何をどうするのかを考えた上で、言う「べき」ことを言う事こそが重要なのだと思います。

ファーウェイ問題。訪問中、中国側からファーウェイ問題の話題提供が何回かあり、気にしていることはよくわかりました。事の発端は、米国が中国企業ファーウェイに対して調達上の事実上の排除勧告を出したことで、米側の主張は、同社製品にいわゆるバックドアが埋め込まれており、同製品を通る情報は、中国側に漏洩される可能性があるというもの。随分前から指摘されていた問題です。

課題は2つ。1つめは、事の本質が、米中のサイバーセキュリティ(サイバー攻撃)の概念が全く異なるということ。これも先にご紹介した記事に書いていますが、自国の安全保障上ならいいと考える国と、安全保障のみならず経済産業上のものもやってしまえと考える国との差であると指摘されています。このことについて、国際社会はルールを明確に確立し透明性を確保していかなければならないのだと思います。2つめは、個別的な対処の話。少し専門的な話になりますが、米側が主張するバックドアの証拠は公表されていません。つまり、証拠はない。ハードウェア上設置すると確実な証拠になりますから、あるとすればソフトウェア上の話。であれば、全世界にどれだけ散らばっていたとしてもリモートでも消そうと思えば消せる。また、国家安保上、中国政府が求めればファーウェイ社は情報を提供する義務が課せられている、という外形的な問題も指摘されています。つまり、真実はよく分からない。疑念が生じているのであれば、個別的な問題としてWTOで議論をすべきだと思っています。

訪問直前に、我が日本政府が、政府調達においてサイバーセキュリティ上適切なものしか扱わない、という指針を示しましたが、メディア上では米国のファーウェイ問題と絡めて論じられることが多かったと思います。政府方針は、全く瑕疵のない内容で、不適切な製品は調達しませんよ、というだけの話。しかし、発表の時期が問題を大きくした。なぜわざわざファーウェイ問題が表面化した直後に発表するのか。少しずらしてもよかったのではないかと思っています。

米中貿易戦争。ビジネスのサプライチェーンが複雑に絡み合っている現代において、関税を引き上げたり引き下げたりすることによって、自国が有利になるかどうかは、短期的な意味においても単純には分からないはず。分かっていることは、間違いなく世界経済に負の影響を及ぼすということです。

ただ、冒頭申し上げた通り、そもそも先進国内の格差問題の歪が、こうした恫喝外交に帰着していると考えれば、解決する方針は2つしかなく、1つは先進国内の格差問題を、他国にはまねできないような活躍の場を中間層に提供する形で解消していくこと、もう1つは世界の自由貿易の質を、1国独自主張ということではなく、これもWTOの範囲内で調整していくこと、なのだと思います。私自身は、本来、前者の形で、各国が努力をするべき問題であると考えています。

豊かさと倫理観。昔の報道で、中国の路上でひき逃げされた被害者が、大勢の通行人から無視されていることが非難されている、というのがありましたが、一方で、中国の豊かな地域では、例えば電車に乗ると必ず高齢者や妊婦さんに席を譲るなどの道徳倫理観の高い場面に遭遇します。政治思想にも絡む話ですが、人間というものは、物質的豊かさを手に入れれば、精神的豊かさを求めるようになるのか、考えさせられます。中国でも最近、古典を読むことが流行っていると聞きます。

キャッシュレス。今回の訪問では、北京と深センだけでしたが、どちらもキャッシュレス。現金を持ち歩く人は殆どおらず、店舗では現金お断りのところもあり、ごく最近、中国人民銀行(中央銀行)が、国家の公式決済手段である現金が使えないのはダメだ、と現金お断り禁止令を出したとか。日本では、現金決済が9割と言われていて、政府主導でキャッシュレス誘導をしようとしていますが、本来、民間主導で利便性が高まる決済手段が広まらないところに日本のかかえる問題を感じます。

一方で、中国のキャッシュレスは、個人間の送金手段など幅広い使われ方をしていますが、そのやり取りにおいて個人の信用力がサイバー空間上で格付けされる仕組みになっていて、その信用力によってより良いサービスを享受できるシステムになっているらしく、普段の市民生活でも、善良な市民であることがメリットを享受できる前提になっているとのこと。儒教だ古典だ、道徳だ倫理だ、と言わなくても、善良でなければ生きづらくなっているのであれば、それはそれでとても良い事なのかもしれません。

表面が変わっただけではダメだと思う人もいるかもしれませんが、考えてみれば、日本でも、見られてなければ平気でゴミをポイ捨てするなど、他者という相対的評価を行動基準にしている人がいますが、監視カメラが至るところに設置されて誰もポイ捨てしなくなったとして、いやそれは相対基準だから倫理という絶対基準じゃなければダメだ、と思う人がいてもおかしくはありませんが、ダメなわけではないと思っています。

しかしそれでも中国の内陸部など農村の現状はまだまだ厳しいものなのだと思います。13億人のうち6割以上が農民で、平均所得が1/3程度。農村地域から都市部に出稼ぎに出る人が3億人程度いるとのことですが、それでも必ず都市部でよい稼ぎができるわけではなく失業も多いのだとか。いわゆる農民工問題です。深センのとある方が、移民、と表現していたのがとても印象的でした。さらに、最近、社会保障制度を改善し、公務員だけが対象だったものを国民全員に広げたそうですが、戸籍は簡単に移せないようで、そうした人たちの社会保障サービスは真正住民とくらべると低いとのこと。

いずれにせよ、中国が人口減少を迎えるのは2040年程度。1人っ子政策を廃止したとはいえ、すぐに流れが変わる物でもないと思います。その時までに、農民工や移民の問題が解決されていなかったとしたら、または中間層が生活レベルの改善を実感できないほどある程度豊かになったとしたら、中国の対外活動はどのようなものになるのか、今から考えておく必要があると思っています。

Forum-K懇親会

昨日、Forum-K懇親会にご来場頂きました皆様には、心から感謝申し上げます。ご来賓の先生方には、過分なお言葉を賜り、恐縮至極です。また、ご案内させていただきました皆様には、せっかくお越しいただいたのに、ご挨拶もできず、失礼の段、心からお詫び申し上げます。高校の同級生が駆けつけてくれたことは意外であって、本当にありがたいなと思います(ほとんど話せませんでしたが)。

年末まで残すところわずかとなりました。今年は本当に様々なことがありました。防衛省での出来事、退任して直後の議員立法の作業、社会的事業政策立案作業の再キックオフ、予算や税制の議論。書きつくせない思い出を未来の力に変えて来年も頑張っていきたいと思います。

今後ともご指導ご鞭撻を賜りますよう、なにとぞよろしくお願いします。

大野敬太郎

【善然庵閑話】AIと壁:言葉と政治と宗教と科学技術

久しぶりに善然庵閑話シリーズとして由無し事を書き綴ってみました。お暇な方限定とさせていただきます。

結論から書くと、人類の進化というものは、言葉や政治や宗教やテクノロジーのそれぞれの壁が、それぞれお互いに壊し壊されることによって、少しずつ進んで来たのではないか、ということを漠然と思っています。例えばルターやグーテンベルグは(後に詳述しますが)、自らが為したことが(自分ではどのような社会インパクトをもたらすのかは想像してなかったと思いますが)、結果的に壁を壊していった。例えば人工知能も、どこかの壁を壊していくはず。ただ、壊れたから必ず良くなるのかといえば、分からない。壊れた時に、社会というものが、一体どういう社会になって、あるいはどういう社会を構築すべきなのか、ということを考えておかなければならないのだろうと思っています。

古代ローマ帝国が滅亡の道をたどる過程で、踏ん張った皇帝に3世紀終わり頃のコンスタンティヌス1世がいます。どうやって踏ん張ったのかというと、政治安定化のツールとしてキリスト教を使った。たぶんこの方はそれほど信心深い人ではなかったと見ていますが、前任のディオクレティアヌス皇帝がキリストを迫害したのに対して、ミラノ勅令を発布してキリスト教を国教化した。つまりキリスト教の力を使って自らを神格化し、垂直上昇させ(俺は神だ民よひざま付け的発想)、統治上の箔付けを行うことで、政治を安定化させようとした。

このコンスタンティヌス1世、キリスト教の世界では有名なニケイア公会議(史上初の宗教会議)によって三位一体等を確定し宗教解釈論争に一定の終止符を打った人物としても知られています(キリストは単なる神の子供に過ぎないとするアリウス派と、キリストも父親も神=三位一体とするアタナシウス派の論争など)。こうした課題に積極的に関与したのも、キリスト制度を整備しなければ政治が安定しないと考えたからだと解釈できます。そして、このキリスト教によって神格化された皇帝による統治システムは、恐らくは中世以降のルターの宗教改革まで続くことになり(神聖ローマ帝国)、そこで終焉というか失敗に終わる。現代人的には宗教によって統治しようなんてことは愚の骨頂で、失敗は自明の理でトリビアル。

余談ですが、日本では江戸時代初期にあたります。丁度、陽明学が席巻する前の朱子学の世界。朱子学は結局は徳を積んだ人のみが為政者になるべきだ、という政治の一側面では、神聖ローマ帝国と同様の発想になるわけで、陽明学が入った瞬間というのが、丁度ルターの宗教改革と同じ精神革命を起こすことになるのだと思います。

さて、ルターの宗教改革の原点は、贖宥状を信者に売りさばいて原資を得ていたカトリックへの抗議と反駁(プロテスタント)でしたが、より大きな歴史的意味合いは、それが信者個人の解放に繋がり、神による統治の終わりの始まりとなって、結果的に神格皇帝権力の弱体化と、それらをトリガーとした30年戦争の勃発、そして紛争解決手段としての国際法概念(ウェストファリア条約)の成立に繋がります。

そして、この宗教改革もグーテンベルグの活版印刷技術の存在なくして成立はしていなかったはずなので、そうなると必然的に30年戦争ももっと遅れたし、ウェストファリア概念も遅れ、結局はフランス革命も遅れて国民国家概念(政治の進化)も遅れた。つまり、テクノロジーの進化が宗教の壁を破り、それが共和制の拡散という政治の進化に繋がっていくという歴史の流れがある。そしてまた政治の進化(リーダーシップ)によって、テクノロジーの進化に繋がっていく。

結局、テクノロジーと宗教と政治のリンケージで人類は進化してきたと言え、社会的インパクト(人類の進化)は、テクノロジーや科学技術と、宗教と、政治が、三つ巴の様相で、お互いがお互いの壁を突き破りながら、生み出されたと言えると思います。

言語も壁がある。だから四つ巴。

例えばこのコンスタンティヌス1世を生んだ地はセルビアですが、丁度このセルビアあたりが典型例なのだと思います。セルビアと言えばバルカン半島。近現代史としては紛争の絶えない地域として知られていますが(ヨーロッパの火薬庫)、それは今も昔も同じ。紀元前にこの地域はローマ帝国の支配下に入りますが、以降、オスマン帝国やオーストリア・ハンガリー帝国の支配も受けます。カトリックとギリシャ正教の境目であった時代もあるし、イスラムとキリストの境目にも近い時代があった。そして、スラブ人と非スラブ人の境目でもある。多くの民族が居住していて複雑な地域であったというのは変わりない。つまりゴチャゴチャしている。

比較的最近で言えば、このあたりの地域は無理やり統合されて1つの国になっていた時代があった。セルビアを含む連邦制をとっていたユーゴスラビアです。7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家と表現された国ですが、結局、クロアチア紛争やらボスニア・ヘルツェゴビナ紛争やらコソボ紛争やらでNATOの軍事介入も招いて大騒ぎとなり、最終的にはやっぱりばらばらになりました。今でもコソボは相変わらずセルビアからの独立を果たせずに国連による管理がなされています(UNMIK)。

そもそもなんで統一なんかしようとしたのかと言えば、ルーツにあるのが汎スラブ主義。スラブ民族(スラブ語系を話す民族)の連帯と統一を目指す思想のことで、チェコスロバキア(西スラブ人)もユーゴスラビア(南スラブ人)もこの思想が原点になっていたのだと思います。結局、今のところ失敗しているように見えます。

よくよく考えると、汎スラブ主義と言っても、お互いに言葉が通じないと言われています。汎スラブは古代ルーシ国あたり(現在のウクライナとかベラルーシあたり?)が発祥らしく、今では西スラブ語、東スラブ語、南スラブ語の3パターンに集約できるそうなのですが、同じ東スラブ語系でもウクライナ語・ベラルーシ語・ロシア語・・・、西スラブ語系のチェコ語・スロバキア語・ポーランド語・・・、南スラブ語のボスニア語・セルビア語・クロアチア語・モンテネグロ語・スロベニア語・ブルガリア語・マケドニア語・・・。私が聞いてもさっぱり違いが分かりませんが、それぞれ違うらしい。関西弁と東北弁の違いとは次元の異なる違いだと聞きます。

更に考えてみたら、同じラテン語をルーツにもつフランス語やイタリア語やスペイン語なども確かにお互いに全然違うし、ゲルマン語をルーツに持つ英語とドイツ語も全然違う。中東の世界も、イスラムのスンニ派やシーア派などの宗教概念で捉えがちですが、そもそもアラブ語を話すアラブ人、オスマン帝国をルーツに持つトルコ語を話すトルコ人、ペルシャ帝国をルーツにもつペルシャ語を話すイラン人(ペルシャ人)、クルド語を話すクルド人など、その話す言葉で国際政治を解釈した方が分かりやすい場合もある。

もし言語がこれだけ分かれる前にグーテンベルクが誕生していれば、国際政治の歴史も随分違ったのではないかと思います。あるいは、言語がこれほど分かれる前に汎スラブ主義をもってユーゴスラビア的なものを作れたらうまく行ったのかもしれないとも思います。

先日、人工知能の牽引役である松尾豊先生が何かの対談で、人工知能によって翻訳機を普及させたい、という趣旨のことをおっしゃっていたのですが、最初、?、と思った。えらくシャビーなことをおっしゃるな、と。しかし、すぐになるほどと気づいた。グローバル化によって、ヒト・モノ・カネの流れは随分と自由になったけど、結局人間社会の壁というのは、言語なのだよね、と。

つまり、テクノロジーと宗教と政治だけではなく、言葉というのも人類の進化という意味では、主要な柱の一つであって、まさに四つ巴。それぞれの壁がそれぞれ相乗効果によって一つ一つ壊れていくことで、人類は進化していくのだと思います。

そして人工知能が社会にもたらすインパクトはかなり大きいと想像しておかなければなりません(今のところそうでもないですが)。人工知能というテクノロジーがどこかの壁を低くしたときに、その先に何があるのかということです。そして、逆に言えば、人工知能というツールを得たとき、どういう社会を目指すべきなのか、ということが重要です。

そして、テクノロジーの進化に伴って目指すべき社会との接点で生じる様々な倫理的・法的・社会課題(ELSI; Ethical, Legal and Social Implications)を人類は適切に配慮する、いわば社会とテクノロジーの間の分界面を精緻に設計しなければなりません。それは、当然国内に閉じた分界面であってはならず、世界に通用する分界面にしておくべきです。さらに言えば、その分界面は、世界のESGのための分界面でもある必要があって、自国のESGのための適切な知的財産戦略とビジネスモデルを埋め込んだものでもあるような、価値を生み出す分界面である必要もあります。

とりとめのない、けど重要な気がする、そんな話を長々と書いてしまいました。

今臨時国会からの活動のご報告

今国会より、党本部での活動に重心を移すことになりました。外交安保の分野では、改めて外交部会長代理、国際局次長、安全保障調査会事務局次長を、またイノベーション分野では科学技術イノベーション戦略調査会の事務局次長を拝命し、また地方創生の分野では、引き続き社会的事業や農政分野等に積極的に関与して参りたいと思います(増えるかもしれません)。

イノベーション分野では、直近では臨時国会中での議員立法の成立を目指しています。日本のイノベーション力の低下が大きく懸念されており、そのフラッグシップである大学や国立研究開発法人の研究の種を産業に結び付けていかなければなりません。もちろんこれは産業政策や知的財産戦略とリンクしていかなければなりませんが、まずは種を育てるために大学等の資金運用の柔軟化を図る必要があります。鋭意努力中ですし、与野党一丸となっての成立を目指します。

外交分野では、今後様々な議題が予想されますが、端緒で議論になっているのが、先日、韓国の大法院(最高裁)が、日本企業に対して、戦時中の朝鮮半島出身労働者への損害賠償の支払いを命じた判決についてです。韓国では、例によって人権問題として捉える世論となっているようですが、既に1965年に、全てを解決せんが為に、日本は韓国に対して当時の韓国の国家予算の2倍近い額の有償無償含めた資金の拠出を決めて、「完全かつ最終的に解決」したわけで、爾来、日韓両国政府とも、個人を含めて請求権問題は字義通り解決したとしていました。

両国行政(政府)はその認識に立っていたにもかかわらず、韓国司法が個人請求権を認める判決をだしたことによって、韓国国内で司法と行政が違う認識を示すことになり、今後の文政権の対応を注視する必要がありますが、さらに一番の問題は簡単に国際約束を反故にする判決を出してしまったわけで(明々白々な国際法違反)、我々としては韓国側に対して、その違反を是正する措置を断固として求めるものです。第一に、国内世論に流されて司法が国際的に取り決めた文書を無視して判決を下すのは、法治国家ならぬ情治国家と言わざるを得ず、今後、国際社会は韓国との外交交渉すら安定的に行えないと言わざるを得ません。第二に、不安定な法的基盤では、市場が極めてリスキーだと断じざるを得ません。国際世論に訴えていく必要があります。韓国は日本にとって戦略的に非常に重要なパートナですが、その関係を根底から覆す今般の事案は、今までの種々の両国間問題とは全く異なる次元のステージに入ったと言わざるを得ません。

安保分野では、厳しさを増す国際環境に対応するために、防衛力の質的量的拡充をしていかなければなりませんが、一方で増やした防衛予算の大半が海外に流出し(海外調達)、国内産業が成長しないという問題が提起されています。が、単純に国内調達にシフトできない構造的問題を抱えていることから、抜本的に構造を見直す必要を実感しており、某代議士とともに、まずはその概念設計を行うためのエビデンスの収集から始めようとしています。また一方で、世界のどの国でも安保環境が厳しくなっているとの認識のもと、防衛費を拡充しているところであって、日本も本質的に拡充を質と量の両面で行っていくべきは論を俟ちませんが、その先の世界として、そもそも世界が軍拡路線に歩むのは本来的に望ましい姿ではなく、安定させる外交努力の必要性も実感しています。

地方創生の分野では、実際の目に見える実例作りに力を入れようと思っています。地元の某首長のリーダシップのもと、ローカル人口地方社会の実現に向けて、社会的事業の知見も併せて、地方イノベーション推進事業に取り掛かっています。地方のニーズがある限り、農業・福祉・水産・工業などアリトアラユル分野の地方イノベーション力の底上げが可能になってくると信じています。また、東南海トラフ地震が間違いなく起きるとの認識のもと、防災・減災を効率よく進めていきたいと思っています。更に、人手不足、高齢者支援にも繋がる若者支援などにも積極的に関与しております。

党の組織運動では女性局に関与することにもなりました。

あいかわらず少しウィングを広げ過ぎているかもしれませんが、全て全力で取り組んで参ります。

イージスアショアについて

(写真出典:ロッキードマーチン社)

イージスアショア(日本を狙う弾道ミサイルを迎撃するシステム)について今日は触れて見たいと思います。TBS/JNNの世論調査の結果を見ると、約1年前(29年9月)と最近(30年8月)で、導入に賛成が6割強→3割強、反対が2割強→5割弱、分からないが2割弱→2割という結果になっています。

一方で北朝鮮の動向については、非常に不安を感じるが57%→43%、多少は不安を感じるが33%→43%、両者(非常+多少)を合わせると90%→86%。つまり不安であることは変わらないけど、差し迫った不安は劇的に低下したということだと思います。南北会談で更に顕著になっている可能性もあります。

端的に言えば、まぁ撃ってきそうもなくなりつつあるのに、まだイージスアショアなんて高いもの買うなんて、どうせトランプ大統領を忖度してるんじゃないの、と思う方が増えたのだと思います。実際どうなのか。

イージスアショアは高いのか?

まず費用から始めたいと思います。問題を一旦単純化して北朝鮮は忘れて頂き、どこから何が撃たれても日本を守る装置を導入するのに、一体幾らまで出せるかという問題を考えます。値段は2台で2千6百億円以上という相当高価なものです。

個人で1日に幾ら出すか。1日1000円だったら?高いですよね。1か月で3万ですから携帯より遥かに高い。私なら多分買わない。100円?ん~微妙ですね。でも一年で3万6千円。私なら迷うところです。10円なら?買うと思います。1日1円なら?私なら絶対買う。

イージスアショアは30年くらい運用することが想定されています。だとすれば、ざっくり1年で100億弱。例えは良くないかもしれませんが、農政の鳥獣被害対策や経営安定対策の予算と同額程度です。そして、国民一人当たりの負担は年間100円しません。つまり1日1円もしない。運用整備費はこれに入っていませんが、もし入ったとしても年間負担はどんなに高くても1日1円は絶対にしない。この価格で、日本に落ちてくる物体を払いのける能力を持たない手はありません。

一方で、イージスアショアでなくて今持っているイージス艦で守れるか?守れます。が他の守りができません。当たり前ですがイージス艦は弾道ミサイルのためだけにもっているわけではない。その他の任務ができなくていいなら、そもそもイージス艦など買わなかったはずで、そんなことは全然ない。ですから、イージス艦で対処するならば、別途イージス艦が必要になります。できれば4隻(ローテーション)。1隻2千億として8千億。それに運用費用がかかるとしたら1兆円は大きく超えます(船の運用整備費は一般に地上アセットより高い)。そして実際にはお金だけでなく運用人員の確保は困難でしょう。だから結論としては、選択の余地なしということになる。

また、地上システムでもTHAAD(迎撃ミサイルシステム)ならどうなの、と聞かれたこともありますが、結論としてはTHAADの方がイージスアショアより高い。

イージスアショアの導入をなぜ急ぐのか?

単純に空白期間をなるべくなくしたいからです。配備時期について触れますと、導入を決めて1日で配備できるなら導入計画中断という余地もありますが、決めてから5~6年かかるので、導入するならなるべく早く導入すべきです。そしてイージス艦に運用の自由度を持たせるべきです。もし仮に将来、金正恩が改心して国際社会の声を100%スルっと受け入れたとしたとしても、実効性のある方法で(後述のCVID)なければ、導入中断をすべきではないのは、能力上と外交上の双方の戦術上の話だけではなく戦略上の理由があるからです。さらに言えば、我々が言っている安保環境の厳しさというのは一般論にも適用される話なので、我が国を守る装備品としては全く無駄になることはありません。

また自国で作れないのかというご指摘もありますが、恐らくより高額になり、5年では配備できないはずです。もちろん、だからそれでいいのだということにはならないわけで、本来であれば万策を尽くす努力をする必要はあると思いますが、これはむしろ産業政策の話になるので、別の機会に譲りたいと思います。

北朝鮮はまだ脅威なのか?

そもそもイージスアショアってまだ要るの、を見ていきたいと思います。まず、世論調査の結果が変わった背景として、この1年で何が変わったかというと、①(軍事挑発)北朝鮮が実際にミサイルを撃ってこなくなった、②(米朝交渉)米朝会談以降、軍事的緊張から外交交渉モードに変わった、③(イージスアショア費用)概算が明らかになった、の3つです。

そして、全く変わっていないことは、㋐(意思)北朝鮮は撃とうと思えば撃てるという意思の問題と、㋑(能力)北朝鮮は現時点でも核やミサイルと言った大量破壊兵器を保有しているという能力の問題があります。

②の米朝交渉は、㋒(CVID)その意思と能力の放棄完了が確認できないと経済制裁停止も無ければ経済支援もないという国際社会の意思と、㋓(段階放棄)その意思と能力を段階的に放棄する代わりに段階的に経済制裁停止と経済支援をしてほしいという北朝鮮の思惑を話し合う場ですが、㋓の段階放棄では歴史の繰り返しなので国際社会は許容するはずもなく、㋒のCVIDを北朝鮮が飲むしかない。飲んでくれるのが一番いい。でもそうならなければ、結論としては交渉は進展せず、②米朝交渉は長期に及ぶか決裂する。長期化しようが決裂しようが㋐意思と㋑能力は残るので①軍事挑発の不安は解消されない、ということになります。

因みに38ノースというシンクタンクが時々分析結果を公表していますが、それによると東倉里ミサイル施設の一部を解体したとか、豊渓里核実験場の坑道を閉鎖したということが言われています。また南北会談で東倉里ミサイル施設や寧辺核施設の放棄が約束されたとの報道もあります。一つ一つは良い兆候で大いに歓迎すべきです。しかし、これは上記㋓の段階放棄であって、㋒のCVIDとはなりません。一例を言えば、去年9月に襟裳岬上空を通過した際に使われたと報道されている順安ミサイル施設はどうなる、とか、これまで作った弾道ミサイルはどこ、とか・・・。1991年の朝鮮半島非核化共同宣言には、南北とも核再処理施設とウラン濃縮施設は保有しない、とあります。1994年の米朝合意枠組みには、北朝鮮は上記宣言の履行に向けた取り組みを一貫して行う、とあります。簡単に乗れないことはご理解いただけると思います。

合理的判断と価値基準の設定は重要

昔、インフラは無駄だ、ダムは無駄だ、コンクリートから人へ、などと中長期的視点に欠け、老朽化対策も講じない時代がありました。大災害なんてないよ、と。こうなったのも、その前の時代に経済対策の美名のもとに不要不急の事業をし続けてインフラ無駄遣い論が蔓延したツケでもありますが、いずれにせよ結果的に整備に遅れが生じ、災害による被害は発生しています。ため池決壊による被害も、農村整備事業予算のほとんどが個別所得補償に消えていったからとも言えなくはない。

寺田寅彦は、災害は恐れすぎてもいけないが、恐れ無さ過ぎてもいけない、という言葉を残しています。中長期視点で起こり得ることを想定し、合理的判断で価値判断基準を設定すべきです。これは安保にも当てはまる。例えば費用。イージスアショアが10兆円と言われたら、私は明確に、それは国力に合っていないと断言できます。あるいは技術的精度。当たるのか当たらないのかという指摘をされる方がいらっしゃいます。相当な確度であたります。が、そういう問題ではなくて、財政などの多くの制約のなかで、万全をどれだけ期すかを合理的に判断していく、というのが我々政治に与えられた使命なのだと思います。

一番重要なこと。

ただ、最後に、これが一番重要なのですが、配備は必要だとしても、配備するには配備地を決めないといけない。配備されることになれば、そこのご地元の皆さんがどう感じられるのかを中心に考えなければならないのだと思います。ご地元の皆様のご理解を得られるよう努力して参りたいと思います。

政治家の実績の自己アピールについて

とある団体の標語的言葉に、人の悪を言わず己の善を語らない、というのがあります。なかなかいい言葉だなと思っています。

政治家は基本的に有権者の皆様に3つのことをバランスよく伝えるのが望ましいと思います。1つは何をやるか、という夢とかビジョンという「未来」。1つは、今何をやっててどうなっているのか、という解説、つまり「現在」。1つは、何をやったか、という実績、つまり「過去」。私は後者はほとんどしません。親父からの遺伝ですかね。バランスが悪い。先日、なぜオマエはやったことを言わないのかね、言わないと評価できないだろう、という趣旨の指摘を頂きましたので、この際、私がなぜ、自己の実績のアピールをあまりしないのか、について、私なりの人生哲学を書いてみる気になりました。

人間、本気で何かを成し遂げた者は、自分から何かを成し遂げたと言わないものだと思っているからです。なぜならば、その何かを本気で成し遂げる努力をすれば、その過程で少なくとも数名の、場合によっては何百人の、多くの人々が支えているのが見えるわけであって、そういう陽の当たらない人たちの涙と汗を蔑ろにして、私がやりました、とは言いたくないからです。一言で言えば、敢えて遅れたるに非ず、馬進まざればなり、ということでしょうか。

一方で、そういう影の努力を結果だけかっさらっていく政治家もいます。ヨコドリです。何らかの結果がでたときに、実は何もしていないか電話一本したとかだけで、私がやりました、と堂々と大勢を前に主張すれば、敢えて否定する人もいないし、人は信じてしまうものです。例えば、この地元のこの予算は私がとりました、などです。扇動も同じ心理なのだと思いますしメディアが典型的ですが、堂々と何百万の人に言えば、嘘ではないだろうとみんなが思うという心理です。政治家もメディアほどではありませんが、大勢に堂々と主張することによって、信じさせる力はもってしまうものです。

実績アピールに腐心して、自らを浮かばせようとするのは、政治家にとって必要な能力なのだと思いますが、私は違うと思っています。かつて作家の塩野七生さんは、為政者たるもの、自分の魂を悪魔に売ってでも国民を天国に送り届けるだけの気概が必要だ、と喝破しました。国民の魂を悪魔に売って(だまして)自分を天国に送り届けようとする(当選する)のは、為政者の態度としては好ましいとは思いません。

そういうことに腐心するよりも、誰がやったのでもいいから、結果がでて地域や国民のためになればいいではないか、と私は思っています。だから、私がやりました、的な主張を見ると、いらっとするのです。かと言って、そんな偉そうなことを言えるほど、何かを私は成し遂げたわけではありませんが・・・。

ありがとうー約1年2か月

本日を持ちまして、防衛大臣政務官の任を離れることになりました。昨年の8月初旬から今年10月初旬までの約1年2か月の間、与えられた任務を全うするにあたり、お支え頂いた全ての皆様に感謝申し上げたいと思います。

地元の皆様。任期中、帰郷するのが通常の約1/4程度になっていたのだと思います。特に昨年10月の総選挙期間中でも半分程度しか帰郷できず、まだ2期生の分際で地元を留守にしがちな戦いは不安で一杯でした。こうした状況下でも1年以上に亘り信じて頂きご厚情を頂けましたのは身に余ることだと思っています。また、この間、全力で地元を守ってくれた地元スタッフにも感謝したいと思います。これからは通常通り、よほどのことがない限り従前どおり毎週末帰郷したいと切に願っています。

防衛省・自衛隊の皆様。お支え頂き、また共に考え行動頂いた、多くの職員の皆様にも心から感謝申し上げます。政策面。理想と現実のギャップ、演繹と帰納のギャップを埋める戦いに丁寧にお付き合いいただいたことは今でも心に焼き付いています。ありがとうございました。事案対処面。任期中も様々な事案が発生しました。多くの方が裏方でご苦労されたことは容易に想像がつきます。誠に感謝の念に堪えません。また毎日毎日を支えてくれたスタッフの皆さんにも最大の感謝を申し上げたいと思います。温かく見守って頂いた大臣・副大臣・相方政務官。心にぐっとくるような事が何度もありましたが、真心と指導力のある上司・同僚に恵まれたと心から思っています。

日本人一般からすると、自衛官というのは、災害時には直接助けてくれたり、その活動をテレビで見かけるような頼もしい存在であっても、日頃から目にし接してその活動を知り、声をかけれる人は少ないのだと思います。しかし、日夜、人目につかないところで、任務によっては無人島という過酷な環境で、あるいは重力の何倍もかかる環境で、あるいは海上に出て何週間も家族のもとに帰れない境遇で、国民の皆様から直接感謝の言葉をかけられることもなく、もくもくと日本の守りに粛々と従事していらっしゃる大勢の隊員を私は見て参りました。もっと言えば、自衛隊組織の中で脚光を浴びるポジションではなく、それを支える立場の隊員も大勢いらっしゃることは決して忘れてはなりません。全員が真剣なまなざしで事に当たっている。この日本を思う真心は、是非ともこれからも国民の皆様に伝え続けていきたいと思っています。残念でたまらないのが、こうした方の事故殉職。絶対に二度と起きないことを願っています。

また、防衛省官僚も、めちゃくちゃ忙しい人種です。国会の厳しい追及をこなし、時には理不尽な批判に耐えつつ、全力で事態に対処し、次世代の政策を立案し実行しています。国会は政府をチェックする機能もあるので、どんどん追求すればいいし、するべきです。しかし、国会の要求に応えるためのコストがどれだけかかっていかも、表で議論すべきではないのか、そんなことを考えさせられました。

小野寺大臣は離任の辞で、こうした皆さんと働けたことを大変に誇りに思うという趣旨のことを述べられました。私はあくまで大臣のスタッフであったので、同じことを申し上げるのは僭越というものですが、全く同じ感覚を共有するものです。

茶道と政治

先日、茶道裏千家淡交会の四国地区の集会(讃岐のつどい)があり参加して参りました。裏千家と海軍は縁があり、前家元で千玄室大宗匠は、元海軍航空隊に所属する士官であって、後に志願して特攻隊員となり、出撃前に終戦を迎えた方。多くの友人が戦火に散っていったご経験から平和に対する想いが人一倍強く、茶道の精神が築く平和について、海上自衛隊のみならず、多くの公的機関で講演をされ、万人から尊敬されていらっしゃる方です。そして、当日は、なんとそのお孫さんの千敬史さんが参加されていました。千敬史さんは、現家元千宗室宗匠が数年前に後継指名された方で、私は初めてお目にかかりましたが、スピーチが抜群にうまく、一気にファンになりました。

さて茶道と言えば、私は岡倉天心の「茶の本」(1900年頃にニューヨークで出版された西欧人向けの本)を思い出します(ついでに言えば寺田寅彦の「茶碗の湯」というのもセットでお奨めの本です)。岡倉天心と言えば、明治のころ西洋から野蛮と言われ西洋化が急激に進む日本を憂い、日本独自の文化や伝統の素晴らしさを世界に発信する活動に力を尽くした方で、「茶の本」もそうした背景から書かれています。後にこうした活動が斜めから見られて国粋主義とかアジア主義というレッテルを貼られることになりますが、近視眼的な見方だと私は思っています。(それは岡倉天心の一番弟子であった横山大観にも言えます)。

例えば、本文中、茶には酒のような傲慢なところがない、コーヒーのように自覚もない、ココアのように気取った無邪気もない、であるとか、己に存する偉大なるものの小を感ずることのできない者には他人の小の偉大を見逃しがちである、という趣旨の文章がでてきますが、なんとも西欧への当て擦りです。しかしこれは、単純や静寂、不完全や虚無のなかにこそ偉大なるものを見出さんとする精神こそが日本文化なのだというところにスポットを当てるべきなのだと理解しています。

例えば、今でも時々ぱらぱらと捲ってしまうくらい痺れる文章ですが、茶道とは美を見出さんがために美を隠す術である、茶道とは不完全なものを崇拝することであって完成させようとする人間の優しい企てである、などいう趣旨の表現が登場します(正確ではないかも)。つまり、不完全であるがゆえにそれを完全たらしめるものは人間であって、見る人の中で美が完成する、ということであって、見られる茶と見る客人とそれを見る主人が一体となって初めて完成するものなのだ、ということだと思います。

地元でお茶会に時々お誘い頂くことがあります。当初は躊躇の連続でした。無作法者ですから。そう言って切り抜けてきたのですが、顔なじみになってきたころで何人かの先生に作法を聞くと、全員口をそろえて、やりたいように楽しめばいいのですよ、とおっしゃる。

茶道というのは日本人としての人への思いやりを学ぶことだと解説されます。確かにお出しするお茶のたった一杯のために丸一日かけて全力を尽くして客人をもてなす術ですから、そのとおりなのだと思います。しかしその簡素で単純なお茶一杯の中に、前述の全人生観と全世界観を見出す精神構造が主人に備わっているからこそ、できる術なのだとも思います。

ではなぜ現代的茶道が型や作法や道具の名称由来の類の知識を重視しているのかが気になってきます。恐らくこれは、内田樹が日本辺境論で指摘しているように、学ぶことを学ぶシステム、つまりお茶の師匠が奥義を教示せず型や作法を徹底することによって、学ぶ側が奥義を自ら見出そうとするプロセスにこそ意味を求めているからなのだと思っています。(ということで余談ですが、最近では、奥義は気にせず、そういう理解を勝手にして、臆することなくお茶を楽しんでいます。主人を務めることがないので・・・)。

一方で、不完全なものを崇拝だけしていては政治はなりたちません。つまり完全たらしめるための不断の努力と行動が必要になってきます。問題はその立ち居振る舞い。酒やコーヒーやココアのような振る舞いはいつかは日本社会の中では見放される。常に自己を見つめ続ける態度が大切なのだと思います。

多難な時代。難局を乗り越えるため、課題を整理し目標を定め、政策を逃げずに具体的に打ち出し、断行していくこと。つまり、塩野七生さんが指摘するように、政治は、1に何をやるかという目的、2に何をどうやるのかという手段、3に何をどうやり続けるのかという継続、が重要です。そして、民主主義国家の中で極めて困難な継続のためには、常に自己を見つめ続ける態度が大切なのだと思っています。それが実は一杯のお茶の中の世界観に繋がるのだと思っています。

フィリピン出張:平和を築く礎は一人ひとりの思い

今回は、海の話です。先日、急遽フィリピンに出張に行ってまいりました。各国との共同訓練などのためインド太平洋地域に展開している海上自衛隊の護衛艦かが、すずつき、いなずま。その最初の寄港地がフィリピン・スービック湾であって、その旗艦である護衛艦かがにドゥテルテ大統領をお迎えすることになったため、大臣命で急遽訪問することになりました。(因みに艦長は香川出身)

そこで出会った隊員一人一人の真剣な思いが集合体となって平和を築いていることを実感させられます。その雄姿と眼差しが未だ鮮明に瞼に焼き付いて離れません。

艦内では、福田群司令とともにドゥテルテ大統領と意見交換をさせていただきました。大統領のかが訪問は両国の友好関係の象徴であって更に深化させなければなりません。そして、その礎を築いてくれているのが、一人一人の隊員さんです。

・防衛省
http://www.mod.go.jp/j/approach/exchange/nikoku/docs/2018/09/01_j-philippines_gaiyo_j.html

・フィリピン政府広報動画

・フィリピン政府広報記事
http://pia.gov.ph/news/articles/1012188
https://pcoo.gov.ph/photo_gallery/president-rodrigo-roa-duterte-visits-the-japan-maritime-self-defense-forces-escort-flotilla-four-at-the-alava-pier-in-subic-zambales-on-september-1-2018/

・国内報道
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3461988.html
https://this.kiji.is/408591196232270945?c=39546741839462401

・当日の写真







【善然庵閑話】京極家と国の運営と(京極会報誌)

(写真出展:京極高和, Wikimedia)

地元丸亀市に丸亀城というお城があります。その世界では石垣の曲線美で有名だそうで、多くの歴女が訪れるのだとか。先の7月豪雨でその石垣が一部崩れ、文化遺産でもあるので、これから長い長い時間をかけて修復されることになります。しっかりと応援していきたいと思います。で、今日は、それで思い出したのが、そのお城の藩主であった京極家。この功績を称え敬称するための会が地元にあるのですが、その会報誌に何か書いてくれないかとのご依頼を受け(豪雨の遥か前)、駄文をお送りしたので、ここに改めて掲載することにしました。ご笑納いただければ幸甚です。

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古今東西、為政者にもいろいろいますが、強烈な信念と自己の抑制という一見矛盾することを同時に実現した者だけが、安定した政治を成し遂げるのかもしれません。郷土の政治家、歴代京極藩主はどうだったのか、歴史家から学んでみたいと思う事はしばしばあります。

何事もおごりは禁物。言葉で言うのは簡単ですが、本当の意味で、おごらず謙虚で真摯であることは意外と難しいものです。例えば、私も政治家の端くれ、政策について厳しいご指摘を頂くこともあります。そのような時、多少持ち合わせている信念から、ついつい反論することもある。信じて欲しい、これは間違っていないのだと。しかし、これが謙虚さの欠如なのだと後で気づき、自ら大いに反省することもしばしばあります。

考えてみれば単純で、相手に信じてもらうためには相手を信じないといけない。正しきを為さんとする我を信じ給え、という発想では、誰も信じない。なぜならば、そもそも自分は正しいのだという前提なのだから。であれば、それが正しいかどうかよりも、若泉敬ではありませんが、他策無かりしを信ぜむと欲す、という恒常的な自己反省の態度、つまり正しいと思うのだけどどうなのだろうか、という態度の方こそが、より重要になります。謙虚であるということは、結局は相手を信じるということになるのかもしれません。

権力が一旦確立すれば、特に危機の時には、自らの行いを正しいと信じて政策を断行する自信と信念が必要ですが、他から見ればリーダシップにも見えるし、傍若無人にも見える。お釈迦様が唯我独尊という言葉を現代に残していますが、この言葉自体も傍若無人と同じような意味に誤解されることが多いのと同じように、物事まっすぐ正面から見るのと、斜めから見るのでは、随分風景が違ってしまいます。

現代的民主国家において、このリーダシップと傍若無人の間を埋めないと、政策は断行できません。正しいのだから黙っとけ、では選挙は負ける。であれば、この、俺についてこい的、荻生徂徠的、つまり朱子学的な思想は現代では役に立たず、安岡正篤や吉田松陰のような陽明学のほうが役に立ちそうに見えます。(余談ですが、司馬遼太郎が三島由紀夫の死に際して指摘している様に、思想なるものは、どちらの方向に向かってもラディカルに先鋭化する力を内在しているので、本来虚構であることをよく知っておく必要はあると思います)。

その上で言えば、美学に溺れることなく、心の中の葛藤(正しいのに何で信じてくれないのだろう)をなくし、相手である国民を信じるという実践を通じて、もって国民の信頼を勝ち取ることなのだと思います。相手を信じずに信じてもらえることはあり得ません。であれば厳しいけれど真実を語る勇気と真心を持つことが一番大切なのであって、他策無かりしを信ぜむと欲する態度こそが大切なのだと思います。