自衛隊PKO活動時の武器使用基準を緩和せよ

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カンボジアの皇室の方が、地元のとあるライブハウスにお越しになるので来ませんか、という軽いお誘いを友人から頂き、良く分からないながらも、その友人のバンドの音楽は聴けるはずだからとお邪魔したところ、いらっしゃいました。非常に気さくな方で、県内で働いておられるカンボジア出身の若い方々や日本人のどなたにも親しく接しておられました。両国にとって有意義なご活動を心から願う次第です。

さて、カンボジアといえば内戦。改めて戦争反対と平和を誓う次第ですが、カンボジアといえば、陸自が初めて海外派遣された国で、未だに私は釈然としないものを感じています。

なぜか。

自衛隊が海外活動を行うには、国際的常識から余りにかけ離れた存在だからです。屈強精鋭の自衛官と言えども、狙われ撃たれない限り撃てない。警察官と同じルールで働いているんです。正当防衛です。何が起こるかと言えば、目の前で民間人が襲撃されていても反撃できない。指を加えて待つしかない。過去にも例が多くありました。現場自衛官の苦しく絶妙な判断が功を奏してきたというだけで立法は全くダメ男君です(読売クオータリーNo.20/2012冬号に詳しい)。

カンボジアでも妙なことが起きました。例えば、現代の軍隊はどの国のものだろうと交戦規定(ROE: Rule of Engagement)を定めています。簡単に言えば、どういう状況でどんな
兵器がどのように使えるのかを定めたものですが、派遣直後にUNTACから各国共通のROEが配布された。

当たり前ですが、陸自隊長が隊員に世界標準のROEを配れば即憲法違反に繋がる。結局隊長は、「私が撃つまで絶対に撃つな」と摩り替えた。撃てと言えば組織行動になり正当防衛問題どころか憲法問題になるかもしれない。したがって、隊長は、撃てと命令せずとも撃てる即席ROEをうまく作った(撃てと命令すると憲法上の武力の行使ととられる可能性がある)。

また、1後年、民間人と文民警察官がポルポト派の手によって殺害される事件があり、国会では、民間人警護をPKO活動として認めるか否かの議論が起きました。当時の内閣では、警護活動をPKO活動の任務として認めると、憲法上許容できない武器の使用に該当するとしてPKO法に盛り込みませんでした。ただ、民間人殺害が自衛隊の目の前で起きるという最悪事態を避けるために、政府は防衛庁に何が出来るか検討するよう指示した。

結局出てきたのは、交戦状態になった場所には、隊員が自ら進んで突入し、人間の盾になるという作戦でした。正当防衛のルールで反撃できるからですが、これはむちゃくちゃです。そもそも正当防衛は、同程度の武器しか認められない。過剰防衛というシステムがあるからです。しかし戦闘状態で、いちいち撃ってきたものによって武器を変えていたら反撃になりません。

こんなことはほかでも沢山あります。ルワンダ。日本の医療NGOが武装勢力に襲撃され孤立した。連絡を受けた自衛隊は隊長判断のもと機関銃装備で救助に赴き、解放できた。しかし、前述の通りPKO法に民間人救出任務の規定はありません。したがって指揮官は、「医療品搬送」を任務目的とした報告をしています。

爆破事件のあった東ティモールでも、日本料理店が襲撃され自衛隊が救助に行っていますが、同様に、人員輸送と報告されています。

ゴラン高原では、他国から共同作戦を打診されても全て断っている状況だそうです。

こんな国、誰が信用するのでしょうか。

今、野田政権でもPKO法改正が議論されています。外務省は前向き。防衛省は後ろ向きとの報道もありますが、国際協調路線の中で異質の行動は信用力を下げるだけです。各国軍隊の指揮官クラスは日本の憲法上の制約に十分過ぎるほどの理解を示していただいていますが、隊員は違う。明らかに冷めた目で見ています。それもそのはず、自らは血を流しても民間人救出をするのに、協力を要請したら断る国があるのですから。

武器使用基準は緩和すべきです。使用できないことになっていることこそが問題なのですから(抑止力もない)。そして憲法上の制約から、パッチワークのような有事関連法を続けるのではなく、一刻も早く正常な真っ当な当たり前の国にするために、憲法改正は必要だと考えます。

サイトリニューアルしました

この度、大野敬太郎オフィシャルサイトはリニューアルを行いました。

「シンプルで、より分かりやすく」
をコンセプトに、様々な情報を発信していきます。

また、同時にbloggerで展開しておりましたブログ『新しい鼓動』もこのサイトに統合いたしました。このサイトから全ての情報にアクセス出来るようにしておりますので、ゆっくりとこのサイトをご覧下さいませ。

善然庵閑話:初めてのお茶会でのこと

  政治的主張ではなく、書くほどの明確な目的も無く、それでいながら漠然と残してみたいと思うもの。善然庵閑話(ぜんぜんあかんわ)と題してつづることにしました。遠藤周作の真似事です。少しだけ政治から離れたエッセーという意味です。

さて、第一回目。昨年の話ですが、初めてのお茶会でのこと。

お茶など過去に興味も何にもありませんでしたが、昨年のこと、急に行こうと思い立った第一の理由は、私の慕っている方が、「大野君、お茶はそもそも男が楽しんだもんだよ。復権せねばならん。」と笑いながらおっしゃったこと。笑いながらがミソです。

扇子一本母親から奪い取り、その扇子と自分のセンスだけでお招き頂いた初めてのお茶会に参加したときのこと。大寄せだから大丈夫よ、と母の根拠の無い励ましに、何も考えずに会場へ向う私。母から即席でポイントだけ教えてもらったが、無謀ここに極まるとはこのことか。

案の定やってしまいました。その母の教え第一条(3番目以内には絶対に座るな)を少し破り次客に(断りきれなかった)。しかし、ゲストの役割というのを理解しておらず、お正客が喋り続けるのをみて、「ぺらぺらよく喋る人だな・・・」、「でも結構いろいろ喋ってもいいんだ・・・」、「意外と冗談とか言っても良いんだ・・・」、などと考えているうちに、一瞬会話が途切れた。

こういうとき、会話が切れるとどうも気を遣いすぎて何かしたくなる性格の私。口を開く。「え〜、お外の桜が綺麗ですね。桜の花びらをお茶に煎じて飲むと動悸に効くのをご存知ですか?え〜、なんたって、同期の桜と言いますから・・・はっはっは」。完全に私はオヤジになっていました。その後のことは想像にお任せします。

帰って母親に電話で報告すると大騒ぎ。次客はどうやら喋ってはいけないポジションだということに気づく。時既に遅し。しかし、それ以降はホストの話も結構楽しいですし、勉強になる。例えば先日も掛け軸で実に素敵なものを拝見しました。教えてくれなければ分かりませんから。なので、単純に楽しめるなと思っています。

桜の季節がもう少しできます。今年もお誘い頂くだろうか今から楽しみです。

無知というのは強くなれるものです。

現代版アレキサンドリア図書館の建設を!

決して図書館という箱物を作れといっているわけではありません。

カイロに次ぐエジプト第二の都市、アレキサンドリアは、ご存知アレキサンダー大王が遠征の際に自分の名前を冠した都市として建設されたものでした。紀元前3世紀のこと。それ以来、何世紀もの間、「文明世界の知的都市であり続けた」(フェルマーの最終定理:新潮文庫)。

以降の文明発達に大きな貢献をなしたのは、アレキサンドリアが多くの著名人を輩出したからですが、それは世界最大の図書館があったから。当時は多くの優秀な人材がアレキサンドリアを目指した。図書館という知識の集積と継承の場の大切さとその意味を理解していた人が為政者の中にいたということです。

クレオパトラもその一人。後に恋仲となるカエサルが、ローマから宿敵ポンペイウスを追ってエジプトに遠征した際、アレキサンドリアも戦禍を免れることなく大火災になり、図書館にあった何十万冊が消失したと言われています。

しかしクレオパトラは面白い。カエサルの死後、カエサルの部下で自分に気があったあったマルクス・アントニウスをけしかけて、当時第二の大図書館があったベルガモン(現トルコ近辺)に軍を送らせ、その大図書館何十万冊をすべてアレクサンドリアに移させクレオパトラへのプレゼントとさせた。

知の集積と継承がそれほどまでしても得なければならないと考えていた証左です。

お蔭で現在もアレクサンドリアは美しく発展した町です。凄いことだと思います。

そして、国家の発展、地域の発展の中心はどう考えても人材です。

科学技術に事業仕分け手法が適用されています。それはそれで結構ですが、成果が確実に求められるものと、成果は未知数ですが確実に知識の集積と継承、そしてそれが人材育成に繋がっているもの、に分けて考える必要があります。

後者の場合、成果が上がっているかいないかは本質ではありません。知識が集積され継承され人材が育っているかいないかが問題なのです。このままだと使い勝手の悪い科学技術予算を嫌い、優秀な科学者がどんどんと海外に流出してしまいます。それを無駄と言うならどうぞ。あばれてやるぅ〜。

「社会保障と税の一体改革」と「税と社会保障の一体改革」

税を考える際に、2つの考え方があります。やりたい政策を提案し、その予算を計算し、必要な税率を決める。もう1つが、負担となる税率を決めて、その出来る範囲で政策を実行する。

今議論されている「社会保障と税の一体改革」という言葉ですが、「税と社会保障の一体改革」というのと全然違う。政治の世界にいると、何をしようとしているのかを、こんなところから考えてしまいます(だから政治家にとって言葉は大切という意味でもあります)。前者は制度が先、後者は税が先。

どちらが良いということではなく、バランスの問題です。

成長期以降の日本は前者の制度優先を中心にしてきました。しかし時代に合わなくなりました。こうも人口減少・少子高齢化・社会保障制度問題・不景気が大きな問題となっている時代、やはり後者の税優先の考えの比率を上げていかないと日本は潰れます。

例えば年金。増税もいいけど、負担率とか景気を考えて税率の限界を仮に定めたとします。すると年金は給付も大幅に改善していかないといけない。そうした出口改革をしようとすると、高齢者切捨てじゃないかとのお叱りが必ずある。しかし、高齢者が現状維持しようとするだけで、若者の切捨てがどんどん酷くなる。

親子3世代が住む家庭があったとします。親は十分働いてきて財産もあり収入も多少あるなかで、自治会長に言われ(政府)、息子夫婦から小遣い(年金)を貰っている。息子夫婦は収入の半分を小遣い(税と保険料)として親夫婦に差し出しながら、残りは借金返済に全部まわり、新たな借金で家の修繕や赤ちゃんの面倒を見ている。預貯金は親夫婦が2000万。息子夫婦は200万。これが現実です。バランスが極めてわるく、このままだと、海外からの借金、国債暴落と金利高騰、

確かに自治会長がそういう無理なルールをずっとやってきたのが悪いので、自治会運営費削減や役員削減(議員定数削減や公務員制度改革)をして決定権者が血を流すべきですが、そうしたところで根本原因の除去にはつながりません。悪い悪いだけでは先に進めません。

保険料という概念が既に制度を困難にしている。かけたもんくらい返せと。そりゃ将来の年金だからと無理やり徴集されて、年取ったら財政難でございますから給付できませんと言われれば、騙されたと思うに違いない。しかし、もともと、もし将来年取ったときに給与が無くて老後を生きるのに困ったら支給します、という性格のものであれば、事態は全然ちがったはず。急に変えることは制度の性格からできませんが是非考えるべきです。まず納税者背番号制度を導入して、きちんと捕捉をし、本当に困っている方に暖かい政策をお届けする。これが必要だと思っています。

心の何かを刺激する作品

音楽を聴いて、止め処も無く涙が出てくる、という経験をしたことがあります。約10年前のとある日。フジコ・ヘミングの軌跡を辿ったNHKドキュメンタリーを見たときです。

もともとリストやショパンの曲は好きでしたが、フジコ・ヘミングは1999年のブレークまで知りませんでした。その日、会社から帰宅し何気なくテレビをつけてみたものです。ラ・カンパネラ。そのときまでは知らない人であり、有名かどうかも知らない人、しかもたまたま見たテレビにでていたもので、それをたまたま聴いて涙する。普通はありえません。

鐘の音をモチーフにしたリストの曲で、恐らく皆様も一度は必ず聞いたことがある有名な曲です。私もそれこそなんぼでも聞いたことがある。ところがその日は違いました。止め処も無く理由も無く涙がでるんです。これが感動なんだと思いました。

もちろんフジコ・ヘミングの、苦労を背負って生きてきた人間がもつ独特の雰囲気。全てが哲学的な意味合いを含んでいるように聞こえるぶっきらぼうな発言。これらの複合的な結果がラ・カンパネラの鐘の音にのって聴き手の耳に入ってきたときに、脳の中の感動という妙なスイッチを押すのだと今では理解しています。

以降、絵を見るにせよ陶芸を見るにせよ曲を聴くにせよ、全然分からなくても一つだけ自分の中の何かを刺激するお気に入りを探すようにしています。

昨年末、多度津出身の陶芸家である黌農美重子先生が一水会陶芸部公募展で最高賞の一水会賞を受賞し、先日受賞式典が行われました。作品を生で拝見させていただきました。震災からの復興の願いを託したとのこと。そんな言葉を拝聴したからかもしれませんが、妙に心の中の何かを刺激する作品でした。

いよいよ日本もインフレ目標導入

先日、日本もインフレ目標を導入すべきと指摘したばかりでしたが、昨日、本当に導入されました。少し拍子抜けするくらいでした。

新聞各社は、政治の圧力に屈した、とありますが、どちらかと言えば、アメリカの圧力に屈した感が強い。もちろん、私も、先のブログで、アメリカも導入したのだから、日本も導入すべきなどと軽々に書き込みをしてしまっていますが、いずれにせよ、批判はせずに、好意的に受け容れるべきです。

問題は、先にも同内容で指摘していますが、実体経済です。需要の創出を懸命に努力しなければなりません。5年プラン。

まずは景気対策ではないか

この場で何度か触れている増税について、改めて考えていることを申し上げます。

私は、現時点での増税は反対です。景気が間違いなく悪くなるからです。ただ、消費税増税は財政構造を考えれば引き上げざるを得ない。これまでやってきた景気を理由とした単純な増税先延ばしはもう通用しません。

だとすれば、例えば5年後に焦点を定めて引き上げる。同時に数字の根拠をちゃんと示す。すべてさらけ出す。社会保障制度は今後の時代に合わせて、これこれこういう改革をします、だからこれだけ増税が何%必要なんだと。だから、新制度下では、ずるずると再び増税を求めることは絶対にありません、と言い切る。ここに選挙的な国民騙しは不要です。もう国民も知っているのだから。

そしてポイントは、その5年間に無益な政党間政争(争いのための争い)はやめ、景気回復に専念する。もちろん増税という負担を国民にお願いするのであるから自らの血を流すことを徹底する(省庁無駄削減・議員定数削減)。経済政策について政党間の政策争いは、幾らやったって構わない。政策論争はむしろ国民が望むものだから。金融政策・財政政策の両面から5年間徹底的にできることやる。そして更に、民間にもこの5年の徹底した活力アップに賛同してもらう努力をする。つまり、もうまったなしの5年間、日本人一丸となってがんばろう作戦です。

少し補足します。

景気回復のための財政出動は絶対に必要です。ただ、財政出動は何でもいいというわけではない。やはり戦略性をもった選択と集中が必要だと思っています。戦略性が第一。そしてその次に、リペアの問題。最近の酷い公共事業バッシングで、本当に必要な補修などが止まっている。地方では、老朽化した設備、結構あるのですが、こういうのはしっかりとやらないといけない。将来、私達の子供達が大きくなったときに、回りはひび割れた水道管とビルだらけでは困る。バッシングを受けるべきは、国の補助事業で各地にたった戦略性のないハコ物です。

景気対策の財源は正々堂々と国債発行しかありません。ただ最長5年です。これ以上は絶対に追加発行しない。こうした特措法を作るべきだと思います。

ついでに申し上げたいのは、なぜ震災復興の財源に枠組みの国債を発行しなかったのか。復興債であれば、昔、新幹線をつくったときのように、海外に借りたってよかったんです。それを民主党は一般会計でまるがかえしてしまいました。あっぱれですが、ものすごい予算になりました。だから私は今回の野田総理の一連の増税はもともとは社会保障ではなくて財政逼迫のためのものだったのではないかと勘ぐっています。

金融政策は前々回に触れましたので申し上げませんが、インフレ目標・日銀の国債引き受けなど、過去の例にとらわれず5年間だけやれることをやるべきだと思います。

そして自らの血を流すこと。無駄か無駄でないかは全く判断が難しい。事業仕分けも新しい視点を永田町に導入してくれた意味は大きいのですが、むしろ党内や政府内などでやるよりも、国会の予算委員会のなかに分科会でもつくってしっかりと与野党で議論する方が正しい(最近少しやっていますが)。そして、公務員給与や議員定数削減。本質的にこれらをやったから日本が良くなるというものではありませんが、やらないと国民の理解を得られないと思っています。

一番重要なのが民間や役人を含めて国民全員に5年間がんばってみようじゃないかというメッセージを送れるか否かです。

官民農業ファンドの枠組みを推進しよう!

農家や漁師が、商品の加工・販売・流通など需要開拓的な事業多角化を行った際、それを6次産業化と言うそうです。これは絶対に必要なことだと思っています。なぜならば、前回も申し上げたとおり、一次産業は需要サイドが必要で、生産者も需要側も流通も加工業者も、需要と供給のギャップを如何に埋められるかが勝負だと思っているからです。

しばらく検討が進んでおりました新しい一次産業応援ファンドを創設する関連法案が閣議決定されました。今通常国会にでてきます。うまく行けば今年10月くらいから創設される予定です。

詳しいスキームは下記の通りです。地方行政や金融機関、関連業種の関係者の皆様も是非注意深くウォッチしておいて頂きたい内容です。

農林漁業成長産業化ファンド(仮称)農林省事業
http://www.maff.go.jp/j/budget/2012/pdf/kettei_b020.pdf

簡単に申し上げれば、政府・地方自治体・農協・地元金融・地元企業の共同出資の形をとり、見込みのある事業者に出資をするもの。

民主だ自民だという意見もあるかと思いますが、いいのものはいいと思います。

今後議論をしっかりとウォッチしていきたいと思います。

すごいぞ香川の農産品

先月の話ですが、青果や花卉では日本最大の取引量を誇る東京大田市場にご意見を伺うために、超強行軍で上京してまいりました。

もともと一次産業については、6次産業化や海外輸出や官民連携ファンドなども含め、需要喚起・需要サイドにも視点を置かないとダメだ、と思っています。政府が単純に生産サイド・供給サイドに農業補償や所得補償をするのは良いのですが(自民党も民主党もこれは同じ)、例えばもともとコメを1合しか食べない人が突然2合は食べない。むしろコメ離れが進んでいるから減っている。で、需要が減れば価格が下落するのは当然で、下落すれば農家は安定生産ができない。そこに減反やら所得補償をして生産者を応援するのは良いのですが、根本原因ではない。

そんな思いを胸に、需要の一つのルートである大田市場関係者との意見交換に向うわけですが、直接的にこれらに答えを得たわけではありませんが、他の話が実に面白い。

先方がおっしゃるには:「いくらでもさばいてあげるからもっと供給せよ。価格も最近はいい値で取引されているから生産者も頑張って欲しい。特に香川の農産物は土壌と天候が良いから市場関係者の間では良いものができるという認識はある。問題は量だ。面積だ。生産者にとって収入は面積の掛け算だ。香川はいいものができるのだから、もっと供給せよ。」

凄いぞ香川の農産品。ただ、総需要量が幾らでも市場で増やせるかというと当然そうではありません。恐らく香川から来たということで、応援のメッセージだと理解しています。というのは、実際、市場には香川会やら讃岐会という応援団体があるそうなので、品質としては良いという理解を得ている。しかし、量の問題・安定供給の問題がネックになっている。そこが、需要と供給の間の意識のギャップになっている。

であればこそ、なおさらそのギャップを埋めないといけません。

そのギャップは、生産者も農協も市場も需要側も国も埋める努力をしないといけない。

成功例はあります。例えば生産者がギャップを埋める努力をしたケース。果物をつくってらっしゃる若手農家さん。ジャムやらジュースやらに加工して販売し更にレストランにも手をだし売上げが何倍にもなっているとのこと。

ぜひともこういう形態を応援したい。しかし、これは全員ができる話ではない。だから国も民間も立ち上がらないといけないと思っています。

つづく