保育の問題について考える

保育に関する匿名のブログ書き込みが国会でも話題になっています。そこで改めて保育について考えてみたいと思います。

・待機児童問題。都内の切ない現状に接し

少し余談から入らせていただきますが、3年前、とある大使から意見交換したいとのことで大使館にお招きいただいたときのこと。夕方4時ころ、東京都内の初めて行くその住宅街にある大使館を探していたときのこと、「保育園建設反対」という一帯に掲げられている垂れ幕を見て、意味がよく呑み込めなかったことを今でも鮮明に覚えています。実に残念で切ない。

田舎育ちの私の感覚からすれば、子供たちの黄色い歓声が聞こえてきたら賑やかに活気づくのに、と。しかも子育て世代の親御さんも集まる。もう少し付け足しで言えば、まさに3世代交流というコミュニティにとってもっとも重要な循環ができるのに、と後で考えたものです。

一方で、都内に住むご年配世代にとってみれば、折角一生かけてローンを組んで静かな住宅街に庵を構えたのに、それが送迎の親御さんの車でごったがえしたり、子供たちの声を騒音と思ったりと、面倒だと思うこともわからなくもない。

仮にここで、ご年配世代には是非30年前とは全く異なる現在の子育て世代の苦しみを分かってほしい、なぜなら年金などの社会保障はこうした世代の負担の上に成り立っているのだから、と訴えたところで、そうしたご年配層にとってみれば、いやいや自分で長年積み立てた年金じゃ、とか、若い世代は日中仕事に行ってて保育所が近所に建ったら面倒だとも思わないだろうけどわしらは常に接しないといけないんじゃ、と言った主張になり、感情論になってしまいます。実は縁のある地域でも同様の問題が起きています。個別問題を解決できない力の無さを感じもしています。

人口減少対策議員連盟でまさにそのことが話題に上がり、我が意を得たりと政府に対する提言を事務局長としてまとめて提出したりしました。その部分の文言をそのまま再掲すると「子供は宝物だという社会意識が低下しており、例えば保育園騒音による住民の反対運動等の悲しい事実が顕在化しており、間接的に出産意欲の低下につながっている」。そうしたことが起こらない社会環境を整備するということに尽きます。

兎にも角にも、東京という街は、若年層にとっても(保育施設)、ご年配層にとっても(介護施設)、誠に生活し辛い場所になりつつあるのは事実です。だからこそ、地方創生と東京一極集中解消によって、そうしたアセットの利用の最適化をしなければなりませんし、そもそも家族とコミュニティが子育てをするのだという原点に戻らないといけないと強く思います。

ただ、現実がこうした理想に近づくのは少し時間がかかる。こうした演繹的視点だけでは社会問題は解決しない。だとしたら、もっと帰納的視点で解決を試みなければならないのは事実です。

・保育士の待遇は絶対に改善すべきだ。しかし・・・

まずは予算を増やすことです。OECD諸国の殆どが、仮にご年配層に10予算をとっていたら、3は子育てに予算を確保する。日本は1強です(少しデータが古いかもしれません)。未来への投資をしていかなければならない。高齢化が高齢者向け社会保障予算を増やし、それで若年層予算を減らし、子供が減り、高齢化が進む、という悪循環を断ち切ることです。少なくとも待機児童が多い地域については保育士の待遇は絶対に改善すべきです。

しかし、アセット(箱もの)をばんばん増やすことが正しい方策かと言われれば絶対に違うということを明言しておきたいと思います。

例えば政府も、こども子育て新制度を制定し積極的に予算も拡充しており、アセットも増えましたが、結局待機児童は増えている。利用したいと思う人にとって見れば、一億層活躍とか女性活躍っていうから就職活動して保育に預けようと思っているのになんだよ、となる。つまり、予算増やしたら余計利用希望者が増え、さらに予算を増やしたら、更に増える、という発散システムです。予算が増えるということは消費税も増えるということですから、折角働き始めたのにその稼ぎは公的負担として消えていく。何の為に働きに出たかがわからなくなります。

しかも、繰り返しになりますが東京など特に待機児童が問題になっているところに集中的にアセットが増えていくことになりますが、確実に需要はピークを迎える。地方はアセットが余る時代が確実にやってきます。であればやはり適正配置を考えるべきだと思います。待遇についても政府による過重な規制が悪影響を与えていると長年議論されていますが未だに答えはでていません。

要するに時間軸と地理的水平軸で最適なアセットにしないと現役世代の負担になるばかりです。

・政策の方向を見つめなおすべき

ではどうするべきなのか。現状の保育制度の補完機能として、特に需要が多い都会では、小規模保育やベビーシッター活用やシェアリングなど新しい流れを検討すべき時期に差し掛かっているのだと思います。でないと日本はもたない。シェアリングとは何のことかと言えば、子供を預かってもいいですよ、と思う人と、預かってほしい、と思う個人を繋げるビジネス。昔で言えば、地域に家政婦紹介所というのがありましたが、地域の面倒見の良い人がやっていたことをITで繋ぐということです。もちろん、質の面、安全安心の面で、ちゃんとした制度を作るべきは論を俟ちません。保育の規制はこの安心安全を担保するためにある。保育の質を国家が確保するということは当然です。

先日、Asmamaという会社の経営者と話す機会を得ました。その経営者の理念は、ビジネスチャンスということでは全くなかった。むしろ、社会の課題を解決する手段を提供しているというスタンス。誠に安心しました。その経営者曰く、利用者に安心を提供するために、つまり見ず知らずの人に我が子を預けるのはちょっとねという意見に対して、足を使ってコミュニティ単位で交流会を地道に行っているという。ITを使っているというだけで、結局家政婦紹介所とシステムは同じです。

こうしたプラットフォームを築くことを限定的にでも検討すべきです。その際は、責任所在や個人認証も含め、安心安全をどのように担保するかが中心課題になると思います。

国連女性差別撤廃委員会?女性天皇?選択的夫婦別姓?

昨日、国連女性差別撤廃委員会が日本に関してまとめた見解で、皇室継承が男系男子に限定しているのは女性差別にあたるなどとしようとしたことが報道で明らかになりました。結果的には、外務省の抗議によって削除されましたが、日本の伝統や文化を無視したとんでもない内政干渉であり、二度とこのようなことがないことを強く求めたいと思います。

 ただ、今日はその話で思い出した別の話をしたいと思います。

 今、国会内では、選挙があるのではないかという話題がしばしば聞かれるようになりました。先日もとある会合で話がでたのですが、転じて、選挙時のマスコミによるアンケートの話題になりました。

 当たり前ですがこれは新聞各社が全候補者に対して政策の考え方のアンケートを求め、その結果を新聞紙上で紹介し、有権者に対して投票の参考にしてもらおうという趣旨です。大変すばらしい。

 賛成か反対かという0か1かのアンケートがほとんど。政治という超アナログな世界に超デジタルで答えを求められる。有権者にとっては分かりやすくていい。ただ問題は、前提条件によって結果が変わる政策はままあって、それを主張できないで単純に半か長かを求められると結構なやむ。

 例えば皇室典範の在り方について、私は女系天皇はどうですかと聞かれればどこまで行っても反対ですが、女性天皇はどうですかと聞かれれば、原則反対ですが、仮に皇室が途絶えることが明らかな場合は現実論として選択肢の一つになりうると思っています。女性天皇が女系天皇まで崩壊させる第一歩だという主張もありますが、私はあくまで緊急避難的に(という言葉は望ましくない言葉ですが)一時的に緩く運用するべきという以上のものではありません。そのあたりが境目です。結局、改正については反対ですが未来永劫ではなく前提による。こうした考えは、単純に○か×かと聞かれれば悩む。○と書くと完全容認で女系天皇まで容認しているように見える。×とかくと徹底的に反対に見える。しょうがないから選択肢にない△なんてしてみるわけですが、そうすると、どちらとも言えない、と書かれてしまう。そうじゃないんだけど。

 もちろん、くそ真面目にそんなことをぐだぐだ言わずに×と書けばいいという話はあると思いますが、真意が全然伝わらないですよね。なぜそう思うのかという主張を政治家って生き物はしたいんです。そんなことは選挙アンケートでは許されない。

 またもう1例挙げれば、私は選択的夫婦別姓は原則反対。しかし、前提条件として国民の過半が望むのであれば、検討する余地はあり(何故ならば、事実、社会的精神的物理的に不利益を被る人が僅かながらいるため)。ただしその場合でも、前提条件としては、そうした方の救済措置として極めて厳格に運用することを前提に(例えば家庭裁判所でやむにやまれぬ事情ありと認められる十分な理由があると判断される場合)認めるというところあたりが境目だと思っています。ってなことを、○か×かと言われると、んーとなってしまう。×とかくと、徹底的反対に見えるし、○とかくと全然容認で選択したい人は申請すると認められるみたいに見える。そうじゃないんだけどな。これも単純に×って書けばいいという意見もあると思いますが。

 主張は清くありたい。常にそう思っています。問題は、清さは○と×というデジタルで表現できない場合があることです。その結果、有権者が表面的にしか判断できないということになってしまう。

 であれば、新聞紙上で、それぞれの候補者が具体的にどのように考えているかはそれぞれのホームページを参照してください、と紹介することくらいはできるのではないかと思うのですが、皆さんはどう思いますか。

 

北方領土の日はかなり過ぎてしまいましたが・・・

 先日、とあるところでロシア関係が話題になったので、先月2月7日の北方領土の日に書こうと思っていたところでもあったので、改めてここに書き残しておきたいと思います。今年1月、ロシアのラブロフ外相は、平和条約と領土問題は同義ではないということを記者会見で表明しました。過去のロシアの立場と全く異なる認識であって、明らかに軌道修正であって我々としては容認できるものではありません。

 ロシアは日本にとって重要な隣国なので慎重に改めてここに考えを記しておきたいと思います。

 ロシア側の主張は以下のようなものです。まず北方領土はサンフランシスコ平和条約という戦後処理で日本が放棄したもの。現在はロシアが実効支配してロシアの領土。この条約にロシアが署名していないとしても日本の義務には影響は全くない。1956年の日ソ共同宣言はそれを前提に歯舞色丹の2島の引き渡し(返還ではない)を合意し、これが領土関係の唯一の文章である。この共同宣言のポイントは、諸島についての合意が最終的にどのようになりどのように達成されるかに関わらず平和条約署名問題を第一優先に掲げるというもの。領土に関する2島以外の要求は存在しない。4島が交渉の対象となる(つまりロシア領のまま日露共同開発)。日本の経済界が4島の活動に算入することを支持すると提案してきた。そのための何らかの特別の追加的制度、自由経済圏を創設することも提案してきた。これには平和条約は必要ない。平和条約は領土問題解決が前提ではない。平和条約のためには、貿易・経済・人的・文化・国際問題など相互協力を大幅に発展させることが不可欠である。

 こうした主張には大きな問題がいくつもあります。まず日本側としては、サンフランシスコ平和条約でいう千島列島には北方領土は含まれていない事(後述)。1956年の日ソ共同宣言が平和条約交渉の原点であることは同じだが、それに続く1993年の東京宣言では4島の帰属に関する問題を解決することで平和条約を締結することで合意しています。つまり領土問題と平和条約は一体。さらに、2001年のイルクーツク声明と2003年の日露行動計画では、平和条約交渉を1993年の東京宣言を含む諸文書に基いて行うとされていますし、国境画定委員会が設立されています。つまり、最近の領土問題なんてないよ的な発言は、過去と大きく矛盾します。

 最大の問題は、プーチン大統領自らがこうした一連の合意を確認しているということです。東京宣言で4島返還とは言っていないのですから、4島の帰属の交渉に入ることが今後のポイントになるはずなのです。で、日本側はさらに、この4島の帰属をめぐる交渉については柔軟に対応しますよ、と言っているわけです。

 なんとしてでも交渉に入らなければなりません。ということは何としても首脳会談を実現しなければなりません。しかし重要なことは、前述した主張を正しく国際世論に訴えておくと同時にロシア自身にも正確に打ち返した上で交渉しないと、不利な状況で交渉にはいることになる。もちろん、交渉に入れないのであれば、もう知らない、ということでもあります。

 以下、少し歴史的な確認をしておきたいと思います。

 1951年のサンフランシスコ平和条約の2条(c)で、日本は千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄することとなりました。これは明文化されたものです。

 なんでこの千島列島に北方領土が含まれないと日本が主張しているかというと、この部分の趣旨は戦争で日本が無理やり奪った領土は放棄せよ、ということであって、北方領土は歴史的事実からしてそれ以前から日本の領土だったので(当然1905年時点もその前も)、この条約締結の時にも吉田茂が、歯舞色丹は北海道の一部であるから千島列島には含まれないとし、さらにまた国後択捉については明確にしなかったものの、ソビエトによる一方的な収容を非難していて反論はないのであるから、立場は受け入れられたものとされています。

 では歴史上なんで日本の領土かということを整理しておきたいと思います。もともと樺太の主に南部と北方領土4島には日本人が住んでいて、それ以外の樺太と千島列島にはロシア人が住んでいました。ただ、境目は明確ではなかった。

 そこで、幕末の安政元年、1855年にロシア提督のプチャーチンと幕府の筒井政憲や川路聖謨の間で日露和親条約が締結され、ここで択捉島とウルップ島の間が国境であることが確認され、樺太については交渉決裂で従来通りあいまいのまま両国民混在ということになった。ちなみに、この時の川路という武士は、有能かつユーモアのある男であったらしく、ロシアの間でも話題の人であったと言う史実が残っています。

 少し脱線しますが、実はこの時期はまさにクリミア戦争真っ只中。アメリカのペリーによる黒船砲艦外交ができたのはイギリスやフランス、そしてロシアがクリミア戦争で忙しく日本への関心を寄せる余力がなかったからに他なりません。そしてクリミア戦争と言ってもカムチャッカ半島あたりまで影響は出ていて、英仏が同地で盛んにロシアに対して砲撃を行った史実が残っています。プチャーチンは日本に着いてからクリミア戦争の事実を知り、さらに安政東海地震で自分の艦船であるディアナ号を失いながら、交渉を行っていたことになります。丁度祖国の安泰を案じながらプチャーチンは交渉していたことになります。

 脱線しましたが、その後に、1875年の日露間で樺太千島交換条約によって、平和裏に、樺太は全面放棄でロシア領、千島は全島日本帰属ということが決まった。ここも日本国内では意見の対立があって、副島種臣という外務卿の樺太両国民住み分け論と、黒田清隆開拓次官による樺太放棄論の2論がぶつかっていましたが、征韓論で副島が下野して黒田の放棄論が明治政府内部で優勢となって結論がでた。条約交渉は、かの榎本武揚。ちなみに政府の立場ではありませんが、日本共産党はこの条約を根拠に現在でも千島全島の返還をロシア側に要求していると言われています(未確認)。

 そして1905年に日露戦争の勝利によって南樺太も日本領になりました。その後にサンフランシスコ平和条約です。つまり、北方領土はこうした歴史上の事実からして戦争で勝ち取った土地では全くなくて平和裏に日本の領土であることが確定されたものであって、樺太とは全く違う。ちなみに樺太は放棄はしたけど帰属は関知していないというのが正式な立場です。実質的には領事館を置いているので追認したものと理解はできますが。

 

【善然庵閑話】人は成熟するにつれて若くなる

久しぶりの善然庵閑話シリーズ(政治とは直接関係ない取り留めも無い事を書き綴った散文で、遠藤周作の狐里庵閑話を捩って名付けたもの)です。

今日、とある御仁との会話のなかで故竹下昇先生の話題になり、それでもってヘルマン・ヘッセをふと思い出してしまいました。ヘルマン・ヘッセなどと40代の中年の私が言えば、恥ずかしげもないのかと罵倒されそうですが、誰しも通った青春の時代(私もあったんです)、ご多分に漏れず、ヘルマン・ヘッセをいくつか読み、そうだこれでいいのだ、などと、自分の悩みを消化していたことを思い出します。今となっては単なる恥ずかしい苦く酸っぱい思い出です。

でも、25歳くらいのときに読んだ、とても印象に残ったヘッセのマイナーなエッセーがあり(駄洒落じゃありません)、それは「人は成熟するにつれて若くなる」というエッセー集に納められた、「日本の森の渓谷で風化してゆく古い仏像」というものです。

と言ってもなんでこんなエッセー集を25歳ごろに読み始めたのかも全く覚えていませんし、タイトルさえ正確に思い出せずネットで調べてようやくわかったくらいのものですが、どんな内容なのか、正確に現代に再生する力は私にはありません。

ただ、雰囲気だけ伝えれば、

雨や霜に晒されて静かに目標に向かっていく柔らかな顔をした仏陀像。その目標とは、自らすすんで森の中で朽ち果てて形のない無になることであって、客観的に見るとその行為自体が究極の高潔であって、その無の中に万象全てが含まれている、みたいな感じです。

まるで日本人のように人間の内面を追求する人がヨーロッパにいたのだという驚きと共に(ヘッセらしい)、こうした内面追及が人類普遍的なものなのかもしれないという勘違いをしながら読み耽った詩です。

般若心経にも色即是空というのがあります。万物すべて因果でつながっていて因は果になり果は次の因になる。形あるものは全てこの因果のサイクルの中の一現象でしかない。だからこそ、私のような世俗の人間自身が形のない空なるものであって、そんな空が自分の基準で判断する欲望やら怒りやら嫉妬なるものは当然のごとくすべてが煩悩でしかないというもの。

ヘッセの内面世界は実はこうした般若心経の教えをも超越した、無に向かうというダイナミズムの美学を感じます。

翻って政治における無とはなにか。それは公僕に徹することであろうか。ある種こんなどうでもいいことをぼやっと考えてしまった一日でした。

IoT/Industrie4.0とIICに見る世界の産業構造の大変革

このままIoTやBigData、AIなどが世界の産業構造や社会構造にどのようなインパクトを与えるのかの理解が進まないままだと、いつかはアメリカがしかけるIICやドイツが仕掛けるIndustrie4.0の産業戦略(というか標準化戦略)に飲み込まれて、日本の産業は単なる部品モジュール供給会社になってしまいます。このあたりの背景は、小川紘一著のオープンクローズ戦略に詳しい。

日本ではどうもIoTなどの言葉だけが先行していますが、日本が将来メシを食っていけるかどうかの瀬戸際に追い詰められている程の極めて重要な問題です。こうした新テクノロジーによる新産業をしっかりと捉え、明確な戦略を描き、雇用や所得に結びつけていかなければなりません。

IoTやBigData、IICやIndustrie4.0の本質は何か

IoTやBigDataでどのようなサービスが出現するのか、AIと組み合わせればどのようなことができるようになって、どういう社会ができ、どんな新しい価値を生むのか、というアプリケーションを議論するのは大いに大切であって、政府も党もこうしたアプリケーション産業が自由に出現できるような環境を創ること(規制改革など)を考えていくことは非常に大切です。

しかし、より大きな視点で見て、どのようなグローバル産業構造になるのかを考える方が遥かに重要です。

一言で言えば標準化です。すべてのものがネットにつながるということは、必ずそこに標準化というプロセスが入る。標準化ということは、オープンにするということであって、その公開されたインタフェース仕様に準拠しさえすれば、だれでも市場に参入できることを意味します。

例えば、その標準に準拠するモジュール化された高性能機器を日本が開発できたとしても、政府支援が潤沢な(例えば税制や補助)新興国に価格競争力ではかなわない。発売した当初は市場を席捲するかもしれないけれど、いつかは撤退を余儀なくされる。

ではなぜ標準化なんかするんだということですが、IoTの分野でしかけているのはドイツのIndustrie4.0とアメリカのIICです。何を目指しているのかというと、一言で言えば、標準化して無料でも良いから使わせて普及させてしまえば(オープン戦略)、あとは標準化に知財を刷り込ませたうえでその内側の技術を知財で守り通せば(クローズ戦略)、世界を牛耳れる、ということです。オープンクローズ戦略です。

つまり、もっとも気を付けなければならないのは、Industrie4.0やIICという標準化が作るビジネスエコシステムはドイツやアメリカに富が流れる構造になっている可能性があるのであって、何も考えずに標準化作業に付き合ってしまったのでは、日本は単なる部品やモジュールを供給する会社になってしまうというグローバル産業構造ができてしまう可能性にもっと注意を払うべきだということです。日本が目指す方向性は、決してキャッチアップネイションではなく、リーディングネイションであるべきです。

日本の技術力が衰退したではない

日本は素晴らしい技術力は持っているけど、それを産業化できていないか、産業化してもマネージメントできていない。つまり、科学技術成果を稼ぐ力に変換できていないか変換効率が悪いことが一つの原因です。

1980年代、日本はバブルのピークを迎えようとしていました。巨額の貿易黒字は日本のエレクトロニクスや自動車産業によって生み出されたものでした。CDやDVD、DRAM、液晶テレビ、カーナビなど、技術力を生かした先端技術製品を日本は多く生み出し、日本に多額の富をもたらしました。しかし一方で、市場を席巻したこれらの製品は、一部の製品群を除き5年程度で国際市場から駆逐された。近隣アジアの新興国企業に市場を奪われ撤退を余儀なくされた。

なぜそうなったかというと、日本は知財戦略を誤ったから。と言い切ることはできないのは当然ですが、そう見た方が見通しが良い。日本は特許取得数で言えば世界のなかで世界最多を争う国です。しかし、DVDや太陽電池のように世界の80%以上の特許を取得していながら、なぜ市場撤退を繰り返すのかを考えなければなりません。

まず言えるのが、日本の知財戦略と知財予算は、殆どが知財成立に使われ、知財活用に使われた国費は極僅かだということ。つまり特許の数は多いけど使ったことがない企業が殆どだということ。さらに言えば、例えば、多くの場合、国内だけに出願し、海外には出願しない。結果的に公知の技術となってしまい、実質的に新興国企業への技術移転となった。つまり、国内オンリーの特許取得が標準化政策と同じ役割を果たしてしまい、日本企業に深刻な事態をもたらしたと言えます。

科学技術政策としては日本は頑張ってきた。私も現在、党の科学技術イノベーション戦略調査会の事務局で第五期科学技術基本計画の策定作業に携わりましたが、日本は、第一期科学技術基本計画が策定された1996年から第四期を終える今年までに総額80兆円程度の税金を科学技術研究開発につぎ込み、官民合わせて毎年GDPの3〜4%程度の投資を行ってきました。これによって先ほど述べた先端技術による製品が開発され、日本の技術力ブランドの構築に大きな貢献をしました。ノーベル賞も何人も受賞された。LEDやタービンブレードなど最先端の技術が無尽蔵にある。だから決して技術力は衰退していません。

しかしそうした研究結果を稼ぐ力に変換しないといけない。問題の1つは、なぜ産業に結びつかないのか。これは多くの人が議論し政府や党内でも十分に議論され、対策を盛り込んだ文書が発出されています。問題のもう1つは、なぜ産業化された製品が5年程度で世界市場から撤退を余儀なくされるほど続かないのか、別の視点で見れば、なぜ巨額の研究開発投資が新興国に簡単にわたってしまうのか、であって、IoTなどの新プラットフォームが出現し社会に大変革を興そうとしている時には、こちらの方こそが真剣に議論されるべきです。

オープンクローズ戦略の例

例えばルータの世界では有名なシスコシステムズという会社がありますが、基本的にルータの機能を持つソフトウェアをオープンにして全世界に使わせ普及させた。普及させてしまえば、これと互換性のない繋がらないルータは使われなくなる。この場合のソフトが標準化そのもので、ここに知財を刷り込ませ(ルータ本体に繋がる)、ルータ内部のコア技術は知財でがんじがらめにしてクローズ非公開にした。結果的にみんながシスコのルータを使わざるを得なくなり、シスコはコア技術で稼げた。

携帯も面白い。当初携帯の規格は欧州勢がしかけた。GSM方式ですが、どのような戦略化と言えば、基地局の内側は知財で固めてクローズにし、外側はすべて標準化してオープンにした。使わせて普及させて儲ける仕組みであってノキアやエリクソンが台頭したのはご存じのとおりです。ところが、米国はGSMとは別の独自規格を出した。QualcomによるCDMAです。CDMAは単純に言えばそれまで欧州や日本で採用されていたTDMAより遥かに高速大容量の処理が可能なシステムですが、GSMの容量が飽和するにつれて、CDMAに席巻され、日本も含めて主要国ではほとんどがQualcomに牛耳られた。ここにきてノキアは苦戦を強いられる。

ノキアにとっての追い打ちは、Qualcomとノキア陣営が牛耳る携帯電話市場に、WiFiにシームレスにつなげることができるスマホというハードを米側が投入したこと。ゲームのルールが完全に変わってしまいました。基地局というクローズ領域を設けることによってなりたっていたビジネスモデルが、WiFiという究極のオープン化によってパラダイムシフトしました。ご存じのとおりノキアはその後市場から撤退しました。一方のQualcomは、ゲームのルール、市場の変化を明確に感じ取り、WiFi関連会社を買収し、特許ポートフォリオを完成させ、今でもピンピンしている。

再びIndustrie4.0とIICについて

Industrie4.0について、小川氏は「例えば、欧州企業が先導して企画したISO26262の安全規格は、自動運転に使うLSIチップの演算、コンペア、データバス、A/D変換を全て2系統にすることが義務付けられているが、日本の信頼性の高い構成のLSIは競争力に結びつかない」と言っており、彼らの具体的な戦略を垣間見ることができます。つまり、彼らにとって「国際標準とは規格を決めることではなく、実ビジネスの競争作りを先導する戦略ツールになっている」ということに尽きるのだと思います。

さらに小川氏は「2014年夏、ドイツと中国がIndustrie4.0の規格を共同で策定することに合意した」と言っています。これはまさに巨大市場を睨んだドイツの戦略。そして更に、ドイツとアメリカは共同戦線なのかについて、「ドイツ企業はアメリカのIICに積極的に参加している。ドイツ企業の狙いはビジネスツールの共有化・標準化であり、アメリカのAIやビッグデータ・クラウドコンピューティングなどのIT技術とサービス産業への参加を狙ったもの。アメリカの狙いはIICが先導するサービス産業のビジネスルールを、ドイツと協業してグローバルなデファクトスタンダードにすることである」と述べています。

日本のとっている政策は新興国の戦略

現在、日本は継続的に法人税減税を行い国際競争力を高める方向に舵を切っています。大いに賛成です。というか私も同僚議員とともに運動をした一派です。しかしよくよく考えてみたときに、なぜアメリカが比較的高い法人実効税率を維持できているのかと言えば、それはとりもなおさず、世界のビジネスエコシステムをアメリカ中心に構築できているからに他なりません。新興国は劇的な政府支援(税制や補助)によって、部品供給やモジュール供給基地となろうとしているわけで、狙うところが全く違う。つまり、法人税の実効税率を下げたからと言って、かならずしもグローバルなビジネスエコシステムのリーディングネイションに成れるわけではないというところが問題で、しっかりとした産業戦略と知財戦略を構築しなければなりません。

また知財の取得の仕方も現在の方向を否定はしませんし大いに賛成ではありますが、多くの特許を取得するということは、結局、グローバルビジネスエコシステムのリーディングカンパニーとクロスライセンスを狙った方策にしか見えない。これは「技術は開発するものでなくて調達するもの」が合言葉のサムスンの戦略に通ずるものがある。翻ってアップルのiPhoneが年間取得特許数が僅か200程度ということをしっかりと認識する必要があります。

アップルとサムスンの訴訟はどう理解すればいいのかというと、クローズ領域をもって収益を上げているアップルに対して、そのクローズ領域内にたまたまあったサムスンの小さい特許を巡ってサムスンがアップルに訴訟を起こすことによって、サムスンはアップルからクロスライセンスを勝ち取り共存共栄を狙っている、という一方で、アップルにしてみれば、絶対にクロスライセンスに持ち込まれないように徹底的に裁判で争っている、と見るのが正しい。

グローバル市場のなかで明確な産業戦略を描く必要性

先般、日銀がマイナス金利政策を史上初めて導入しました。同時期から株式相場や為替相場で乱高下が続いていましたが、ここはマイナス金利との強い相関はなく、世界経済に対するマーケット反応、特にアメリカ側の利上げ態度が軟化したことによる日本市場への資金の逆流入と、ドイツを中心としたヨーロッパの株価下落、そして中国経済の先行き不透明感と中国の外貨放出、そして原油の更なる下落などの複合的な理由、つまり一言で言えば世界情勢、によって日本が影響を受けた。

しかし、いくらそうだとしても、そして国内状況を見て設備投資は回復基調にあるとか実質賃金がプラスになってきたとしても、GDPの6割を占める消費は低迷、金融政策だけで景気回復を完全に主導できるとは言えず、本質的に産業の活性化を考えていかなければなりません。そして活性化の前に、グローバル市場での世界の戦略をしっかりと把握し、日本の戦略を立てていかなければなりません。

TPPもあるけどITAもありますよ

TPPについて国会で議論される前に(党内では議論してますが)いろいろな話題が上がっています。それはそれとしても、TPPはあくまで環太平洋であってしかも中国韓国と大半のASEAN諸国も入っていない。品目ごとに言えばほとんど関係ないものもあるわけで、逆に言えばチャンスの範囲もそれだけ狭い。そう考えれば、TPPと同じくらい話題に上ってもいいのが、ITAです。

って言われてもITAってなんやねん、と思われるくらい知名度が低いわけですが、国益の観点からすると驚くべき交渉を経産省・外務省はやってのけています。ITA。Information Technology Agreement。情報技術協定です。私も外務委員会の質問でとりあげてますが、中国・韓国・EUも含めて、そうした産業製品やサービスが関税無で供給できるというWTOの交渉です。

対象品目は全世界で1.3兆ドル。世界の全貿易額の10%を占める。日本からの輸出額は9兆円。日本の総輸出額73兆円の約12%に相当します。日本としての関税削減額は1700億円にも上るという試算もあります。しかもTPPと比べると即効性があり、今年7月から経済効果を発揮します。

参加国は、日本・米国・EU(28か国)・台湾・韓国・中国・香港・シンガポール・フィリピン・タイ・オーストラリア・香港・スイス・イスラエルなどです。

問題はたった2つ、1つは是非今国会中に上げなければならないことです。もう1つは、インダストリー4.0やIoTなどでゲームチェンジャーが出没するまえにゲームチェンジャーにならないといけないような時代にあって、相変わらず垂直統合型イノベーションを追いかけるのはナンセンスです。知財戦略や科学技術政策も変わらざるをえない。

兎に角第一歩目は通すことです。光り輝く日本にするために!

Society 5.0 〜イノベーション戦略〜

政府は先月、第5期科学技術基本計画を閣議決定しました。って何のことかと言うと、日本は平成8年から5年ごとに、2〜30年先を睨み、向こう5年の科学技術政策の計画を発表しており、今回は5回目の発表となります。実は党内の所掌調査会で私自身も議論にずっと参加してきたものです。

ただその党内の議論では全く出てこなかった新しい言葉が入っていました。総合科学技術イノベーション会議の誰かが提言したのでしょう。

Society 5.0

とてもいい言葉であると思っています。ご存じのように、ドイツでは数年前から国家的大プロジェクトを実行していますが、その名前が、Industrie4.0。これは日本語では第4次産業革命と訳されます。第1次革命が18世紀後半イギリス発祥のいわゆる機械化による産業革命。第2次産業革命が19世紀後半の電力活用による大量生産。第3次が20世紀後半の電子技術やITによる自動生産。そして第4次産業革命とは、IoTやBigData、AIなど高度な情報技術を駆使した生産革命のことです。

ではSociety5.0とは何かというと、Industrie4.0があくまで高度情報技術による”産業”の革新、それによる労働生産性の向上と国力の向上に注目したものですが、Society5.0は、そうした高度情報技術がもたらす新しい価値を伴った新しい社会、すべてがネットに繋がってAIやBigDataによってインテリジェンスを有している社会で人間が豊かに暮らすという超スマート社会を実現するための手段としてなすべきことの総称です。

なぜ5.0なのかというと、社会は太古から狩猟社会、農耕社会、工業社会、情報社会と流れているので、5番目に出現すべき社会という意味が込められている。

今回は細かく書きませんが、この分野の可能性は言わずもがな非常に高い。だからこそ、国家の在り方もそれに合わせて変えていかなければならないと考えています。

ざっくり言えば、規制の在り方のそもそも論です。日本はご存じのとおり、規制が必要だとされる分野は、やれること、できること、を限定列挙するような、ポジティブリストが前提となった構造になっています。例えば自衛隊もです。通常の軍隊は、できないこと、やってはいけないことを限定列挙するネガティブリスト方式をとっていますから、臨機応変に活動でき、問題が生じたら軍法会議にかかります。自衛隊はできること、やれることを細かく書き込んでいます。産業界も同じで、企業も同じようなものです。だから世の中の変化に合わせて法律をどんどん変えていかなければなりませんが、特に情報関係の進歩は日進月歩。ルールが実態に追いつかないので、ビジネスチャンスを逃し、海外に先手をとられてしまいます。

例えばFinTech。メガバンクがFinTechに手を出そうと思っても銀行法で駄目だと書いてある。これは今般法律改正することになりましたが、既にアメリカでは、PayPalやら何やらが世界に進出して、アメリカに相当な富をもたらしています。アメリカはネガティブリスト方式になっています。だから、ビジネスをやり始めるひとは、どんどんやる。

ならば、ポジティブリストからネガティブリストにすればいいのでは、という単純な問題でもありません。ネガティブリストにすると、自由度は広がり迅速に対応できるというメリットがる反面、問題が生じたら裁判するというコストがかかります。アメリカがそうであるように、国家全体で言えば莫大な訴訟コストを払うことに繋がります。法曹人口も今のままでは到底足りません。消費者による訴訟の支援スキームも考えなければならないかもしれません。ポジティブリストの場合は政府が原則を決めているので訴訟にはなりにくい。

産業界がどちらを望むのか、一度そうした議論をしていかなければならないような気がしています。

Society5.0を実行し、日本がイノベーションに最も適した国になるためには(あるいは政府目標のGDP600兆円を実現するためにはとも言えますが)、政府が予算をかければよいと言う単純なものではないことだけは確かです。

農政新時代について

農政については、ご存じのとおり、2年前に既に政策を地域政策と産業政策に明確に分け農政を刷新しました。地域政策のコンセプトは、農家一人ではできないことを国家が代わりにやる、であって、インフラの概念だと思っています。例えば用水路の工事をするとかです。なぜやらなければならないかと言えば、農地がもつ多面的機能の維持し地域を維持する為です。後者の産業政策は、農家が頑張れば収益がでるという当たり前の構造を作るためのものです。少し具体的に言えば、過去の自民も民主も供給サイドしか政策を打っていないかったのを(例えば種々の補助金、土地改良、戸別所得補償)、需要サイドや流通サイド(輸出・マーケティング・流通・販売営業力・6次産業など)もしっかりと光をあて、エコサイクルを作りましょうというもの。総じて方向は絶対に正しい。

そうした上で、TPPがでてきた。TPPは農家にとって短期的にはマイナス。しかしやりようによってはプラスにもできます。そうなるように、まさに農政新時代の到来と言えるような新たな振興策と産業構造の抜本的転換が必要だと感じています。今日はそのことを書いてみたいと思います。

まず、多少余談になりますがTPPについて触れたいと思います。私自身、交渉の結果は意外なものだったと認識しています。例えば農林水産品の関税非撤廃の割合。日本だけ突出していて19%。他の国は、例えば最後まで頑張ったカナダでも5・9%、ペルーは4%、メキシコ3・6%、米国1・2%、残りは1%未満となっています。また、関税の即時撤廃も他国平均は85%であるのに対し、これも日本だけ突出して低く51%。国際的に見れば日本は相当頑張ったと言えます。

しかし交渉を頑張ったことと農業が大丈夫かは別問題です。これについては影響が出ないための当面の振興策と同時に、影響が出ても対処できる振興策枠を用意すべきで、昨年末に第一弾として緊急対策を党として出しました。私自身は今後も香川型農業を念頭に振興策に力を注いで参りたいと思います。これは農地が大切だからです。農地は農家の収入や安心安全な食料の供給という面以外に、大和の心や子供の心を育み、環境対策、地域結束など、非常に多面的側面を持っています。だから絶対に守らなければいけない。

しかし守るだけでは全然だめです。本質的に農家が儲からないといけない。だからと言って決して単純な大規模化とか法人化ということではいけません。また従来と同じことをやっていても茹でガエルになるだけです。まずは見える化。何がどこでどれだけどんな手法でどれだけのコストでどのような流通路を経て消費者に届いているのか、産業構造を俯瞰的に見えるようにし、かつ時間軸で分析する必要があると思っています。

日本の食品市場は80兆円。原材料は生産者が作った10兆円(輸入も数兆円ありますが)。この差の内の10兆円でも生産者側が関与できたら、単純計算で農業収入は2倍になります、とは言いませんが、そうしたことを実現するためには、産業構造を変えなければできない。生産者が原材料を供給だけではなく、生産者が食品産業全般に関与できるような構造にしていかなければなりません。繋ぐにはやはり農協の協力が不可欠です。農協の需要サイドとの関与を強め、農協に儲けて頂き生産者に十分に配当して頂く為に国は何ができるか。そもそも論を考えなければなりません。場合によっては農林中金にお手伝い頂き、農協と、流通やリテールや輸出や海外市場構築などを得意とする企業、つまり食品産業との資本提携戦略も視野に入れておく必要があると思います。

生産者にはこれまで同様美味しい品物を作ることに専念頂くことに大きな変わりは有りません(これは大原則です)。ただ、生産者同士がどうやって協力し、その品物を誰がどのように買い、海外も含めて誰にどのように売るのかは変わる必要があります。大きなチャンスでもあります。他業種との連携による商流開拓や標準化なども進めなければなりません。多面的機能を無視したやり方では地域衰退に直結しますが、そうじゃないバランスの取れた政策を推進しつつ新農政の詰めをやらなければなりません。

輸出も真剣に拡大をしなければなりません。10年くらい前は4000億円くらいだった輸出がここ急激に伸びており7000億円くらいに増えています。目標の1兆円も達成できる勢いです。問題は、輸出したら農家が単純に儲けると言うことにはならないということ。つまり国内と同じ様な構図のままのことを海外市場でもやったらボリュームが増えるだけで同じ結果になるということ。だからバリューチェーンごと海外市場に作らなければならない。もちろんマーケティングが大前提になる。

海外市場開拓の場合、しがらみが無い分だけ国内産業構造の改革より簡単だと言えます。もちろん海外であるための困難(相手国独自の規制やら言葉やしきたり文化の違いなどのコスト)もあります。一方で、輸出量の拡大によって国内供給量が減り価格が上昇するということも一部起きているという報告も聞きます。相当いろんなことを考えながら政策を作り上げる必要があるはずです。

いずれにせよ、既に見えている輸出の障壁(相手国の規制や国内HACCP認定の推進など)の改善を徹底的に進めることは当然です。

良い政策、良いアイディアを出していきたいと思っています。

3万円は正しかったのかー社会保障制度と経済政策の視点から

低所得層高齢者に3万円を単発で給付する措置が話題になりましたが、それについて、結論から書くと、経済政策としては全然ありですが、社会保障政策としては全然なし、であって、今となれば、問題は、政治メッセージとして正しいアナウンスだったのか、のみが反省として残ると思っています。で、なぜ改めてこのことを書き始めたのかと言うと、3万円の臨時給付金の是非を論じたいわけではなく、中長期展望としての経済動向と社会保障制度を、消費と個人金融資産いう観点から、心配しているからであって、この臨時給付金をトリガーに書き残しておきたいと思ったからに他なりません。

まずは経済的側面:確かに高齢者無職世帯の消費は2014年は減ったが・・・。

経済は、ざっくり言えば消費と投資と政府支出と国際収支から成り立っています。で、消費のGDPに対する寄与度は全体の6割くらいですので、消費の景気への影響は太宗を占めることになります。つまり、今景気は悪くないものの力強くないのは消費が弱いからに他なりません。で、現在の消費は230兆円位ですが、その内、高齢者世帯の最終消費支出額は115兆円を超え、全世帯のそれの半分を占めるに至ってます。つまり、高齢者層の消費は景気の動向に大きく影響するということです。

で、当然ですが、その世帯の消費は年金の給付額に大きく影響します。少し詳しく言えば、まずどの位の世帯が年金に依存しているかというと、高齢者世帯が総世帯の半分であって、さらにその内7割が無職世帯。つまり全世帯の50%×70%=35%位が年金に依存しています。この世帯の消費は2014年は1.6%も減りました。勤労者世帯(全世帯の48%)の消費が0.1%増加したのに比べれた明らかな減少で、この高齢者無職世帯が全体の消費の1%くらいを押し下げている、つまり3兆円くらいは押し下げている計算です。とすれば、先ほど述べたように消費がGDPの6割くらいを担っているので、高齢者無職世帯の消費低下がGDPを0.6%くらい押し下げていることになります。

なぜこの世帯の消費が減ったかというと2014年は公的年金支給額が減ったから

なぜ支給額が減ったかと言えば、年金給付が2014年前後に限って言えば過去の水準との比較で減ったからに他なりません。少し詳しく述べると、デフレが続いていた日本では、物価の変動に合わせて年金支給額もどんどん減ってきたはずが、実は10年位に亘って、政治的配慮から下げずに来ました。ところが民主党政権時代、自民党と一緒にですが、このままでは年金制度は持たないということになり、本来の物価に合わせた支給額にするために、一気に給付額を下げたのが2014年あたりです。より具体的に言えば、たとえ2000年の支給額は月額67000円でしたが、デフレが続き、2013年の本来の支給額は63400円位に減額されていなければならなかったのが、政治配慮で65500円にキープされていた。本来の支給額と約2.5%のギャップがあったわけです。それを2012年の法改正で、スケジュール的には2013年10月に1%減額、翌2014年4月に更に1%、2015年4月から更に0.5%の減額で調整することになった。結果として2014年には64400円に減額されました。お気づきの通り、消費が1.6%減ったのはこのことによる。

一方、2015年はデフレ脱却傾向で65008円に増額されました。後述する特殊減額とマクロ経済スライドをかけてもです。本来の百年安心年金の給付額に戻ったわけです。

※参考までに年金給付額というのはどのように計算しているかというと、2015年を例にとれば、前年の消費者物価(2.7%)と賃金上昇率(2.3%)の低い方を基準にしてマクロ経済スライドのスライド調整率0.9%を減じ、2015年は先ほど申し上げた特殊運用で更に0.5%減額措置をとったので、結局、2.3-0.9-0.5=0.9%が増額分。仮に2015年の物価上昇率と賃金上昇率の低い方が1%だったとしたら、2016年の年金支給額は65008×(1+(0.01-0.009))=65073円となります。

経済政策としての3万円は妥当

以上みてきたように、2013年後半から2017年前半は高齢者無職世帯は年金の減額措置や消費税増税などで負担が増えています。具体的にどれだけ負担になっているかというと、負担の計算の仕方にもよりますが、前年比変化分を負担としてアバウトな計算をすれば、2013年は10月から2014年4月までは1%減額なので、負担は約3千円(65000×0.01×5)。2014年4月から2015年4月も1%なので、約8千円(65000×0.01×12)。2015年4月からは0.5%減額の上にマクロ経済スライドが導入されたのでスライド分0.9%減額されるので、約1万円(65000×(0.005+0.009)×12)になります。今年2016年は変化なしで、2017年は消費税増税分があるので(スライド調整率は変化なし)、負担は約1.5万円(65000×0.02×12)。その後は負担は変わらない。こう考えると、この年金調整措置がある特殊な期間の高齢者無職世帯の負担は約3.5万円(4年で)になるので、経済政策として3万円をこの高齢者無職世帯に給付するのは、消費下支え政策としては全く理にかなったものとも言えます(これはあくまで私個人の分析に基づくもので政府が理由にしているものではありません)。

つまり一言で言えば、3万円の臨時給付措置は、消費税増税とともにマクロ経済スライド導入を含めた年金調整過渡期において、高齢者世帯の一過性の年金収入減少による消費減少を緩和するための措置、という観点では全く正しいことになります。

ちなみに年金支給額は今後どうなるのか

ここで少し脱線しますが、この計算にお付き合いいただいた方であればお分かりの通り、デフレ脱却によってスライド調整率0.9%以上の物価上昇(もしくは賃金上昇率)となれば、支給額が増額されていきます。日銀目標の2%であれば約1%ずつ上昇ということになります。そしてさらに、このスライド調整率というのは5年ごとに見直されることになっていますが、何によって決定されるのかというと、現役の被保険者の減少分と平均余命の伸びに基いています。現行の0.9%というのは、現役が0.6%ずつ減っているのと余命が0.3%伸びているので0.9。今後は高齢者雇用が増加すればスライド調整率は低くできる可能性もありますが、当面同水準が続くものと思います。

ただ、年金支給額増加しても今後消費は必ずしも増えない

支給額が増えたからと言って必ずしもこの高齢者無職世帯の最終消費支出が増えるとは限りません。なぜならば、高齢者世帯の内、最も人口の多いのは団塊世代であって現在60歳後半。消費が多いのは60代の世帯であって、今後団塊世代が70代に突入すれば消費は減少していくと思われるからです。ですから、消費の動向は、より詳細な分析をしなければなりません。この点は他に譲るとして、消費の動向分析のためには年金支給額の他に金融資産も見るべきです。

社会保障政策としての3万円

ここで個人金融資産を見てみたいと思います。国民の個人金融資産は総額1600兆円とも言われていますが、60歳以上が68%以上を保有しているという統計があります。更に衝撃的なのが、この数値は負債を勘案しておらず、こうした住宅ローンや教育ローンなどの個人負債のほとんどは勤労世帯が背負っているので、それを勘案すると、純貯蓄の90%以上を60歳以上が保有しているという統計です。

つまり消費を僅かながらでも伸ばしている勤労世帯からも消費税を国が吸い上げ、純貯蓄の90%を保有する高齢者世帯に給付すると言う構図が浮かび上がってきます。3万円の臨時給付措置は低所得の高齢者世帯だから問題ないとは言えません。単純な例で言えば、1億円の金融資産を保有しながら6万円の年金暮らしの人がいないわけではないからです。もちろん逆に高齢者の相対的貧困率は18%ですので、必要とする人に届くのは間違いありませんが、必要ではない人にも届く。そして30歳未満の相対貧困率が28%であることも見逃せません。こう見れば社会保障政策として見てしまえば、お金に本当に困っている子育て世帯にもお届けしなければ理屈はあわず、正しい方策とは言えません。これは少子化対策や地方創生にも合致しない。

つまり、臨時給付金をやるのであれば、政治的メッセージとしては、政府が言っている子育て世帯を含む勤労世帯対策もやってますよというアピールが欠かせないのは論を俟ちませんが(これは政府もアナウンスしています)、金融資産をもつ比較的豊かな高齢者世帯に、その子供達である勤労世帯のために如何にお金を使ってもらうかという政策(リバースモーゲージや教育資金贈与税減税拡充などなど)をセットにすべきであったと思います。

念のために言えば、高齢者世帯に個人金融資産が偏ることが直ちに悪いわけではありません。それは、若いうちは養育や生活基盤確立の為に働き借金して懸命に生きるわけで、年を取ればそれを取り崩して生きる、という構図は宿命だからです。今の問題は、これがあまりにいびつになってしまったと言うことです。

総じていえば、何が起きているかと言えば、勤労者世帯、特に結婚出産適齢期は極端に負担が大きく、高齢者は老後20年以上を睨んで戦々恐々として消費できない。消費ができないから景気回復が遅延。すると勤労世帯の賃金が上昇しない。上昇しないから子供が増えない。増えないから、勤労世帯が減る一方で、景気が回らない、という構図です。

ここから脱却するには、働ける人はいつまででも働ける環境を創り負担の一部を担って頂き、さらにマイナンバー制度を昇華させ、社会保障の運用を適正化して、困ったふりをする人、本当は困っていない人には遠慮いただき、本当に困っている人に、より手を差し伸べられるような制度を改めて組み立てる必要があると考えます。

少し長くなりすぎましたが・・・。