経済なくして安保なし

以前にも触れた話題ですが、日本が必要としている焦眉の急を告ぐ政策課題は実に多岐に亘っていますが、それを全て同時並行的に進めるのは財政や国際政治上の制約などで困難です。ならば、それらを目的と手段に分けて、優先順位を定め、政治的な判断で、主軸を決めなければならないと思っています。

で、私はその主軸は絶対に経済だと主張きました。それは経済が全ての政策課題に正相関をもつからです(経済がよくなって悪くなることはない)。例えば、安保も経済と大きな相関をもっていると考えるからです。本日、日経の伊那さんが同趣旨のことを紙面上でお書きになっていらっしゃいましたので、大きくうなずきながら拝読させていただきました。

バブル後から現在までの間、日本の経済はほとんど成長していない一方で、世界は名目GDPで平均2倍程度成長しています。中国は8倍、ロシアは5倍、アメリカや韓国は2倍。2倍は成長しなければならないのに日本は1倍です。

アメリカと併せて世界の総生産の半分を占める勢いだった日本の現在のシェアは半分の9%。購買力平価換算でいえば5〜6%という低迷ぶりです。手足を出せない(軍隊)と思われていても、口は出せた(経済)のがこれまでの日本。

今や、手足も口もだせなくなれば、尖閣・竹島・北方領土、周辺諸国がこぞって取りに来てもおかしくはありません。もちろん鳩山元首相の言動に大きな要因があり、少なくともきっかけになったことは間違いありませんが、経済なくして安保なし、と伊那さんがおっしゃっている通り、経済を主軸に真剣に考えなければなりません。

一己の労を軽んずるにあらざるよりは

一己の労を軽んずるにあらざるよりは
 いずくんぞ兆民の安きを致すを得ん

とある小学校の二年生で毎日朗唱する言葉だそうです。

場所は山口県萩市の明倫小学校。ご想像の通り、吉田松陰の出生地であり、上記の言葉も松陰が27歳のときに読み松下村塾に掲げられたものだとか。

ちょっとした世話もできないようであれば一国を語るな、とでも訳しておきます。

素晴らしい学問態度ではありませんか。

幼子は誰が責任を持って育てるのか

少し旧聞に属しますが、中国の地方都市でのとんでもない映像が世界中を駆け巡りました。車に轢かれ、もがき苦しんでいる子供の横を、何人もの通行人が見てみぬふりをして通り過ぎる映像です。

今、保育制度の行く末を考えたとき、どうしてもこの映像が私の頭に浮かんできてしまいます。

権利は不断の努力によって得られる、とは、丸山真男を引用するまでも無く、憲法に規定されたものですが、幼児はそうした権利の主張が出来ません。だからこそ、国家が責任をもって幼児を守っていかなければならないはずです。だからこそ、子どもの権利条約という国際法がある。保育制度の原点はここにあるはずです。

幼児は誰が責任をもって育てるのか。親です。当たり前です。それが困難であれば地域が育てる。近所のおばちゃんがちょっと預かってあげるわと言ってあげられる。昔あったような美しい話です。できればそんな昔の社会に戻したい。昔はお寺で子どもを預かっていたそうです。だから、現在の保育施設がお寺関係者によって運営されているのが多いのもそうした理由かもしれません。

しかし、社会情勢が必ずしもそれを許していない。例えばシングルマザーのお母さん。働かなければ食わしてやれない。あるいは既婚者でも給与がなかなか上がらない。共働きでなければ生活が維持できない。将来真っ当な教育を子どもたちに提供できない。だとすれば保育所にお世話をお願いせざるを得ない。

であるならば、自助・共助を基本に考えるべきであるけれど、保育の制度は国家がきちんと責任を持つべきは当然だと思います。具体的には所管する市町村に保育を提供する義務を課すことです。財政的に困難だからという理由で義務を放棄する政策は保育には馴染みません。財政を語るのであれば全体のバランスを今一度見直す必要があると考えます。

例えば、十分な資産も所得もあるのに年金を受給している人の隣の家で、外にあっては朝から晩まで働き、内にあっては家事に翻弄される人がいる国家は、まさに先ほどの中国の話と同じです。これでは将来心の豊かな子どもが育つはずも無く、また少子化に歯止めがかかるはずもありません。

自民政権下で実施された認定子ども園制度も然りですが、民主政権になってそれを遥かに加速する総合子ども園制度は、まさにおカネの切り口だけで議論しているとしか思えません。もちろん総合子ども園の趣旨は、働かなければならないのに子どもを預ける場所がない人に受け皿を作るという看板はあると思います。しかし、その手段はというと公費の効率的運用と称して、国や市町村の保育提供義務の放棄(直接契約)、安易な企業参入、誤った地方分権概念、幼稚園と保育園の混同、要件緩和による保育受益権の低下など、非常に不安になる規制緩和が盛り込まれています。

一度しっかりと勉強したいと思っていますが、直接契約になれば市町村は義務を果たす必要がなくなり保育園が入所拒否すれば子どもが路頭に迷う。保育料を滞納したら、市町村に保育提供義務がないので追い出される。競争原理を導入すればただでさえ低い給与体系がますます低下し、専門性が必要な保育士の質が低下し、運営をカバーするために保育料が上がる。すると見かけの待機児童は減るけど本当に保育を必要としている子どもは増える、など、まだまだ書きたいですが無限にありそうなので控えておきますが、問題は多岐にわたります。

待機児童を解消するのであれば、単純に保育所を都市部に増やしてはどうなのか。総合子ども園制度のように全体システムを変えてしまえば、待機児童の少ない香川などは単に予算が減らされるだけで何のメリットもない。都市部におカネが集中するだけの結果に終わってしまいます。

先月の国会の与野党協議の中で、民主党は、この総合子ども園創設を撤回・大幅修正することにしました。とはいえ、問題は残っているとのこと。

いずれにせよ妙な制度改正は阻止すべきであると思いますし、それ以前の根本問題を解決していかなければなりません。そもそも少子化少子化と言って子どもが減っているのに、しかも20万人弱の保育所定員増強をやっても、なぜ待機児童が減らないのか。ワークスタイルやライフスタイルの変化の問題もあるかもしれませんが、生活が苦しいからです。実質賃金を上げるべく、景気対策をしっかりとやらなければなりません。

政権公約は絶対的なものか

本日、山が動く予定らしいので、その日の朝にあたって一筆啓上申し上げたいと思います。

政権公約は絶対的なものか。

政権公約が修正されたことは民主党に限らず過去に何度かあります。ただ、過去の自民政権の場合は、なぜ修正することになったのかについて、程度の差はあれ説明の努力はありました。説明してボコボコにされることが通常であったと記憶しています。しかし、あえて説明するのは、経験からくる「これではもたん」という直感による政治家としての素直な行動だと理解しています。

野田首相の政治を愚直に前に進めるという手法は嫌いではありません。ただ、ストイック過ぎはしませんか。私はこういった手法を見ると幕末の新撰組をいつも思い出します。一途でカッコイイ。だけど、客観的にみれば、やっていることが時代に必ずしもマッチしていない。

第一、さきほど申し上げた「これでは政治がもたん」と思う感覚が欠如しているのか、逆に言えば「政治がもたなくてもこれさえやれればいい」と思うのか、なぜ先んじてやるべきことが多くあるのに消費増税なのかを、国民に十分に説明しているとは到底思えません。大多数の国民が納得いかないのでは、それを代表する国会議員に納得いかない人がいても不思議ではありません。逆も真なり。国会議員に説明し説得できていないのに国民が納得するはずがありません。

1.政権公約の修正を公表し、謝罪し、説明すべきです。
2.政策理念を丁寧に説明すべきです。

これが政治の地盤沈下を防ぐ唯一の方法です(もう遅いか・・・)。このままだと、政治というものは、選挙のためには、有る事、無い事何でも言う集団だと思われてもしかたありません。これは民主党だけの問題ではなく、政治全般の地盤沈下に繋がる問題です。

あくまで政党は理念と政策を語るべきです。

もちろん、それを実現するために裏ですったもんだの駆け引きがあってしかるべきだとは思います。なければ絶対にうそですし、簡単にできるのであれば官僚でもできます。表に立っては理念と政策を語り、裏に入っては実現に汗をかき、醜い部分が衆目に晒されたときは、潰れようが何しようが正々堂々と理念と政策を語るべきだと思っています。

ちなみに、政権公約を守らなかったからけしからん、と言って党を出て行くグループは如何なものか。第一の問題は、そもそもその政権公約が達成困難なものであることが明るみになっているではないか。第二に、政権公約維持に秘策があるとしても党内で主張が通るようにがんばるべきなのではないか。一度選んだことを、コロコロと変えるのは少なくとも私は是としません。自分の立場が悪くなろうが一度選択した道は貫き通したいものです。それが政治の信頼に繋がってくるものだと確信しています。

北極海航路とロシアの戦略

北方領土もシーレーンも北極海航路を視野にいれるべし

先日、海事関係の知人から頂いた資料に目を通していたところ、少し旧聞に属しますが、2009年9月11日、米国ニューヨークタイムズ紙の科学面に北極海航路の記事が掲載されていたのを思い出しました。同紙曰く、欧州からスエズ運河を通って話題のソマリア沖やマラッカ海峡を通ってアジアを結ぶ旧来のシーレーンが約12894マイル。それに比べて北極海を通れば8452マイルで済むと。同様に上海まで12107マイルに比べて8297マイル。ついでに言えば、欧州からパナマ運河を通ってカナダ・バンクーバまでが10262マイルに対して8038マイル。いずれにせよ、アジア圏の場合、4割もの航路短縮が可能という記事です。

スエズ=マラッカ航路の場合、何度も触れているように海賊リスクがある。一方で、北海近辺には、世界の未確認資源量の25%(サウジの埋蔵量の4割)というエネルギー資源がある。それに、今後のアジア市場の成長を考えれば、ええやんか、となるのが世の常です。

ロシアは冷戦期間中までは北極海航路を積極的に開発していました。昨年「ウラジ・ボストーク(東方征服)」と題した記事でも触れましたが、軍事的に見ればロシアとしては他国の干渉を受けずに太平洋にでるルートを確保しておいたほうが有利だからです。例えば日露戦争の際に秋山真之が戦った世界最強のバルチック艦隊は、スエズ=マラッカよりも遠い喜望峰回帰ルートを使っていますが、ほとんど移動だけで兵士の士気は落ちていたとされています。

ところが冷戦後はすっかり開発を止めていました。必要なくなったからですが、ところが、私がこの記事を書いた半年後の2011年9月に、プーチン首相(当事)は、北極海航路をスエズルートに比肩する世界の大動脈に発展させる方針を示し、開発を指示しています。

背景には地球温暖化の影響で北極の解氷が薄く小さくなっていることで、航行可能期間が増えたことで、ローコストで実現できる見込みが徐々に高まってきたからです。

問題は、砕氷商用船の技術が少ない、利用できる港湾が少ない上、整備がされていないこと、行政実務上ロシア政府とちゃんとした交渉がまとまっていないこと、などです。

しかしここ最近になって北極海航路関係のガイドラインが発表されるなど議論が活発になっているようです。

そう考えると、北方領土4島はロシアにとって、少しは意味のある島に思えます。先の「ウラジ・ボストーク」では、ロシアにとっても実質的な商用的な利用価値は少ないのではないかと指摘しましたが、少し考え直さざるをえないのかもしれません。

そして、エネルギーや商用貿易なども、旧来のシーレーンのみならずこうした北極海航路も視野に入れて考えるべきです。

説を変ずるはよし、節を変ずるなかれ

NHKドラマ「坂の上の雲」(司馬遼太郎)にも登場する正岡子規は俳句の世界に革命をもたらした俳人として有名ですが、正岡子規を財政的に支援し続けたのは、新聞社を創業し主宰したジャーナリストの陸羯南(くがかつなん)です。お蔭で陸は俳句の世界では大変尊敬されているそうですが、主張の清さや一貫性については後代の進歩的思想家である丸山真男も、主義主張が正反対であるにもかかわらず陸を高く評価しています。

そして、その陸と並び称される同時代の人物に、徳富蘇峰(とくとみそほう)がいます。徳富蘇峰はもともと平民主義でしたが、三国干渉に際し政府の対応に激怒し、以降、国粋拡張主義に転じていき、政府の対応を弱腰外交と批判しつづけます。ところがその後に内閣参与を任命され、政府批判を極端に弱めます。ポーツマス講和条約締結後に小村寿太郎全権が、諸外国からは絶賛されながらも、国内からは弱腰と見られ、それを批判もできない徳富蘇峰はもっと大いなる批判を浴び、主宰していた新聞の不買運動や日比谷焼き討ち事件で狙われたりしています。

この徳富蘇峰の急激な方向転換は当事しばしば「変節」扱いされました。タイトルの「説を変ずるはよし、節を変ずるなかれ」という言葉は、田岡嶺雲が徳富蘇峰に向けて放ったものです。

保守主義であろうが社会主義であろうが、主張には清さや一貫性を保ちたいですし、説が多少状況によって変わろうとも節はコロコロ変えたくないものです。

今日は、野田首相が大飯原発の再稼動に向けた方針を打ち出しました。私は野田総理はこの部分については(正確には知る由もありませんが)節は一貫していたのではないかと思っています。

荻生徂徠と赤穂浪士の政治学

命を懸ける。日本人にとっては誠に清清しさも感じさせる言葉です。「懸命な姿」などととも使われますが、いよいよ素敵な言葉です。そして野田総理も消費税増税に(政治)生命と賭すと言い切って法案成立にまっしぐらです。問題2つ。一つは政策の中身の話で、なぜ今消費税なのだという問題ですが、これは何度も指摘していますので、今回はもう一つの政治姿勢の問題、つまり、消費税というスケールの課題で、政治空白をこれ以上作ることは許されない、という点について触れたいと思います。

ところで本題に入る前に、過日、お世話になっている方にお誘いいただいて夕食をご一緒させていただいておりましたら、床の間に掛け軸。例によって、にょろにょろ文字なので何を書いているか分からなかったのですが、ご亭主に伺いましたところ、「茂松清泉山中不乏」と。

曰く、(食べるべき)茂った松(の実)や(飲むべき)清らかな泉(の水)は(私が隠居している)山の中には豊富にあります(から他には何もいりません)、という意味だとのこと。心の豊かさのあるべき姿を説いた落ち着く句だなと感嘆するばかりですが、私が興味をもったのは、そのお軸が荻生徂徠のものだとおっしゃったことです。

荻生徂徠と言えば江戸時代の儒教の御用学者で大思想家。将軍のご意見番を長く務めた方です。今で言えば、大学教授をやっていた首相補佐官のようなものでしょうか。つまり政治の中枢に長らくいた人物。パワーゲームとリアリズムに翻弄される毎日を過ごしていたに違いありませんが、そういう人物が、こうした清らかな句を読むというのは私には驚きでした。

そしてその荻生徂徠と言えば、命を懸けて家の面目を保った赤穂浪士に、切腹の裁きを、と主張した急先鋒でも有名で、”徂徠豆腐”という落語の噺にもなっています。当時、江戸市中では、かわいそうだから無罪放免にしてやれ、という声が多かった。それでも徂徠が主張を曲げなかったのはなぜか。それは、政治には情と法が必要であり、切腹は、浪士にとって武士としての最大の情けであろうし、あだ討ちがご法度であった当事としては、法に則った裁きでもあるし、吉良家としても面目が保てるから。

お蔭で市中での荻生徂徠の評判はがた落ちだったそうですが、もし逆の裁きをしていたら、公の秩序は崩れ、武士としての面目は失われ、両家に禍根を残すことになったはず。逆に言えば、大石内蔵助が討ち入り直後に直に浅野の墓前で切腹しなかったのは、勝手に切腹せず、公命による切腹を待つことにより、浪士の間に不満が多少でたとしても、赤穂の面子を保ちながら、吉良家の顔を立て、全て一件落着禍根を断つ結論を見ていたからではないか。

これが政治というものだと思います。

改めて、消費税。命を懸けるスケールの話ではないと思いますが(国家目標が消費税増税なんという国は聞いたことがありません)、懸けるのであれば、禍根を残して政治が今以上に前進しなくなるような状況はつくらないで頂きたいと思っています。そもそも現状の「討ち入り」は、消費税ではないのですから。

シビリアンコントロール

いろいろと物議を醸し出すした田中防衛大臣の後任に、拓殖大学大学院教授の森本先生が就任することになったとのこと。

森本先生の見識と世界観については全く異論がないどころか論壇人としては尊敬申し上げていますが、防衛大臣は自衛隊のトップ。シビリアンコントロール、文民統制がもとめられます。文民とは政治と言う意味です。軍人でなければいいという問題ではありません。

政治家は選挙で国民から付託を受けているから何かあったときに責任が取れるロジックになっています(政治家だって責任とって無いじゃないかという批判は次元の違う話です)。政治家でない民間人は何かあったときに責任を取るといっても不可能ではないけど難しい。もちろん森本先生が大臣になっても問題を起こすとは到底思えません。しかし、そうした前例を作ってしまっていることが大きな問題なのだと考えます。

その意味で野田総理がその認識をしているのか。そしてなぜ森本先生でなければいけなかったのか意味が分かりません。逆に言えば消費税だけ通れば外交も安保などのその他の事項はどうでもいいと感じてしまいます。一方で、受けた方も、なぜシビリアンコントロールの概念を十分すぎるほど知っていて受けたのか。ただただ残念です。

とにかく消費税しか目に入っていないのは甚だ恐ろしいと感じています。

生活保護、不正受給の罰則厳罰化

某有名人の生活保護不正受給事件に端を発し、暴いた国会議員への批判やら応援やら、はたまた批判への批判やら応援やらで大論争になっています。

政治がやるべきは、不正を許してしまっている制度の改善です。政治が個人名を暴露する必要性はありません。もし問題を訴えるのであれば、政治家としては、とある年収何千万もあるような超有名タレントの親族が不正に受給しているケースがある、と言えばすむ話だと思います。

ただ、制度の改善の話をすれば、不正が明るみになった場合の罰則を厳罰化しないければならないと以前から考えています。昔、飲酒運転が蔓延って改善されませんでしたが、とある事件をきっかけに罰則が厳罰化された。そうしたら、飲酒運転が一気に減りました(まだいるのが残念ですが)。

そういう意味では、例えば、罰則ルールとして行政が氏名を公表することにしてもいい、というかすべきです。例えば飲食店が食中毒を起こしたら公表される制度になっています。公正取引に違反しても公表されます。不正をやったら、どえらいペナルティがありますよ、という制度にしなければならない。今は少なくとも不正受給者にとっては貰い得な制度です。

そしてもう1つ。話がもどりますが、個人名を暴露した議員に対する批判について。仮に暴露した相手が、大手企業の社長だったら、仮に資産家であったら、政治家であったら、弁護士であったら、仮に不正受給が人気のない人間であったら、そんな批判が噴出するだろうか、と考えさせられます。マスコミはもっと考えて報道をしてほしいものです。

数年前、フランス人記者に誘われ、アジア・イスラミック・ジャーナリスト会議なるものにオブザーバで参加したことがあります。会議の内容は感動的でした。曰く、「我々プレス関係者がイスラエルとアラブを往復し、お互いをけしかけるような報道や取材をし、報道の結果、実際の紛争になり、多くの人の血が流された。そんな側面が多々ある。反省しなければならない」。膝を打ちました。

そして悪事を悪事として暴く前に立法府のやるべきことは制度の改善です。

武装ガードを認可せよ

再度海賊ネタで恐縮ですが、益々気になるのでもう少し突っ込んで考えたいと思います。

2009年3月から、海上警備行動というちょっと無理やり感のある法的根拠で始まったアデン湾・ソマリア沖での民間商船の海上自衛隊による警護活動。今では、しっかりとした実効性のある海賊対策活動ができる根拠法も成立し、昨年は自衛隊では初めての海外基地をソマリア隣国ジプチに建設し、護衛艦2隻、哨戒機2機、総勢600人弱の自衛官が活動しています。

海上自衛隊の海賊対策関係のページ
http://www.mod.go.jp/msdf/formal/operation/pirates.html

で、何が問題か。

数です。実効性です。今年1月に指摘したばかりですが、海賊が本当に多い。
http://www.icc-ccs.org/piracy-reporting-centre/piracynewsafigures

日本関係船舶は2千を超えています。自衛隊の警護を受けたい日本商船は下記の国交省対策室に事前登録することになっているようです(大掛かりな警護申請がネット登録とは驚きですが)。
http://www.mlit.go.jp/maritime/gaikoh/pirate/index.html

政府もこの海賊対策活動を長期間続ける構えのようです。しかし2隻の護衛艦と2機のP3Cでは限界があります。

各商船が武装ガードを雇って自衛できないのだろうか。

実は海外海運国の韓国、デンマーク、ノルウェイ、シンガポールはできます。その他イギリス・ドイツなども認可すると目されています。

日本籍船の自国の領土ですから、現状で武装ガードをやると銃刀法違反で逮捕される・・・?、そういうばかばかしい話が出る前に、法整備をおこなわなければならないと考えます。

日本船籍だけ無防備にならざるを得ない状況が近い将来くるかもしれません。それだけは避けなければなりません。