ハマスのテロと国際法

■これはパレスチナ問題ではなくテロ

パレスチナ・ガザ地区を実効支配するイスラム武装勢力ハマスが、イスラエルに対して過去とは次元の異なる大規模かつ残虐な攻撃を行って1週間以上が経過しました。これは明らかにテロであって、国際法上糾弾すべき問題です。確かに古代ローマの時代から続く深く罪深い歴史が影を落としているのは事実ですが、我々現代に生きる人間としては、紛争予防に関する知恵を蓄積してきたわけで、その知恵というのが、完ぺきではないにせよ、国際法、国際ルールに基づく秩序を基軸にするということです。そして今、我々が見せられているのは、パレスチナ問題ではなく、国際テロです。国際法違反。

ロケット砲攻撃も、ブルドーザやパラグライダーを使った越境攻撃も、イスラエル市民を人質にするのも、全て国際法違反です。ハマスによる秘密裏に周到に準備された非道なテロに対しては、最大の非難をすべきであり、イスラエルの自衛権は否定できません。(国際法上、非国家主体による国際テロは武力行使と見做し得るため、自衛権を認めうる。国連憲章、国連決議、テロ関連条約、ジュネーブ諸条約、国際司法裁判所判例)。

■イスラエルの自衛権の範囲に注目

ただ問題は、自衛権と言えども、国際法的に、ガザ地区の一般市民の犠牲が拡大してはいけないという点です(もちろん人道的にもです)。すなわち自衛権行使の国際法上の要件とされる必要性と均衡性をどう考えるのかです。必要性は明白ですが均衡性はどうなのかというところは注視する必要があります。イスラエル側も、ハマスの軍事施設などのみを攻撃対象とするとしていますので、これは国際法上認められるでしょう。しかし、一般市民と混在しているハマスの施設が明確に分かるのか、ハマス戦闘員と一般市民の区別がつくのか、という点は、イスラエル側は必ず覚悟しなければならない問題です。逆に言えば、ハマスはそこを理解して、ガザ市民を防衛するという名目で、民間施設内に軍事関係者が駐屯しているわけで、罪深いのだと思います。

現時点で、当初イスラエル側が予告したガザ地区への大規模地上戦は始まっていません。過去の経験から言えば、間違いなくイスラエルは大規模な報復を行うことになります。このとき仮にイスラエルが国際法を逸脱するような、すなわち均衡性要件を満たさないような大規模地上戦をやれば、国際法違反の国同士の泥縄な戦いになり、世界から見放されるはずです。さらに言えば、国際法というルールの話だけではなく、国際政治的にもハマスを支援しているイランは黙ってはいないはずです。そうなるとアメリカも黙ってはいない。イスラエルとの関係が改善に向かっていた湾岸諸国も態度は硬化せざるをえなくなる。そうなれば、前段の様相が現実のものとなってしまったら余計に、中東でのG7のプレゼンスは決定的に弱くなる。グローバルサウスとか言っている場合ではなくなるような負の連鎖は、可能性としては否定できない状況です。

■議連声明

以上の理由で、10月11日、超党派日本イスラエル議員連盟の事務局長を預かる身として、急遽、会長の中谷元先生と相談して会議を設定、イスラエル駐日大使に現状報告を求めました。そして、事前に起草したハマスのテロ攻撃に対する非難声明を議論。採決を行い声明を直ちに発出することになりました。同時に、それまでの政府のメッセージの的が微妙にずれていたので、外務省に対して是正を強く求めました。

■(参考)全く余談ながら歴史的背景について

良く知られているように、パレスチナ問題は宗教問題がからんでいます。世界の3大宗教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教のルーツは同じなので、それぞれの聖地が重なっても不思議ではなく、それがエルサレムであり、同地区のかかえる難しさのルーツになっています。そしてより複雑なのは、紀元前からパレスチナの地を古代ローマが支配するようになり、紀元2世紀ころには、ユダヤ教徒(ユダヤ人)が離散(ディアスポラ)させられた事です。

爾来、ユダヤ人にとって祖国再建が夢となり、19世紀のころの国家再建運動(シオニズム)に繋がります。そして一次大戦に突入すると、覇権国イギリスが、シオニズムを利用し、ユダヤ人に国家建設を約束(バルフォア宣言)するのですが、実はその裏側でアラブ人にも国家建設を約束(フセイン・マクマホン協定)し、更にはフランスにも中東分割統治を持ち掛けます(サイクス・ピコ協定)。これが有名な三枚舌外交です。ここから悲劇の顕在化が始まります。

二次大戦のころ、ナチスの台頭でユダヤ人迫害が頂点を極め(ホロコースト)、戦後、国連総会でユダヤ人への同情もあり、パレスチナの地をユダヤ(イスラエル)とアラブ(パレスチナ=ガザ+ヨルダン川西岸)で分割し、聖地エルサレムは国際管理下に置こうという決議(パレスチナ分割決議)が採択され、翌年にイスラエル建国を迎えることになるのですが、それまではアラブ人が住んでいたためアラブが歓迎するはずもなく、累次の中東戦争を引き起こすことになります。これが現状のパレスチナ問題の原型となります。

国際約束となった分割案も、中東戦争が進展するに従って、有効に維持されなくようになります。イスラエルが国際的に認められた以外の地に入植するようになり、一方で、パレスチナ解放を目論んでパレスチナ解放戦線(PLO)という組織ができたりで、緊張は続きました。そして湾岸戦争を経て、イスラエル・ラビン首相とPLO・アラファト議長の間で相互承認に向けた話し合い、その後にパレスチナ暫定自治に関する宣言が調印されました(オスロ合意)。

ただ、状況が安定したわけではなく、イスラエル側もラビン首相の動きに反発する右派によってラビン首相は暗殺され、右派政権が樹立。一方、パレスチナ側も、反融和のイスラム組織ハマスが台頭、選挙を経てハマス政権が樹立されます。ただ、パレスチナ自治政府とハマスの折り合いは悪く、結果的にハマスがガザ地区を実効支配するようになり、一方でパレスチナのもう1つの勢力であるファタハがヨルダン川西岸地区を統治するようになって、現在に至ります。

こうした事情で、パレスチナは全く一枚岩ではなく、パレスチナ自治政府とはむしろ対立しているように見えますが、イスラエルとの関係では協働歩調に見えます。一方、近年はイスラエルとアラブ諸国との関係も徐々に改善に向かっていました。2020年にはUAEに続いて、バーレーン、スーダン、モロッコがイスラエルとの間で国交正常化の合意を発表しました。いわゆるアブラハム合意と呼ばれるものです。そしていよいよサウジアラビアとの間でも協議が進んでいるときに発生したのが、今回のハマスによるテロでした。

ForumK開催

第11回目となりました地元ForumKを開催頂きましたところ、多くの方にご参会を賜りました。この場をお借りし心からお厚く御礼申し上げます。

当会は、本来新年互例会の意味合いを込めて例年年初に開催しておりましたが、コロナ感染症拡大により繰り返し延期を余儀なくされ、時期が秋にずれ込んでいました。そこで数年かけて段階的に開催時期を早めるべく、今年は7月開催を予定しておりましたが、私どもの個人的な都合により誠に勝手ながら再度延期となり、結果的に9月開催となったものです。皆様には大変ご迷惑をおかけ致しましたこと、改めてお詫び申し上げます。

現在、党務として経済安全保障推進本部、安全保障調査会、科学技術イノベーション戦略調査会、社会保障制度調査会、中小企業政策調査会、知的財産戦略調査会などの役員を務め約1年が経ちました。

この間の最大の山場は、昨年末に改定された国家安全保障戦略でした。改訂に関与した者として、今後もその実効性を担保するために努力を傾注して参りたいと思います。目下の課題は、経済安全保障上のセキュリティー・クリアランス制度の整備、サイバー防御態勢の整備、インテリジェンス能力向上、また防衛装備品移転に関する指針の改定などです。

一方で、人口減少による人不足と、ウクライナ戦争やコロナに端を発するコストプッシュインフレに対応するため、中小企業や農業・水産業などの一次産業を中心として産業構造改革に注力して参りました。最大の対策は、産業界が資材燃油高騰によるコスト上昇と人件費上昇を売値に転嫁することです。適切な構造的価格転嫁こそが日本経済の安定成長に繋がるとの確信からです。当然、防災需要のインフラ整備を計画的に整備し需要を底上げすることも必須です。加えて社会的課題解決事業の推進とデジタル化推進は、地方創生の中心的課題だと認識し、地方目線の政策立案を進めております。

その他、資源が無い日本が豊かさを勝ち取るためには科学技術イノベーション力を強化する以外にないとの思いから、初当選以来この分野に関与しておりますが、ここ3年では特に創薬力の強化と、大学の知財改革に努めております。

改めて皆様に感謝をし、ご期待にお応えできているか常に自問しながら、いかなる困難にぶち当たろうと、前向きに政治活動に邁進して参りたいと存じます。最後になりましたが、皆様の益々のご健康とご活躍を心からご祈念申し上げます。

故大野功統儀お別れの会について

先般は、亡父、大野功統儀逝去に際し、皆様方にはお心のこもったご厚志を賜り、誠に有難く厚く御礼申し上げます。皆様の御陰をもちまして、この程無事に49日の法要並びに下記にてご案内申し上げておりました「お別れの会」を、滞りなく相営みましたことをご報告申し上げます。ご多忙中にもかかわらず、お運び頂きました皆様には心から感謝申し上げます。皆様から賜りました温かいお気持ちは、父にも必ずや届いたことと存じます。改めまして、親族一同、心より厚く御礼申し上げますとともに、今後とも変わらぬご厚誼を賜りますよう、お願い申し上げます。

遺族代表 大野敬太郎

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故大野功統儀「お別れの会」を下記の通り執り行うことといたしましたので、ここに謹んでご案内申し上げます。

【香川県会場】

日時 令和5年8月27日(日曜日)
   10時半  開式
   11時メド 指名献花
   12時メド 一般献花

場所 オークラホテル丸亀2階 鳳凰の間
   香川県丸亀市富士見町3-3-50
   電話 0877-23-2222

実行委員長 衆議院議員 甘利明
主   催 自由民主党
       同 香川3区支部
      大野家
      喪主 大野敬太郎

なお、一般献花は13時過ぎ頃までを予定しております。どなた様も平服にてお越しくださいますようお願い申し上げます。開式直後は大変込み合うことが予想されますので、お急ぎの方は12時以降のご来場をお勧めいたします。

【東京会場】

日時 令和5年9月6日(水曜日)
   10時半 開式(献花)

場所 ホテルニューオータニ東京
   ザ・メイン宴会場階 芙蓉西の間
   東京都千代田区紀尾井町4-1
   電話 03-3265-1111

なお、どなた様も平服にてお越しくださいますようお願い申し上げます。

キャッチボールの想い出

■はじめに

 親父が亡くなった。今年(令和5年)の6月中旬頃から急に食が細くなり、都内の病院にお世話になっていた。往年の声の張りは無くなっていたが、それでも十分に会話を楽しみ、仕事がんばれよ、と何度も私に繰り返し言った。7月に入ると、入院先で「家族で久しぶりに外食せんな、イタリアンがええな」と言った。そんなことを言うことに多少当惑したが、お袋は、「それならもうすぐ米寿の誕生日を迎えるんやから、そのお祝いの会にしよう」と言った。そして久しぶりに家族団らんを楽しみ、大いに笑い、お互いの近況報告をした。その場でも、親父は私に、がんばれよ、と言った。私がその翌週から腎臓結石の摘出手術で入院することことを知っていて、激励でもしたかったのかもしれない。そして入院した私は、親子で別々の病院に横たわっていることを想像し、珍しく今頃親父はどうしているかと気になった。7月15日に私が無事退院すると、それを知って親父は、よかった、と言った。そして次の日の朝、まるで息子の無事退院の知らせを待ってたかのように、静かに眠りについた。

 未だに頭が整理しきれていない状況の中で、親父の事を何か書き留めておかねば、という思いに駆られた。ただ、何から始めれば良いのかが分からず、いろんな想い出が頭に浮かんでは消えていくだけで、随分と時間が経ってしまったように思う。そんな時、ふと、村上春樹の「猫を棄てる」という氏の父親について書いたエッセーを思い出した。この深遠なるテーマの作品の中身に今は同調するつもりは全くないし、その必要も全くなく、できるはずもないけれど、とにかく猫という素朴な想い出話が頭から離れず、だから素朴な想い出から書き始めることにした。

 キャッチボール。なんとも平凡な想い出ではあるが、今思えば私たち親子の関係を象徴するような光景であったように思う。思った方向に投げられず、親父の頭の上を白いボールが飛び越えていくたびに、私はひどく申し訳ない気持ちになるのだが、ボールを取りに行く無表情の親父の顔が、なぜか楽しんでいるように見えた。ずっと忙しかった親父が、わずかではあったけれど時間を作ってくれたことが、私にはとても嬉しく、子供ながらに親父も楽しんでいると思い込みたかったのかもしれない。ただ、それでも私は無表情でボールを投げ続けていた。

 昭和10年10月16日生まれの親父は、昭和の激動期に台湾で生まれ、終戦とともに10才で帰国。郷里の豊浜町(香川県)で幼少期を過ごし、東京大学に進み、大蔵省を課長まで務めた後に、大平正芳幹事長(当時)の薦めで知事選に挑んだが惜敗。後に衆議院議員となった。というのが表面的なプロフィールだが、昭和時代の権謀術数が渦巻く政界で、今の時代とは遥かに違う波乱万丈の人生であったように思う。

■椅子によって仕事をするな

 台湾で生まれたのは、祖父の大野乾(いぬい:親父の父親)が台湾総督府の下級官吏として派遣されていたからだ。終戦まで台湾で過ごした経験談を、食卓で得意気に語る親父が愉快で好きだった。台湾華語も中国語も全くしゃべれない親父だが、何種類かの表現を音で覚えて日本に帰ってきた。ほろ酔い加減でそれを自慢気に何度も披露するものだから、私までいくつか覚えてしまい、今でも“親父発音の台湾語”を正確にトレースできる自信がある。「チェコトンシーハオプーハオ」(どっちがいいか)、「チンニーケーウォーイーペーツァ」(お茶下さい)などは、子供同士の物々交換のときに必要だったのだろう、台湾社会で生き抜くために必要な言葉を見よう見まねで必死になって覚えたのは容易に想像がつく。しかし、「ニータイタイホイライラ」(奥さん戻ってきたか)というのだけは、なぜ子供であった親父が覚えなければいけなかったのか、未だに分からない。

 台湾での経験が、親父を国際社会に目を向けさせたのだと思う。あるいは大阪外国語大学を出ていた大野乾の直接の影響かもしれない。その大野乾は、県庁で副知事まで務め、知事選に推されるなか、59歳で白血病を患って急逝したらしい。らしいというのは、私が生まれる前の話であったからで、私はこの祖父を直接は知らない。親父は自分がこの59歳という年齢を超えたとき、既に衆議院議員としては3期目あたりであったと思うが、いたく喜んでいたことをはっきりと覚えている。喜ぶ、という感覚をいまいち私は掴めないでいたし、未だにはっきりとした形で意識することはできないが、59歳を越えてからというもの、親父は何をするにしても腹が座っていたように思う。

 例えばこの10年後の話になるが、私が親父(防衛庁長官)の秘書になって1~2か月経ったある日、小泉総理(当時)から谷垣財務大臣(当時)と一緒に官邸に来て欲しいという電話を秘書官経由で受け取ったことがあった。一大事だと私は思い、直ちに日程を確認して親父に伝えたところ、あらぬ答えが返ってきた。曰く、行かない、と。政治の機微が分かっていなかった私は後で事の内容を理解することになる。すなわち、年末だったので、総理の前で防衛予算を丸め込まれる可能性を考えての事ではないかと周囲に聞いた。善し悪しの判断は未だに付かないが、腹が座っていると感じた。その後の予算大臣折衝を終えて役所に戻ると、深夜であったにもかかわらず100名近い職員が拍手で出迎えてくれた。

 親父は、大野乾から教わったという言葉を終始大切にしていた。「椅子によって仕事をするな」とは、仮に仕事上、社会的立場が上がって人々から敬意を示されたとしても、それは椅子(肩書)に対してなのだから、人間として敬意を持たれるよう修養せよ、という意味であり、また、「手をついて上を見上げる蛙かな」とは、手をついて謙虚になることが必要だが、一方で謙虚さがいたずらに卑下になってはならず、理想を持って上を見上げる勇気と自尊が必要だ、という意味であった。更に「針に対するに真綿をもってす」とは、仕事上で激しく言い争ってくる者がいたとしても、真綿でくるむように優しく説得せよ、という意味であった。親父は何度もこの言葉を私に言った。家訓だとも言った。このたった3つのフレーズで親父の人生観を表すことができるように思う。政界でキャリアを積んでベテラン組と言われるようになっても、親父は椅子によって仕事をすることはなかった。

■大平正芳との関係

 親父は高校の頃から英語だけは真剣に勉強したらしく、県下の英語弁論大会に何度か優勝したことがあると言っていた。大蔵省に入った直後にはフルブライト奨学金を得てアメリカに渡った。そして敢えて着物を着て現地の学生たちに日本の文化を伝える活動をしていたという。そして、普通の学生宅でも蛇口を捻るとお湯が出ることに痛く感動し、同時に日米の国力の差を肌で感じた、と何度も言っていた。その時の体験が、後に大蔵省での国際畑での仕事に対する熱量に繋がったのだろう。

 大蔵省に努めていた親父が住んでいたのは目黒区にある公務員用の狭い官舎であった。今も現役の官舎で、私も当然一緒に住んでいた。子供の時に感じたコンクリート打ちっぱなしの粉っぽい匂いや鉄製の冷たいドアの感覚を未だに覚えているが、狭いと感じたことは無く、むしろ温かい家族に囲まれた空間であった。親父が政界に転出することになったのは、大蔵省の課長を務めていたときであり、きっかけは郷里の大先輩であった大平正芳だった、と親父は言った。

 政界転出の数年前、大平正芳が大蔵大臣に就任したころ、親父は財務官室長であったらしい。財務官というのは、大蔵省の国際畑のトップだが、その秘書室長のような立場であった。後に知り合った親父の大蔵省仲間から、大野さん(親父)は当時から財務官みたいな財務官室長だったと聞かされた。見た目の話である。実年齢に比べて貫禄があったとのことだった。国際畑の秘書室長だったからなのだろう、大平大臣が海外出張するときは必ず同行し、通訳も務めたという。その度に大平大臣から、「ムター(母親)は元気か」と尋ねられたらしい。なぜドイツ語だったのかは不明だ。

 大平正芳は途轍もなく懐の深い大政治家だ、と親父はよく言っていた。親父が結婚したのは大平正芳の地元のライバルである加藤常太郎の娘(私のお袋)だった。今の小選挙区とは異なり、自民党同士で激烈な争いをしていた時代で、それぞれの後援会は相当な緊張関係にあったはずだ。にもかかわらず、親父が結婚するときは仲人まで務めてくれた。それどころか、ライバルの娘婿を知事選に推そうと言うのだから、確かに懐の深い政治家であったことは間違いない。

■最悪の選択は大野君が知事選に出ることだ

 知事選出馬までの顛末に触れたい。大平正芳が自民党の幹事長となり、次期総裁を狙う段階になったとき、地元香川県の知事として誰を推すかという話になった。当時の知事は革新系であったが、自民党総裁選に挑むのに地元の知事が革新系でいいのかという指摘があったらしい。そこで、十本くらいある白羽の矢の一つが親父に当たった。親父は当時、国際機構課長を務めていた。ようやく債権国となった日本が国際社会から期待され始めた時代だ。担当課長として国際金融システム作りのため世界を飛び回る遣り甲斐に満ちたときであったに違いない。その職場に幹事長本人から直接呼び出しの電話があった。親父曰く、課長如きに時の幹事長本人からの電話というのは大ごとで、役所でも多少の騒ぎになったらしい。幹事長室に出向いたところ、やはり知事選の話であったという。

 その当時を振り返り、大政治家から呼ばれてあたふたする自分を、親父は滑稽に語ったことがあった。幹事長に向かい、親父は当初、丁重に断ろうとしていた。すると大平幹事長は、最良の選択は現職知事を自民党から出すことだ、次善策は大野君か誰かを副知事として送り込むことだ、そして、最悪の選択は大野君が知事選にでることだ、断るのはいつでもできるのだから今は静かに時の流れに身をまかせておきたまえ、と言ったらしい。

 最悪の選択だという話に面を喰らった親父はそのまま返す言葉もなく、ただ流れで断ったことになったと理解していた。そして再び国際社会に飛びまわっていたところ、今度は地元から知事選に出よとの声が大きくなっていた。曰く、実父の大野乾は知事選出馬を前に病で斃れたのだから、その遺志を継ぐのが息子の義務ではないか、というものだった。再度幹事長から呼び出しがあり、大平幹事長はそのことに触れて、そこまで県民の声があるならば、その声に静かに身を沈めたまえ、と言ったらしい。大政治家の言葉の重みをこの時ほど深く感じたことはなかったらしく、その重くて到底投げ返すことができない言葉に、断る理由を失った。親父の決意した瞬間であった。

 この当時、私は小学校低学年であった。親父に何が起きているのか理解するには幼な過ぎた。急に香川に帰郷することになったが、移住や転校の理由を私は尋ねなかった。ただ、香川に移動するフェリーの中で、お袋が戦場にでも向かうような形相をしていたことは覚えている。その後、地元の貸家に移住すると間もなく、知らない人が連日のように大勢集まってくるのに閉口し、姉と二人で小さい部屋に閉じこもった。選挙活動がどのようなものであったのかは全く知らない。ただ、選挙に負けたということだけは理解したし、応援してくれていた人たちが悔しさに涙を流してくれたことだけは覚えている。このときの親父の苦労を、子供であった私が知る由はない。落選して以降、浪人生活が長く続いた。親父を相当に苦しめたのだと思う。

 知事選落選を経て、親父は母親の大野カツエへの思いが益々篤くなっていく。母親のカツエは、夫の乾が他界したあと豊浜で一人暮らしをしていたが寂しかったのだろう、東京にいる息子(親父)から毎月貰う手紙を終始大事にしていたらしい。親父の知事選出馬が決まった時、カツエは大変喜んだそうだ。それは、息子の出世への期待ということでは全くなく、ようやく親子で一緒に暮らせるという思いだった。そのカツエは息子のために炎天下に靴をすり減らして知事選を応援したが、落選となった投票日の1週間後に脳出血で倒れた。それから数年間、お見舞いのために親父は病院通いを続けるのだが、ある日実家に立ち寄った際についに見つけたのが、自分が書き送った10年分の手紙だったそうだ。胸が熱くならなかったはずがない。自分が知事選に出るとさえ言わなければ、こんなことにはならなかったのではないか、と思ったとしても不思議ではない。その時の心境を私は親父から直接聞いたことはないが、子供ながらに見舞いに同行した際の親父の表情から、親父のカツエに対する深い愛情を感じていた。思えば、親父の大野功統という名前は極めて珍しく、政界では読みにくいので音読みで「コウトウ先生」と呼ばれていたが、字画に凝っていたカツエが長い時間をかけて名付けたもので、親父は名前の由来を聞かれたときは、顔を皺くちゃにして説明していた。愛着を持っていたのだろう。

■桃栗3年、柿8年、早く目を出せ大野さん

 爾来、8年間、親父は地元を歩く毎日であった。その活動内容も残念ながら私は知らない。ただ、ある日、私が通う小学校から、何かは覚えていないが書類の提出を求められ、そこに親の職業欄があった。何と記入すればよいのか分からず、親父に聞くと、暫く沈黙があった後、香川経済研究所とでも書いておけ、と言った。虫の居所も悪かったのだろう、子供であった私は「とでも」というのが気に入らず文句を言った。そこにいたお袋が、浪人中だからしょうがないじゃない、と茶化しながら親父の肩を持った後、でも何でもいいから職に就いて欲しいわね、と今度は私の肩を持った。そして私は親父が無職であることをかなり強く非難した。

 私が親父を強く非難したのは、この時が初めてだと思う。親父はこの時期、心労が重なり体調を崩した時期もあった。親父にとって人生の中で、恐らく最も厳しく不安な環境に置かれていたときに、実の息子から、例えまだ小学生だったとしても、このような形で非難されるのは辛かったに違いないと、今になって表現の仕様もない自責の念に駆られる。親父には本当に申し訳ないことを言った。特に私自身が政治を志し、人々の思いを背負う意味を感じ取ってからというもの、昔の自分を憎んだ。多分親父はそんなこと忘れているのだが、だから余計に未だお詫びを言いにくく、今に至ってしまっている。

 丁度50才を迎えた時、親父は初めての衆議院選挙で当選を勝ち取った。それまで大勢の方々が、桃栗3年、柿8年、早く芽を出せ大野さん、といって、8年間の浪人期間を精神的に支えてくれた。親父にとっては、生涯裏切れない最良の仲間たちだった。8年間の間、立候補し続けて負け続けたというわけではない。祖父の加藤常太郎が、引退して地盤を譲ると仄めかしており、また仄めかすことで自らの政治活動を手伝うよう親父に請うたからであった。平たく言えば引退すると言って3度引退しなかった。親父の後援者の気持ちは複雑であったと思う。親父は生涯、このことに触れたがらなかった。

■人間に興味を持て

 親父が初当選をする前後のことであったと思う。私が高校2年生になって、理系か文系かを選択する必要に迫られたとき、躊躇なく理系を選択した私に、親父は少しがっかりしていたように見えた。そもそも親父は教育に口を挟むことは殆ど無かった。無関心ではなく、親父なりの流儀であった。常日ごろから、何をやってもいいが全部自分で責任を取れ、責任を取れないようなことはするな、と言っていた。だから私が何を選択しようが受け入れてくれるものだと思っていたから当惑した。もしかしたら親父は法学系に進むことを望んでいたのかもしれない。

 大学に進学した私は、親父が寝泊まりしていた九段議員宿舎を間借りすることにした。人生で初めての親父との二人暮らしとなったが、親父の持ち物はスーツや下着だけであったので、一人暮らしの下宿とほぼ同然であった。この頃、親父は私が大学でどんなことをやっているのかを尋ねてくることがあった。法学部出身の親父から見ると、私などは珍獣に見えたのであろう。説明したところで全く意味がないので、私はかなり適当にあしらっていた。

 それでも当時、大学の量子力学か何かの授業で話題になっていたことから、宇宙の果てがどうなっているか興味あるかと親父に聞いたことがあった。その答えをはっきりと覚えている。曰く、人間には興味を持っている、人間社会はそもそも助け合いと支え合いの社会なのだから、全ての事に興味を持たなくても、人間に興味を持っていれば良い、と言った。理系ながら、まるで魔法にかかったかのように、不覚にも妙に納得してしまった。確かに一番上位に位置付けるべき概念だと私は勝手に理解をした。

■雑談と言う充実

 私が大学生の間は、親父は時間ができると、よく晩飯に連れて行ってくれた。そんなとき、高校生の時は何になりたかったのか、と親父に聞いたことがあった。すると、最初は野球選手になりたかったが途中で諦めて新聞記者を目指した、と言った。野球選手というのはかなり意外だったが、本気でそう思ったらしく、真剣に練習に打ち込んだらしい。ただ、2つ上の先輩に中西太という後の野球界のスーパースターがいて、その尻を見て敵わないと諦めたらしい。そしてペンの力で世界を変えられる新聞記者になろうと考えたとのことだった。親父にスポーツのイメージは全くなく、諦めて正解だと思った。

 またある時は、夜の9時頃だっただろうか、本屋に行こうと誘われたことがあった。当時の政界は、今では考えられない程の会食が重なっており、だからといってそれが言い訳にもならないのだろうけど、親父はかなり腹が出ていた。それを気にしてダイエットの本を買いたいと言い始めた。九段にある議員宿舎から神楽坂下の交差点にあった本屋に二人で歩いて行き、物色をした結果、様々な食事のメニューが摂取カロリーと共に綺麗なカラー写真付きで紹介された本を買った。問題は、家に帰った親父が、それを眺め、おいしそうだから何か食べに行こうと言い始めたことであった。結局行かなかったが、大笑いになった。そうした何の取り留めもない会話ができることを、私は密かにうれしく思っていた。ただ、それを口に出したことはなかった。

■人間の涵養と関係の変化

 九段の議員宿舎を出て自立した私は仕事に没頭した。親父とも接することが少なくなり、関係が徐々に変化していくのを感じていた。そのころ、家族との時間が取れないことを気にしてなのか、親父は家族で旅行に行くことを何度か提案し実際に行ったこともあったが、資金の工面以外の全てを私に押し付け、旅行の行程の段取りが悪いとか、宿の雰囲気が思ったのと違うとか、行った先で計画のダメ出しをしてくることがとても気に入らず、何度も口論となった。そんな様子を見てお袋は、男同士はいかん、と何度も言った。そして私は徐々にそうした旅行の提案を拒否するようになっていった。今思えば親父は、社会人となった私の社会人としての能力をチェックしたかったのかもしれない。

 一方で、当時親父は積極的にアメリカ議会との議員外交を行っていたが、何度か同行を求められた。当初は段取りすべてを押し付けてきて文句を言われるかと疑い躊躇したが、外交や安全保障に大学のころから興味があった私は、その関心を優先させた。念のためだが費用は親父が自腹で出した。英語での丁々発止の議論を目の当たりにし、大いに刺激を受けたし、日米同盟とは雖も厳しいものだと実感した。大抵は3日間程度の会議であったが、現地の宿舎に帰るたびに、私は親父を質問攻めにした。ところが親父は仕事上の考えを一切私には語らなかった。このスタイルは、後に私が親父の秘書になってからも、更には私自身が政治家になってからも変わらなかった。今思えば、政治の中身の話や、政策の中身の話より、人間としての基本を涵養させたかったのかもしれない。

■無口な親子

 そうしたアメリカでの出来事の一つに、親父がかつて若い頃に通ったペンシルバニア大学への訪問に付き合ったことがあった。会議の日程が先方の都合で半日分キャンセルになったことがあり、では明日はペンシルバニアに行こう、と親父が突然言い出した。私が国際免許を取っていたことを知っていたからなのだろう、仕方がないので取り急ぎレンタカーを用意し、翌日の朝、親父と二人でワシントンDCからペンシルバニアに向けて車を走らせた。カーナビなど無い時代である。地図はホテルで貰った周辺地図だけ。高速の乗り口も載っていなかった。

 そもそも私はペンシルバニアがどこにあるのかも分かっていなかった。しかも、道順など親父も知るはずがない。まるで大学生のノリで、親父の適当な指示の下、辛うじて大学についたときは既に夕方であったと記憶している。親父はおもむろに大学の建物に入り、辺りにいた学生に、この辺りに住んでいたのだと主張をし、何やら会話を楽しんでいた。帰り道、イタリアンレストランに入った。私は親父の猪突猛進ぶりに辟易としながら無口でパスタを頬張った。その後の車中で親父はずっと静かに寝ていた。親父の寝姿がイノシシに見えた。事実、イノシシ年生まれであった。ワシントンDCのホテルに帰投したのは夜中の12時頃だった。後に親父の秘書になってからも、親父はやはりイノシシであることを思い知らされた。今となってはとても心地のいい想い出だが、10時間を超えるドライブの間、二人は殆ど無口であった。

 そうした出張のとき以外でも、二人は無口だった。そもそも私は会社でエンジニアとして徹夜もいとわない開発業務に没頭していたし、親父がこのころどのような政治活動をしていたのかは正確に分からないが、少なくとも3期、4期とキャリアを積んで、委員長とか副大臣とかのポストを経験し、忙しく充実した毎日を送っていそうなことだけは理解していた。そういうことで、私と親父は年に数回しか話さなくなっていた。

■仕事道と教育道

 親父はそもそも人間力をとても重視していた。言葉がなくても心で通じあうことが至高だとも言った。例えば親父のライフワークの一つに、国際社会のなかで日本のプレゼンスを如何に高めるかというのがあったが、海外の人脈を広げられたのは、決して英語ができたからというわけではなく、人間力が伝わっていたからからだ、と思うことが時々ある。つまり、面白いやつだ、と思われることが多かったように思う。

 私が議員になってからも、すなわち親父が現職を退いて10年以上経つのに、フランスのシラク大統領の補佐官だった人から、お父さんは面白い人だった、と声を掛けられたり、モンデール元副大統領に会った時にも、同じ調子で話しかけられたりした。例を挙げればきりがないくらいだ。しかも、随分と長いこと親父に会ってないはずだし、忘れてもよさそうなものなのに、その息子に会っただけで、自然とそういう話題がでるというのは、相当に印象に残ったのだろうと思う。

 ただ、斯様に親父は外では常に何かを力説する仕事であったので、家では何かを力説したことがなかった。あるいは、お袋が常に何かを力説していたので、親父は聞き役に回っていたのかもしれない。そうした両親の家での会話を私はいつもそば耳を立てて聞き、物事を理解しようと努めていたが、ほとんど理解できなかった。かつて思想家の内田樹さんが、日本の「道」という教育システムに触れていたが、親父の教育道も幾分か近いのかもしれない。一言で言えば背中を見せて育てる、ということだが、特に言葉で何かを私に力説したことはなかった。

■ホームページを巡る攻防

 無口も多少の転機となったのは、北朝鮮の不審船事案が連日報道された時期であった。丁度、党の国防部会長を務めていた時なのだろう、九段の議員宿舎にたまたま立ち寄った際に、見慣れぬ通信機が部屋に設置されていた。その時を機会に、ホームページさえ持っていなかった親父に設置を提案してみた。生返事が返ってきたのでそれを了解と受け取り、実際に作業に入った。事務所から関係資料をもらい、レンタルサーバーの契約をし、ドメインを取得し、原稿を書いて公開し、親父にパソコン画面を見せながら報告した。返ってきた答えは、勝手に書くな、であった。

 ただ、地元の方で「大野さんホームページ見たよ」と言ってくれる人が何人かいたらしい。多少の効果を理解したのか、親父は週に一回ほど手書きの原稿を私に送ってくるようになった。その原稿をパソコンに入力して、サーバーにアップロードするのが私のボランティアとしての仕事になったのだが、手書きの文字が読めなかったり理解できなかったりしたときは、親父に直接聞いた。それが何やら親父との新しい形の言葉のコミュニケーションとなった。ほとんどしゃべる機会もなく、政策の話を全くしなかったので、親父がどのようなことを考えているかを知る良い機会になった。

■家族への気遣いよりも状況把握

 就職して8年が過ぎたころ、私は会社派遣でアメリカの研究機関に勤めることになった。よく言えば留学だが、実際は共同研究であった。出発は、2001年10月1日と決まったが、結果的に11月に延期となった。というのは出発予定日の直前である9月11日に世界を震撼させた世界同時多発テロが起きたからだ。実はその直前も、私はアメリカに出張していた。帰国したのはテロ発生の直前で、翌日は休みを取って自宅でのんびりと報告書の作成などをして過ごしたため、世界で何が起こっているのかに全く気付いていなかった。

 同時多発テロが発生したこと、そして親父が危険に晒されていること、を知ったのは、お袋が極度に切迫した声色で電話してきたからだった。サンフランシスコ平和条約締結50周年を記念した日米国際会議に参加するため、親父が数日前にアメリカに向けて出発していたこと、帰国予定日はまだ先であること、そして連絡が付かないことを知った。テレビをつけると、衝撃的な映像が目に飛び込んできた。そして、状況を知らせるテロップが逐一流れていた。被害に遭ったとされる飛行機の便名や搭乗人数、そして出発時刻や離発着地を表示していた。お袋は焦燥感で思考停止状態にあった。私は、直ちにお袋を訪ね、握りしめていた親父の出張情報の紙を奪い取り、親父が滞在していただろう宿泊地や現地航空会社などにコンタクトを試みたが、彼らも情報が錯綜する中で混乱状態であり、大した情報は得られなかった。

 すると突然、無機質なテレビ画面の片隅に、親父が乗ったはずの便名が表示された。一瞬の事で直ぐに情報は更新されたが、お袋と二人で同時に見たのだ。間違いは無いはずだった。お袋は、死んだ死んだ、と泣き叫んだ。同じ情報を示すテロップが再表示されるはずだと、長い間、画面を食い入るように見入ったが、再表示はされなかった。時々チャンネルを変えて情報を探したが、全く見つからなかった。私は、被害が確認された便数とテロップに流れる数に相当のギャップがあったことに気付き、状況が確認できない便名を全て出しているに違いないから大丈夫だ、とお袋に言い続けた。不思議と私は落ち着いていた。

 搭乗便の被害情報が確認できないまま、随分と時間だけが経過していったが、次の日に、ようやく議員会館事務所スタッフが親父とコンタクトすることに成功した。曰く、親父が乗る予定だった搭乗便は、飛行禁止措置の航空管制が引かれたために出発できず、親父は致し方なくそのまま飛行場で情報収集に当たるも私と同様に有益な情報は得られず、諦めて歩いて出るも行く当てがなく、取り敢えず宿泊できそうなホテルを探していたらレストランがあったので、同行者らと腹ごしらえをしていた、というものであった。お袋の表情が見る見る変わり、なんで連絡しないのよと、今度は怒り始めた。テロの状況把握が最優先だろう、と帰国後に親父はお袋に言った。お袋が到底納得しなかったのは当然と言えば当然であった。

■上司と部下

 私がアメリカ留学から帰ってきた翌年、親父が防衛庁長官に推された。先にも書いたが、もともと私は外交や安全保障に関心をもっていたため、恐る恐る親父にスタッフとして手伝いたいと言った。それからの1年間は私にとってとても充実した期間であった。政治経験は当然なかったが、スタッフとして懸命に支えようとしたし、親父も私を一人のスタッフとして扱った。

 長官に就任して丁度半年くらいたった時に、親父は再就職の祝いだと言ってスーツを買ってやると言いだした。親父が自分から何かを買ってやると言ったのは、その時が初めてだった。それまで研究職であった私はスーツに関心など持っているはずがないのだが、その言葉がとても嬉しかった。私がそっけなく、スーツは要らない、と言うが早いか、猪突猛進、親父も行ったこともないような仕立て屋に私を連れだした。そしてその店で二番目に安い生地を選んだ私を(10万円であったことをはっきり覚えている)、本当につまらん男だなと言いながらも、感謝せよ、と笑いながら言った。親父も嬉しかったのだろうと勝手に思った。今からもう20年近く前の話だが、未だにそのスーツは大事に持っている。

 当時の親父の任務は、主に防衛大綱改訂、米軍再編、イラク復興支援活動延長の3点であった。前提知識が必要だったため、私は関係する殆ど全ての法令や議事録に目を通した。新聞記者の関心を注意深く探ったし、親父の発言原稿にも目を通した。最も注意を払ったのが、省内関係者の意識共有であった。そうした中で、陸上自衛隊イラク復興支援活動の延長の是非を判断するため、防衛庁長官として初めてイラクの駐屯地であるサマーワを視察する話が省内で持ち上がっていた。親父は、警護官のO氏と運用課長のM氏だけを連れて行くと宣言した。もしものことがあったとき、親子で死ぬとマスコミの恰好の餌食になる、と言った。

 更に親父は、訪問の情報が周囲に漏れないよう細心の注意を払うよう指示を出した。情報が漏洩し、その情報を元に狙われたら、イラクは危険だと言う世論が形成され、政治的にイラク活動の延長が困難になり、日本の国際貢献に大きな穴が開く、と言った。たまたま前日に予定されていたメディア関係者との意見交換も、何事もなかったかのように参加した。しかし、その意見交換の場で、とあるメディア関係者から私は手書きのメモを渡された。書いてあったのは、出発便であった。便名は当たってはいなかったが、情報が漏れていた。通常、事前に情報が漏れると訪問断念を検討するのが通常だ。しかし親父はイノシシだった。予定通り、翌日成田に向かった。成田では、メディアのカメラが勢ぞろいしていた。

■昭和初期の人間

 戦前生まれの人間は、ちょっとしたことでは苦しいとか辛いとかを口にしないし、他人が苦しいとか辛いと言うことに口を挟むこともない、ということに気づいたのは、親父と仕事をするようになってからだった。固く心に決めているという訳でもなく、自然とそうなのだ。だから、例えば風邪をひき高熱をだしても、黙って平然としていることが、むしろ滑稽に見えた。だからと言って、堅物というわけではなく、外ではよく冗談を言う愉快な社交家でもあった。

 米軍再編の一環として、沖縄負担軽減と安全保障政策に関するアメリカ政府との協議を担っていた時であった。交渉は長期間に及び、先方担当者が来日するたびに、関係者は議論の動向に固唾を飲んだ。夕食を交えての意見交換会では、ジョークの応酬だった。単純なジョークもあれば、政策を絡めたピリ辛のジョークもあった。公式な交渉では、アメリカは1mmも引かなかった。

 多少の譲歩をした方がいいのではないかとの意見が防衛庁のみならず官邸や外務省の一部からもでていた。政府全体を背負っての事であったので、プレッシャーは私にも伝わってきた。しかし前進しかできないイノシシのように、親父は全く引かなかった。そしていよいよ先方担当者の帰国を翌日に控えた交渉最終日となったが、その日の交渉も物別れに終わった。すべてを背負う覚悟だったのだろう。平然と構えていた。しかし、翌日の朝10時過ぎ、帰国便への搭乗直前だったのだろう、先方担当者から、日本側の提案を受け入れる、と電話があった。それから1~2時間続いた報道各社の速報テロップを、関係者全員で達成感と共に見つめた。親父は、讃岐うどんの粘り腰、と記者会見でおどけて見せた。

■ウォームハート紛争

 親父の防衛庁長官の任期が終わった後、私は暫く東京の事務所にいようと思うと親父に伝えた。そもそも政治家の息子であっても、政治家というものに良いイメージは全くなかったのだが、意外にも防衛庁での仕事は遣り甲斐に満ち溢れていた。そして衆議院議員として国政に真剣に取り組む親父の活動を見ていると、一般的に政治家に貼られている悪いイメージが徐々に払しょくされていくのを感じていた。

 ただ親父は政策の話だけは私には絶対にしなかった。例えば、私が消費税の話を振り出すと、地元を歩いて聞いてこい、と答えた。それならばと、私は地元に戻ることにしたのだが、その時を契機に、親父は極端に厳しくなった。そして何をするにしても私は親父と衝突するようになった。これはどの親子も経験することなのかもしれないが、何せ考え方が正反対で意見が合わず、地元スタッフも苦労したかもしれない。

 ある時、ホームページに書き綴った原稿や過去に書いたエッセーをまとめて本にしたいと親父が言った。後に「ウォームハート」と題した本となるが、その原稿を巡って大喧嘩になったことがあった。思えば単純なすれ違いだった。出版社を探し、原稿の整理をし、パソコンに入力し、デザインの打ち合わせをした。そして、本の出だしの第一章第一節は、親父が母親の大野カツエの想い出を書いたものに決めた。とてもいい文章だと思ったし、親父もそれでいいと言った。

 ただ、それに続く第二節として、似たような内容のエッセーを入れるよう親父は希望した。第一節の読後感が心地いいのに、また同じような話がくることに私は反対した。そこで、試しに、あくまで提案の意味で、二つの文章を合体させてみた。自分なりに上手く行ったと思ったが、それが大喧嘩の始まりであった。親父にとっては神聖な領域であったに違いない。

■厳しくなった理由

 未熟であった私は、親父が急に厳しくなった理由など考えるはずもなく、その時は全く気づいていなかった。外交や安全保障に関心が集中していた私は、防衛庁での任期が終わって暫くしたら元の会社に復帰することを伝えていたため、親父も臨時スタッフとして私を扱ったのだろう。しかし結局私は事務所に残ることにし、更には地元の事務所に務める選択をした。このことを、親父は後継として立つ意欲と受け取り、鍛えようとしたのだと後になって気付いた。

 思えば私は必ずしも最初から選挙区を継いで出馬しようと考えていたわけではなかった。地元事務所スタッフに加わった時には、社会の為に日夜汗する行政職員とともに日本を創るという政治の仕事に確かに遣り甲斐を感じていたのだ。意思を固めるまでにそれほど時間がかかったわけではなかった。ただ、その思いは親父も含めて誰にも言ったことがなかった。

 だから親父が鍛えようとしたのは結果的に間違いではなかったとも言えるが、お互いに何を考えているか直球で話し合ったわけではなかったので、勝手に決めつけられた気がして気に入らなかった。そんなわけで、私たち親子の間には、何か目に見えないわだかまりにも似た空気感が常にあった。それは言葉で伝えあう習慣がなかったから、致し方が無かったのかもしれない。

■微妙なすれ違いのまま

 防衛庁長官を退任した後も、親父は精力的に活動した。地元に戻ると、真夏には上着にネクタイをきちっと締め、汗で背広の色が変わっていることを少しも気にすることなく、後援者宅へのあいさつ回りを欠かさなかった。地元スタッフにはきめ細かい指示を出した。特に小さい会合を小まめに設定した。大きな会場に大勢を集めることは滅多にしなかった。大勢に向かってマイクで話をしても伝わらない、と言った。ご案内頂いた会合が他の日程と重なって両方行けない場合は、親父は小さな自治会単位の会合に足を運んだ。それが選挙の強さに繋がった。

 親父が戦った最後の選挙は、自民党にとって大変苦しい戦いで、結果としては野に下ることになった。実はこの選挙の1年程前のこと、親父が引退を仄めかすことがあった。と言っても言葉にしたわけではなく、ただ、大きな会合に親父が行くようになったというだけだった。その行動の変化はとても小さいことだけど、何かを意図したのは明らかだった。ただ、結果的にその行動パターンはまた元に戻ることになった。やはり自ら出ることにしたのだと私は理解した。

 選挙までの1年の間、特に親父が引退するとかしないとかの話をしたことはなく、直接的にせよ間接的にせよ、他の示唆があったわけでもなかったが、そのころ、支援者の何人かが、親父に引退を強く勧めていたのは知っていた。それは私にとって良かれと思ってのことであったのは十二分に理解しつつも、そうした話を聞くのは、私は正直好きではなかった。

 引退を表明した後、何人かの知り合いから、息子(私)を頼むと親父さんからお願いされたよ、と聞いた。余計なことをするものだと親父に苦情を言い、二度としないでくれと言った。そういうのが単純に嫌だったのだ。そして党の公募を経て私は立候補したが、その選挙期間中の演説会場でも、親父が会場に現れるのを私は嫌がったが、さすがに来るなとまでは言わなかった。会場の隅の方で心配そうに見ている親父の姿を何度か見かけたが、大抵は途中で会場を後にした。

 人によっては冷たい息子だと思っただろう。親父にしてみれば、もっと頼ってほしいと思っただろう。親父に頼らなくてもできるというような尊大な気持ちでは決して無かった。単に親父の気持ちを素直に受け止めきれず、そうした場面を避けたかっただけなのだ。要はキャッチボールと同じなのだ。子供じみているのは分かっていた。ただ、この子供じみた感覚のまま、それを取り繕うかのように二人で表舞台に立ちたくないというだけであった。この感情は未だに言葉では表現ができない。

■画廊通い

 政界を引退した後、親父はほとんどの公的な役職を辞退した。また、政界からも距離を置いた。現職時代に多少でも影響力のあった議員は、引退してもそれなりに影響力は残るもので、そうした影響力を行使して、別の形で活動する人もいる。政治家というものが職業ではなく生き方なのだとすれば、引退しても政治家だ。政治活動をしようと思えばできる。私は引退した議員が政治活動をすべきではないとは思わない。しかし則を超えないことは重要で、その矜持を持つべきなのだと思っている。そういう意味では、親父はほとんど綺麗さっぱり引退した。それも考え方なのだろう。

 始めたのは油絵だった。中学生の時に描いたという親父の油絵がまだ観音寺事務所に残っているが、悪くはない。油絵は得意だったと言ったことがあったため予想外ではなかった。大学時代の友人だろうか、私は会ったことがないが、気心知れた4人組で画廊に習い始めた。描いてきた油絵は、決して良くはなかった。100年ほどすれば、もしかしたら価値もでるかもしれない、と私は思った。

 ある日、お袋が自宅で油絵を描く事に文句を言いだした。汚れるから、という単純な理由だった。そこで親父は、私の住む家の空き部屋を貸してくれと言い、暫くすると油絵道具一式が運び込まれた。その数年後、娘が上京してきたため、その空き部屋を明け渡してもらうことになり、親父はしぶしぶその道具を撤収した。その後、描き続けたのかどうかは知らないが、もし描くのをやめたのだとしたら、趣味一つなく仕事一筋で生きてきた親父が辛うじて見つけた唯一の趣味を奪ってしまったことになる。だから、結局私はその後にどうしたかを聞かなかった。

 趣味で思い出したが、政界では親父は赤ワイン通で通っている、と親父と交流のあった先輩議員から聞いたことがある。確かに赤ワインは好んで飲んでいたが、それは健康にいいと言う話をテレビで聞いたからだ。赤ければ何でも良かったとまでは言わないが、それほど拘りがあったようにも思えない。なので、到底、趣味と言うジャンルには入らないはずだ。事実、ぶどうの品種で有名なカベルネ・ソーヴィニョンを、随分長いこと、カルベネ・ソーヴィニョンと思い込んでいたらしく、どこかのお店で指摘された、と言っていたくらいだ。本当に趣味を持たない人だった。

■コロナ禍の中で

 親父は終生、地元を大切にした。それはむしろ単純な、原始的な人間としての郷土愛という名の帰属意識であったように思う。子供の時を思い出して感じるような母性的な温かさだけではなく、厳しいことも躊躇なく指摘をしてくれる地元の仲間とのふれあいを通じた父性的な人間的地域社会性であった。だから、仮に選挙に出る類の人生を送っていなかったとしても、その心と行動のパターンは変わらなかったように思う。晩年は豊浜に思いを寄せていたように思う。

 コロナ感染症が拡大するまで、親父はときどき地元を往復し豊浜の実家に泊まった。どれだけの頻度なのかは分からないが、専門学校の学生たちを相手に定期的に話をしてくれないかとの依頼に応じたものだった。親父が地元で引き受けた唯一のもので、亡くなった盟友の依頼だったが、義務的ということではなく、それなりに遣り甲斐をもっていたように思うが、むしろ豊浜の実家に泊まることが目的であったところもあった。

 また東京では、どうしても断れない団体役職が2~3残っていたため、それほど忙しいというわけではないが、全く暇だという訳でもない生活だったように思う。だから、種々団体の会合や外国在京大使館のレセプションなどで親父にバッタリ出くわすようなこともあった。

 コロナ感染拡大期で初めて緊急事態宣言や移動制限がかかったときには丁度東京にいる時だった。当然、地元に戻るどころか、自宅から出ることもままならなくなっていた。それまでも健康には気を付けていたし、出かけるときは車などは呼ばず、必ず歩いて駅に行き電車に乗った。しかしコロナ感染拡大期になると、出かけるとしても近所の散歩程度になっていたようで、少し気の毒に思った。そして時々地元の話をした。頭から離れなかったのだろう。

 一方で、単なる望郷爺になっていたわけではなく、毎日のように流れるニュースには気をもみ、政策の動向には関心を寄せ、日本の将来を案じていた。それでいて家族に対する気遣いは、それまで以上になっていたように思う。そうした中で、冒頭にも書いたが6月初旬頃に急に食が細くなった。米寿を迎える年齢にしては元気であったし、頭の回転も速かったが、そのころから急に動作が遅くなっていった。ただ、親父が何度も私に、がんばれよ、と言ったことが気になっていた。もしかしたら何らかの覚悟をしているのかと考えることもあった。ただ親父の様子をみていると、この親父が死ぬわけがないという直観もあった。

 親父が病院にお世話になってから、毎日、考え続けたことがあった。それは、親父が人生で最も苦しい時に非難をしたお詫びと、人生で一度も素直に感謝を伝えたことが無かったことだった。どこかにすれ違いがあるまま、一度もそれを口にせず、素振りを示したこともなく、むしろ悟られないように努めていたという方が正しいかもしれない。だから、どうやって伝えようかと思いを巡らせていた。

 そして私は、自分が入院していたベッドの上で、退院したらその次の日に伝えようと心に決めた。しかし、退院した次の日の朝、病院から危篤の知らせが届いた。術後の体の痛みも忘れ、私は病院に急行したが、着いたと同時に、まるで言葉なんかいらないとでも言うように、親父は静かに眠りについた。全く良い息子ではなかったように思う。恐らく人生で最大の悔やみとなるであろうことは十分に覚悟している。だからせめて、今は素直に気持ちを伝えたい。ごめんなさい、そして、ありがとう。

■付録)ゆで卵と爪楊枝

(この文章は、2010年当時、税理士政治連盟による秘書から見た政治家と題した特集物に寄稿した、私が親父について書いた唯一のエッセーです。)

ゆで卵の、爪楊枝(ツマヨウジ)の刺さりたる姿や大野なり。でっぷりと突き出たお腹に細く短い手足。まさに讃岐男ここにありではないか。後援者の皆さんには「姿かたちだけは弘法大師なり」とおどけてみせるが、仕事は寸文の隙も許さぬほど厳しい。ただ、厳しいが故に、その容姿が何重にも増して滑稽に見える。さらに、人間が見せる些細な仕草が大野の人間味を際立たせる。真剣になるほど指を弾く。少し照れると後頭部を手のひらでポンと軽く叩き、忙しいと鼻の頭を指で弾く。親しい新聞記者からも種々教えて頂いた。繰り返すが仕事には厳しい。小生は仕事で指導を受けるたびに、ゆで卵を想像している。

木枯らし吹きすさむ頃、国会周辺では党内や省庁間の折衝で一種独特の雰囲気につつまれる。税制や予算の編成作業だ。与党時代の自民党では、各方面から様々なご意見を頂きつつ、当たり前だが最後の数値まできちんと詰めた議論をしていた。ゆで卵も例外ではない。爪楊枝を駆使して、10ではだめだ12だなどと、よく議論をしていた。そうした仕事には、かなりのエネルギーが要る。肉体的にも精神的にも激務となる。

「大野さん、なんでそんなに元気なんな」。大野が最も頂く質問だ。傍から見ていると、確かに訪ねたくなる言葉だ。国会での仕事は日によってはそれこそ徹夜に近いこともある。しかし大野は一度も疲れたなどという言葉を口にしたことがない。「そりゃ決まっとるがな。みんなから頑張れって元気を頂くからや」、と、いつもの張りの良い明るい声をお返しする。

人間不思議なもので、支えていただける人たちがいるだけで頑張れる。苦しくても、頑張れと言って頂いた人の笑顔を思い出せば、前へ進める。心の触れ合いとは、どれほどのエネルギーを持つのだろうか。大野の活動を見ていると、つくづくと感じる。現代は自己責任型のドライな社会になりつつあるが、ゆで卵は、人との触れ合いを大切にしている。大いに共感するものである。

結びに当たり、税理士の先生方には日頃のご活動に対しまして深甚なる敬意と感謝を申し上げ、益々のご活躍をご祈念申し上げる次第です。

お知らせ(訃報)

各位

去る7月16日、父、大野功統が亡くなりました。満87才でした。先月中旬頃、急に体調を崩し、母が心配して病院に連れて行ったところ入院を勧められ、爾来、療養中でしたが、それからたった約1か月後のことでした。

生前、父が皆様から賜りましたご厚情に、遺族を代表して心から厚く御礼を申し上げます。また、早々にご弔意をお寄せいただきました全ての皆様に、改めて感謝申し上げます。父は常に真心というものを大切にしていました。現職であった頃、皆様から頂いた多くの笑顔が、父にとっては何よりであったし、全ての活動の原動力でもあり、一生の宝物としていました。

後日、ささやかながら地元及び東京にてお別れ会を執り行いたいと思います。改めて皆様に感謝と御礼を申し上げ、ここに謹んでお知らせいたします。

マイナンバーカード

マイナンバーカード(MNC)を巡るトラブルが全国で相次ぎ報告されていますが、批判の方向に疑問を感じるものがあり、それは誤解や認識不足によるものもあり、結局それが世間に喧伝されて不安だけが残るという、日本のお家芸に陥るのもよろしくないと思っています。そこで、マイナンバーカードのトラブルを私なりに解説し、正しい批判の方向になる一助となればと思い、ここで取り上げることにしました。

■一連の問題の現象を整理すると以下の通り。(括弧は5月末NHK報道から)
A)マイナ健康保険につき他人のデータが登録された。(約7,300件)
B)コンビニで公的証明書発行したら他人の書類が出てきた。(27件)
C)公金受取口座に他人の口座が登録された。(11件)
※その他のケースもありますが、現象は概ねこの3パターン。
※令和5年7月2日現在で8,787万枚取得のうち約0.008%に相当。

■原因を整理すると以下の通り。
1)データ入力
 ・医療機関や保険団体等の窓口での本人確認方法の誤り(A)(※)。
 ・認識不足による申請者本人の誤入力(子のに親の公金口座を登録等)(C)。
2)システム不具合
 ・システムベンダーのシステム不具合(B)。
 ・誤入力防止の措置が不十分(A,C)。

■認識(データ入力)
・窓口でルールに基づかない方法で誤登録されたのは遺憾。(※)
・ルールの徹底は必要。一方で、誤登録は防げない。
・作業現場では再チェックもしていなかった。
・政府も再チェックを現場に要求していなかった。
・誤登録も問題だが誤登録のリスク管理も問題。

・一方で、MNC導入による窓口負担の批判がある。
・そもそも既存方法でも本人確認ミスやなりすましが多発。
・これらは巡り巡って国民負担になっている。
・MNC導入はミスやなりすましを防ぐため。
・MNC導入で窓口機関の負担軽減にもなる。
・既存方法でのミスやなりすましに関する報道は皆無。
・報道されたら問題で、されなければ問題にならないのは問題。

・MNC制度の信頼性が揺らいでいるが、制度自体の問題ではない。
・返納ケースを見受けるが全く関係ないし逆効果。
・デジタル移行が完了すれば手作業問題は収束。

・紐づけ作業の指針徹底と再発防止に全力を尽くす必要。
・利用者が自ら紐づけ結果を一度チェックすることが望ましい。
・マイナ保険証に関するお問合せは0120-95-0178

(※)窓口で、マイナンバーという番号(カード取得の有無に関わらず全国民に附番)が分からない場合、氏名・生年月日・性別・住所が一致することをもって本人確認することになっていますが、名前だけなど一部の一致のみで登録した医療機関や保険団体がありました。この感覚を私は疑います。

例えば名前だけだと、全国民の中には同姓同名が絶対にいるはずで、名前だけから本人を特定するのは不可能であるのは明らかにもかかわらず、そして国が繰り返しマイナンバーが分からない場合は、氏名・生年月日・性別・住所を確認するよう通知しているにもかかわらず(されてなくても分かるだろうと思うのですが)、医療機関や保険団体の窓口担当の中に国の方針を無視して例えば名前だけから登録したということでした。

■認識(システム不具合)
・ベンダーによる不具合発生は遺憾。いわゆるバグと推測。
・マイナンバー制度に固有の問題とは言えない。(システム開発に付き物)
・システムベンダーにおいて、早急な障害復旧と再発防止が必要。
・発注者の行政側も発注仕様見直し等を通じた再発防止策が必要。
・本質は、データ入力に掲げたものと同様、リスク管理。

■概括
一言でいえば急ぎすぎたのだ、という意見が太宗を占めていますが、私はミスを前提としたリスク管理の問題だと認識しています。実は手作業もありながら、99.992%で正しく登録されているということは、驚くほど移行作業の精度が高いとも言えます。しかし間違われた人はたまったものではないので、絶対にあってはならないのは確かです。徹底究明と再発防止は論を待ちません。一方で、移行を乗り切れば本人確認の精度が現在より遥かに高くなることは共有すべきで、移行期のミスだけを鬼の首を取ったかのように指摘し、制度移行自体を否定するべきではないはずです。

マイナンバーカードの健康保険証利用について マイナンバー(個人番号)制度・マイナンバーカード

政治と正義

(写真:大正時代の内閣総理大臣原敬-国立国会図書館)

安倍総理が凶弾に倒れてもう少しで1年になります。未だにふとした瞬間に、ご薫陶を頂いた場面を思い出し、複雑な思いをすることがあります。国際社会で信頼を勝ち取った真の国家的リーダーと、直接ご薫陶を頂いた大先輩を同時に亡くしたというだけで、既に言いようのない阻喪でしたが、非道な犯行によって倒れた故人に対して追い打ちをかけるような心無いコメントを浴びせる一部のメディア出演者、そしてそれに反論を許さないかのような当時の世相に、到底言葉にならない複雑な思いであったことを今でもはっきり覚えています。政治家としてその思いを完全に消化するには時間がかかるように思います。

ただ世相というものが幾分かの変化の可能性を持っているのだとすれば、この複雑なる思いを解きほぐせることもあるのだろうことも信じていたりします。歴史家の筒井清忠先生は、明治以来の政治家暗殺について、当時の世相も併せて広範かつ詳細な研究成果を発表していますが(月刊VOICE)、その歴史的視座の中で、政治に対する日本特有の世相に警笛を鳴らしているように感じます。

そうした特殊に湿った感覚の事柄を、未だ生々しい感覚が残っている中で、自信をもって振り返る勇気を私は到底持ちあわせていませんし、暗い話題を持ち出すことが適当かどうか迷いもあります。それでも世相というものが、日本を正しい方向にけん引するようになればと願い、筒井清忠先生という稀有な歴史学者の著作に勇気を貰い、あえて振り返ることで、政治に対する日本の世相が世界の中でどのような立ち位置にあって、歴史と言う時間軸の中でどこにあり、更に言えば、政治と密接に関係があるはずの正義とは日本人にとって何を意味しているのか、一度立ち止まって考えることも必要だと改めて思いなおすに至りました。従って、本稿は、ただ雑感を書き残したものに過ぎず、何かを提言するものではないことを予めお断りしておきます。

(歴史)

筒井先生によれば、明治新政府成立後の平時における初めての政治家暗殺は、未遂も含めれば岩倉具視であったらしい。そして明治期と大正期では、動機や目的にそれぞれの特徴があると言います。明治期は、公憤を原動力とした専ら政治的な目的であった一方で、大正期になると、政治目的は散逸し、自らを社会弱者の代表と擬し、権力者を勧善懲悪的に狙うものとなり、更には公憤とは懸け離れた個人的怨恨でも、対象が誰であれ、公人のように言動に批判が伴う職にある者であれば特に、メディアを通じて世間を驚かせ、時には同情を伴って世論を巻き込むことで、社会に復讐することを目的とした、極めて歪んだ卑劣な犯罪構造を形成していきました。

明治初期には、武士道精神が色濃く残る時代にあって、天下国家を論じることを生きがいとした志士が多かった一方で、時代が下り明治後期から大正期になると、富国強兵という国家目標が達成されたと受け止められたことから、むしろ個人的精神や人道的精神が重んじられる時代に変化していき、徐々に内向きの精神修養による人間形成を説く修養主義文化が育っていったと指摘しています。こうした世相が政治家暗殺の様相をも変えたと言えます。

ただ、そうした政治家暗殺をメディアがどう報じたのかという一点においては、時代を通じて共通の側面があり、犯罪者に対して同情的なものが大なり小なり入り、それに呼応するかのように世論が形成されています。ごく一部でも同情的な意見がメディアを通じて世論に積極的に反映されれば、世論として構造化され、新しい世相を生むことになります。このことは、法治国家と民主主義を考える上で、重要な示唆を含んでいるように思います。特に、その後に続く昭和の軍国主義を形成するに至るポピュリズムとの関連を想起させるものがあります。以下、筒井先生の文献から何例かを先生の論考とともに紹介します。

(明治期)

先に触れた岩倉具視の事件では未遂に終わったために政治的にも世論的にもそれほど大きなインパクトではなかったらしい。しかし、その直後の紀尾井坂の変や伊勢神宮不敬事件では、実際に対象者の命が奪われたために大きく報道されました。

〇紀尾井坂の変(1878)
―公憤を原動力にした専ら政治目的の事件

紀尾井坂の変は、大久保利通が、島田一郎という暴漢に襲われた事件ですが、当時は西南戦争まで続く不平士族による反乱事件の敗北者達の怨恨が、溜まりにたまって大久保利通に集中していたため、島田一郎らによる斬奸状まで持った襲撃は、不平を持つ層からは賞賛されるほどでした。事実、島田一郎は藩閥政治に抵抗し政党政治の先駆けとなったとして、東京浅草本願寺の憲政碑に、伊藤博文・大隈重信とともに合祀されているといいます。

〇伊勢神宮不敬事件(1887)
―公憤を原動力とするもメディアとの関係が指摘される事件

伊勢神宮不敬事件は、初代文部大臣森有礼が、山口県萩生まれの国粋主義者、西野文太郎に刺殺された事件で、今でも報道被害が疑われています。その報道とは、事件直前に新聞に掲載された「とある大臣が伊勢の神宮を訪れた時、土足禁止の拝殿に靴を脱がずに上がり、目隠しの御簾(みす、すだれ)をステッキで払いあげ」た、というもので、皇室に対する不敬だとして世論が激昂しました。当時から森有礼は急進的な欧化主義者であったとされていたため、「とある大臣」は森有礼とされ、伊勢神宮の造園係であった西野に暗殺されます。

事件後もメディアは殊更に急進的欧化主義者であることを強調したため、西野に同情が集まった。当時、日本にいたアメリカ人天文学者のパーシバル・ローエルという人も、さすがに日本のメディアが西野を称えることを批判したという記録が残っているそうです。また、西野のことを丁寧に調べて書籍にした者もあって、さすがに発禁となったそうですが、墓石が願掛けの対象になったらしく、高村光太郎は子供の時に墓石を砕いて持つと宝くじによく当たったと回想しています。

(大正期)

〇安田善次郎暗殺事件(1921)
―明治的武士道精神と大正的個人主義精神が融合した独善的社会正義

安田善次郎暗殺事件は、安田財閥創設メンバーで東大安田講堂を寄贈した安田善次郎を、朝日平吾が刺殺した事件です。被害者は政治家ではなく財界人ですが、当時安田は世間から「自己一身の私利を願う他を顧みない残忍な有害餓鬼」として扱われており、世相を色濃く反映した事件だと言えます。

朝日平吾の経歴を辿ると、北一輝を理想としながら柔軟な着想で公益を追及しようとする信念が伝わってきます。裕福な家庭に育ちながら二十歳で従軍も、劣悪な部隊規律に嫌気がさして脱退。その後、通信社で言論活動を展開し実践に及ぶも、突如帰郷して旅行具店を始める。しかし、近代史上最大のストライキ争議に全財産をつぎ込み破産。憲政会に入り皇室中心の民本思想に立脚した政治にのめり込んでいき、平民青年組織立上げに奔走。ところが限界を感じたのか突如として政治から離れ、一旦は宗教活動に加わるも飽き足らず、最終的には弱者の為の社会的事業だとして「労働ホテル」建設に着手。安田を刺殺するに及んだのはその頃でした。

朝日は、明治から大正に漂う世相の全てを体現し、社会正義のためとして商売から宗教までのあらゆる手段を尽くし、最後に事に及んだと言えます。吉野作造は、鋭くこの事件の本質を突いています。要すれば、社会の不義に自らの命を賭す武士道精神がまだ残り、富の配分に関する新しい思想も動いていた時代。金の為なら何でもありという事業家がいるのであれば、武士道精神と新時代の理想の混血児たるこの青年が、公憤に激して何をしでかすかわからない、ということを我々はよく理解しなくてはならない、という言論でした。

〇原敬暗殺事件(1921)
―個人的憤懣を社会に転嫁しようとする日本初の劇場型犯罪

原敬暗殺事件は、当時の内閣総理大臣原敬が中岡良一という暴漢に暗殺された事件です。その背景から様々な憶測や陰謀説が流布されていますが、現在では個人的事情によるものだとされ、政治的な動機は皆無であったとされています。原敬は、平民宰相として現在では比較的好意的に評価されることが多いのですが、満鉄疑獄やアヘン疑獄などのスキャンダルに関連して報じられるなど、当時の評価は大変厳しい。そうした事情で、原敬自身も暗殺される可能性を認識しており、戦後になっても多くの陰謀説が出回ったのは、そうした背景によるものだと思います。

結局のところ暗殺の動機は、鬱憤晴らしとでも言うような個人的事情、即ち恋愛感情であったことが分かっています。中岡には、そもそも政治的な言論活動で物事を解決しようとする意識は希薄だったらしい。どうしてそれが暗殺に結び付いたのか。

中岡は縫子(ぬいこ)という初恋相手に人間愛的な深い恋愛感情を抱いていますが、その背後にあるのは、中岡が置かれた境遇からくる憂鬱でした。若かりし頃の中岡は早くから父親を亡くして生活に苦労した一方で、白樺を好んで読んでいたことから、武士道精神への反発と、個人主義・人道主義・生命主義への傾倒がみられます。一見すると、社会正義からくる暗殺とは全く相いれませんが、前者が拒絶されれば、その反動として後者が復讐的に浮上し肥大化すると言うことは起こり得ると筒井先生は指摘します。

取り調べ尋問の中で中岡は、「原首相を暗殺しなかったら縫子と一緒になれぬということを考えたか」という質問に、「両立せぬから片方を断念しました」、と答えています。自分を映画のヒーローに擬し、メディアを通じて事件が世の中を驚かせ、それが自分の恋を否定した社会への復讐となることを最初から予期して、メディアでの名声を追い求めたという、典型的な劇場型暗殺事件だとも指摘しています。

(民主主義の礎とメディアリテラシー)

安倍総理が凶弾に倒れた際、党内では激しい感情の揺れとともに、犯人の動機や事件の背景に注目が集まりましたが、原敬暗殺事件同様、残虐な行為でメディアの注目を浴び、それを利用して社会を変えようとした誠に非道な試みであり、明治時代のような政治目的は皆無でした。そして事件に対して党内では、政治目的ではない以上あくまで犯罪だとする認識もありましたが、民主主義への挑戦だという認識が広がっていました。

しかしそうした政治的な認識を確立したところで、報道は予期せぬ方向に向かう。あまりに衝撃的な事件に、当初は個人の業績や各国からの追悼コメント、更には犯行の分析が詳細に報じられていましたが、犯人の動機と背景が紹介されるに従って、徐々にその置かれた境遇に同情が寄せられ、次いで自民党と宗教団体との関係に焦点が当てられ、原敬暗殺事件と同様に在りもしない憶測に基づく陰謀論まで横行し、それぞれに対する批判が展開されていきました。報道の焦点は故人から外れていき、全体として巻き起こる政治批判が、故人の功績に霞をかけるように消し去っていく様を感じ、無機質な画面の冷酷さを恨んだことを忘れはしません。

いずれにせよ党内は世論に沿って霊感商法の被害者救済に関する法的措置の議論に向かいます。私は当初、議論の方向の是非は別としても被害そのものが顕在化しにくい性質のものであるとの認識のもと、まずは実態調査を徹底し、その上で個別被害は消費者契約法等に基づいて司法で争うべきとの視点に立っていました。そもそも4年前に霊感商法による契約取り消し(返金)を法的に可能にしたのは安倍政権で、法律等に不備不足がある場合は、改正して被害者救済を行うべきと考えていました。

特に実態調査の法的基盤と運用基準の明確化は必要だと考えていました。透明性の観点で、被害情報が多い場合は躊躇なく調査するか、定期的な報告を求める方向の話ですが、もし事件前にそうしていれば、この事件も生じなかったのではないかと悔やまれてなりません。いずれにせよ、その後の被害者救済のための法改正の動きはご承知の通りで割愛しますが、法改正の意義は当然あるとしても、犯人の蛮行が既に全く報じられなくなった中での改正で、しかもそれは結果的に犯人が望むであろうことでもあり、テロ対処の国際的常道に照らしても感覚のねじれを感じざるを得ませんでした。その上、故人を追悼する静かな一時も許されなかったことは、感情の整理を困難にしたように思います。

結局のところ、政治がメディアによって消費されたと感じる部分がありました。それはもしかすると政治家という存在が、世間からは生身の人間であることが忘れられ、ある種の抽象的な概念と見做され、どれだけ非難し痛めつけても構わないと受け止められているからかもしれません。コロナが蔓延し始めた際の心無いSNSの書き込みに、人間の恐ろしさを感じたりもしました。もちろん政治家である以上、どのような政治批判であっても甘んじて受けるべきと認識してはいます。なぜならば権力は監視下に置く必要があるからで、その意味ではメディアの独立性と報道の自由は民主主義の礎であることは基本的に絶対視すべきです。

ただ、メディアの本質的機能が権力監視なので、その前提として政治は悪であることに置かざるを得ず、それが時には世論を巻き込んで必要以上に糾弾し政治を消費する構造は、時代が下っても変わらないということを思い知らされた今、権力の監視を受ける側の政治家として、民主主義の礎と言うだけでは受け止めきれない不条理を感じざるを得ません。伊勢神宮で不敬に及んだのが森有礼であった証拠はなく、側近はむしろ否定しており、結果的に印象が操作され暗殺されたのだとすれば、権力の監視や報道の自由が民主主義の礎だとしても、必ずしも受け止めきれないものがあります。

もちろんこれは、既存のメディアのビジネスモデルでは避けられない構造的問題です。印象操作ぎりぎりの切れ味の鋭いコメンテーター登用で視聴率も広告収入も上がる構造で、最近ではネット媒体に押されて更なる鋭さを求めるようになっています。一方で、メディアが権力監視の報道を続けても、結果的に視聴者から飽きられて報道を中断すると、野党などの反権力サイドから報道は腰抜けだと突き上げられることもあるのだと思います。結局メディアがいけないというよりもビジネス構造の問題である以上、翻弄されるのは国民や政治であるという認識を視聴者や読者がリテラシーとして持つべき大きな課題です。このことは、横行する偽情報への備えともなるはずです。

(政治家と有権者の距離)

先ほど、政治という存在が、巷からは極度に抽象化されているのではないかという指摘をしましたが、これは政治と有権者の距離感の問題でもあると思っています。すなわち、自分らが選んだ代表が暗殺された、と思うのか、世間で批判もあった有名人が暗殺された、と思うのかは、政治と有権者の距離感に大きく影響をうけるのだと思います。

林芳正外務大臣に最近お聞きしたところによりますと、アメリカでは政治学を学ぶ学生に、社会統計を調査するよう指導するとのことです。統計の内容は何でもいいそうですが、条件を1つだけ付すらしい。その条件とは、必ず国会議員の事務所にアクセスして調査すること、の一点だそうで、学生に対して国家へのアクセスを実体験してもらうことが目的なのだとか。思えば殆どの国民は、あえて政治家との接点を持とうと考える人は少ないのだと思います。

アメリカがそういうプログラムを実践しているのは、アメリカでも国民にとって国会議員は遠い存在だからだと思います。しかし、そうした国家へのアクセスの意味合いを学生に積極的に教えていることが理由かどうかは別として、国家運営への関与意識、参政権としての国家への自由、という意識は、日米で決定的に違っているように思います。当該プログラムに参加したアメリカの学生は、国会議員事務所へのアクセスは想像より遥かに容易だったとの感想を持つそうで、距離感は近くなるのだろうと想像できます。

結局、政治家に限らず人間というのは外見だけでは分かりにくい。外見というのは準備されたものですから、準備された演説やテレビでの解説も含まれます。逆に言えば、準備を全くしていない自然体の時の雑談や普段の行動などでしか分からないものだと思います。従って、どれだけ努力を重ねたところで、人間性まで含めて良きにつけ悪しきにつけ評価頂けるのは、直接接することができる地元有権者か仕事仲間である同僚議員や官僚達に限られてしまいます。国家的リーダーの場合、その生身の人間性をメディアが等身大に伝えない限り、等身大の評価を全国民から頂けるわけがありません。

(正義の裁定者)

独善的社会正義(という言葉にも自己矛盾がありますが)による政治家暗殺の歴史を見るにつけ、社会正義とは何かを考えさせられます。人間生きていれば、社会正義に照らして考えるべき課題に出くわし苦悩することがありますが、恐らくマイケル・サンデルの白熱教室を100回受講しても、社会のルールがなければ直ちに解決策を見出すのは困難なはずです。そして個人の価値観で社会正義を定義づけ行動することは正義と言えないのは自明の理です。正義の絶対座標を個人で確立することは困難だからです。

例えば他人に迷惑をかけなければ何してもよい、とはリバタリアン的な自由の尊重ですが、それだけではベンサム的幸福の最大化は達成されないし道徳も無視されます。しかしベンサム的な幸福の最大化だけでは個人が無視されます。それでは道徳の尊重なのかというと価値観の多様性が無視されることは明らかです。正義は恐らくこの3つの座標軸のバランスをとって、社会で形成されている道徳的価値観を元に形成されていくもの、すなわち正義は社会に紐づいているものですから、必ず相対座標のなかで変化する可能性があるものです。だから政治が必要になる。

国際秩序の歴史を考える際、正戦論と無差別戦争観という概念があります。戦争に正しい戦争があるのかという論争は、古代からの問題提起ですが、神聖ローマ帝国が支配していた中世の欧州では、ローマ皇帝が正義の絶対裁定者として君臨していたため、皇帝が正しいとする戦争は正義の戦争とされました。これが正戦論ですが、時代が下りルターの宗教改革によって皇帝権威が失墜してから正義の裁定者が不在となり、戦争というものは法的には平等だとされ(無差別戦争観)、更に第一次大戦で莫大な被害を被ったことで、戦争は国際世論の中で民主的に違法化されました。斯様、正義の裁定者がいなければ無秩序に被害が拡大するのが人間社会であり、政治の役割は民主的裁定で秩序を安定化させることです。

もちろん正義に基づく民主的裁定以外にも、学術的な絶対的正しさにも基づく必要があります。すなわち政治は、相対的な価値軸である正義と、絶対的な価値軸である学術を、民意を通じて民主的に裁定する機能であると言えます。そしておそらくその裁定結果というものは、先ほど触れた功利主義と自由主義と道徳主義のバランスから外れるものを、規制か誘導かの政策で規律することに結果的になっているのだと思います。また、逆に政治によるルール形成が正義というものを新たな方向に時間をかけて醸成していくこともあるのだと思います。

斯様、正義は政治やメディアなどで構成される社会によって相対化される可能性のあるものですが、昭和初期のポピュリズムを見るまでもなく、歴史的視座から見れば必ずしも社会は正しい方向に向かうとは限りません。従って、正しい方向に向かうメカニズムを国家統治機構として確立することが重要です。そのためには政治が自らの権力に対して謙虚でなければならないのですが、一方で、メディアもJ.S.ミルが指摘したように世論を変え得る第四の権力として重要な役割をもっているわけで、自らの権力に対して謙虚さが必要なのは言うまでもありません。そして何よりも正義は相対化される可能性があるものだということを、社会が認識する必要があるのだと思います。

(参考文献)
本文中の歴史的考察は、本文中でも触れています通り、月刊VOICE上に発表されている筒井清忠先生の論考(2023年4月号~8月号連載「近代日本暗殺史」)によるものを参考にさせていただきました。

地元党支部大会開催のご報告

去る6月11日、党よりお預かりしております自由民主党香川県第三選挙区支部の党支部大会を開催させていただきましたところ、大変お忙しい中、党員代議員の皆様にはわざわざ足をお運び頂きましたこと、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。過去3年間はコロナにより役員会をもって総会に代えさせていただいたり、規模縮小を余儀なくされたこともありました。久しぶりに通常運営での支部大会とすることができました。これもひとえに党員各位のご理解とご協力の賜物と改めて感謝申し上げます。

今回は、党本部より、大変ご多忙のところ加藤勝信衆議院議員(厚生労働大臣)にお越しいただき、ご講話を頂きました。日頃より加藤大臣には様々な場面で大変お世話になっておりますが(直近では、民間データ利活用による社会状況把握と意思決定支援のプロジェクトや、有識者を交えた外交勉強会、更には創薬力強化プロジェクトなど)、不躾ながら無理を承知で掲題の大会でご講話賜りたい旨お願いいたしましたところ、快くお引き受けいただきました。全くもって感謝に堪えません。当日は、大変貴重なご講話を賜り、私自身も大変勉強になりました。

今国会も残り僅かですが、最後まで誠心誠意努めて参りたいと思いますので、引き続きご指導ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願いします。

大野敬太郎

中小企業政策と地域社会課題解決

(写真は党中小企業調査会PTの様子)

急激な輸入物価高騰による資材燃油高騰が続いており、事業者にとっても、消費者にとっても、非常に厳しい状況になっています。激変対策として、燃油や電気代の補助事業を行っていますが、持続可能ではないので、当面は続けるとしても、あくまでこれは臨時措置として認識しています。では政治は何をやっているのか。

今回は、昨年末から今月までの党中小企業政策調査会での17回にわたる議論と、経済財政の基本方針文書である骨太方針に向けた提言について、報告したいと思いますが、その前提となっている経済認識から触れたいと思います。(私は、伊藤達也調査会長、福田達夫事務局長のもとで社会課題解決PT座長として関与して参りました)。

〇経済の基本認識

連日のように食材の値段が上がったという報道に接して感じるように、消費者目線では、物価高を乗り越えるため、企業には給料を上げしてほしいと願うのは当然です。政府も産業界に賃上げを求めています。しかし企業としてみれば、資材や燃油高騰でただでさえ苦しいなかで、人件費に回す余力は到底ないと感じるはずです。だから政府の賃上げメッセージも地方の中小企業では冷めた目線で見られる。

ただ、よくよく考えると、30年間にも及ぶデフレと低成長で、値段というものは上がってはいけないということが日本人の骨の髄まで沁みついてしまっているのではないか。ここが本質的な問いになります。

結論から書けば、資材や燃油高騰があっても、売値に転嫁できれば経営は安定化するはず。ただ、転嫁をすると最終消費財の価格は当然上がるので、経済全体で考えれば消費者は困り、消費が減退し、経済が回らなくなる。ではどうするのか。企業には、資材や燃油の上昇に加え、人件費の上昇分も加味して、転嫁いただくことが必要という結論になります。

一方でこうした転嫁構造が進んでも対応できない業種が、政府調達を仕事としている業種です。公共事業受注比率の高い建設業などですが、そこは資材価格が上昇して転嫁しようにも転嫁先が行政なので、行政が転嫁に応じないとどうしようもない。行政の価格設定は、まず市況価格を調査して、無駄遣いをしないように予定価格を決めてから、競争入札をかけます。業者にとってみれば、落札したのはいいものの、仕事を始めたら既に資材が上がっているということもあります。現在、スライド制度で市況価格の調査頻度を上げて対処していますが、私はそもそも目標物価と目標賃金上昇を定めて、先んじて転嫁を受け入れるべきであると考えています。

一方で政府の本質的役割は、そういう構造的転嫁が可能になるよう、経済状況をマクロ政策でしっかりと支えていくことです。金利政策で雇用環境を維持し、財政政策で総需要を確保しておくこと、の2つが柱です。そのうえで、転嫁を進めるための元請けに対する「下請けからの転嫁依頼は積極的に受け入れて!」というメッセージを発出すること、それでも非協力的な元請けは社名公表を含めた措置を講じること、などです。更に細かく言えば、産業の川上から川下までで転嫁に差があり、一番弱い立場の下請けは転嫁に苦しむので、調査をしっかりとすることも重要になります。

考えてみれば、かつてバブルのころまでは、日本は世界経済をけん引できる勢いがありました。しかしそれ以降、成長はストップ。一方で海外は、少しずつ成長し、今ではアメリカの平均所得は日本の2倍近くだと言われます。海外が伸びるのは、海外では賃金が上がっているということで、それは売り上げが伸びるからですが、それはとりもなおさず売値が上がってきているということです。日銀がよく言う2%の物価上昇が望ましいという状況です。ところが日本は値段は上げてはいけないと思い込んでいる。

大手企業の内部留保が膨らんでいることが話題になることがありますが、大まかにいえば、これは海外で稼ぎ貯めている。国内市場の魅力がなくなっていると企業が感じるから海外がメインになっていますが、厳しい言い方をすれば魅力がない市場にしているのは産業界側なのだという認識があまりない。適切な値段で売って従業員にも給料をしっかりと出すことで消費も強くなり、経済は回るようになるはずです。

2012年に安倍政権が発足した当初から、こうした状況を作ろう政策を断行してきましたが、誤算があったのが雇用構造とコロナの2つ。働こうとする人が増えてきたのは良かったのですが、非正規の女性と高齢者が増えた。そこにきて、本格的に強気になれない企業が、調整しやすいからと、こうした新しい人材を非正規として採用していきました。そして正規も非正規も賃金はあがったものの、正規より比較的賃金の安い非正規の人数が増えたので、全体的な賃金は上がらなかった、という第一の誤算がありました。その後、こうした雇用市場の構造問題は2020年ごろには一巡するであろうと思っていたところに、コロナという第二の誤算があり、完全にとん挫してしまったとの認識が共有されているのだと思います。

本質的には、物価高を産業のなかで吸収する構造を作り出すことが必要で、転嫁を兎に角進めることです。転嫁構造が進んで賃金も上がれば、本格的なデフレマインド脱却のきっかけになると思っています。そしてその後に、コストプッシュインフレが収束するであろう来年に照準を合わせて、新たなブーストフェーズの政策をしっかりと用意しておく必要もあると思っています。

〇社会課題解決事業ー自民党中小企業調査会提言

自民党中小企業調査会提言

提言の基本認識は、人口減少下で人不足と後継者不足という構造的問題のなかで、1.物価高を乗り越えるための方策(上記の認識と共通)、資金繰り支援、事業再構築や生産性向上の支援という基本的かつ対処的、帰納的な視点での政策ツールの提言とともに、2.地域経済の好循環をどのように生み出せるのかという演繹的視点の政策提言です。

そこで中小企業・小規模事業者を4つの類型に分けて、それぞれに合致した支援策を講じ、これらの相乗効果で地域全体の価値向上に誘導することを提言しています。具体的には、①グローバル型(海外展開で外需を獲得し中堅企業に成長する群)、②サプライチェーン型(品質でサプライチェーンの中核企業に成長する群)、③地域資源型(地域資源を活用し付加価値の高いモノ・サービスを提供する群)、④地域コミュニティ型(地域の生活や社会を支え地域の課題解決に貢献する群)です。

その中で、地域経済の好循環を生み出し拡大するための政策として、3つの柱を立てています。第一は、①や②のように地域でスケールアップを目指す中堅企業に対して、M&A等の経営戦略支援や輸出・海外展開、イノベーション、人材・資金面の支援を重点的に投入する「100億円企業」支援。第二は、社会課題解決を新たな市場として見立てた新しいタイプのビジネスに積極的に挑戦する企業に対して、インパクト投資の拡大を中心とした支援を講じる「ゼブラ企業」支援。第三は、③や④のように地域では不可欠な企業に対して、切れ目ない継続的な事業再構築や生産性向上の支援。

どの柱も重要なのですが、その中で特に第二の柱について注力しておりましたので、触れておきたいと思います。

1.基本指針・行動指針策定

社会課題を事業として解決しよとする企業(ソーシャルビジネス)の重要性は、5~6年前から指摘をし、党内でも議論を続け、政策提言もして参りましたが、ここ1~2年で急激に脚光を浴びています。そこで、この期に、しっかりとステークホルダーの役割を明示するべく、基本指針と行動指針を策定することを政府に求めています。(実はここ数年温めていたアイディアです)。

主要なステークホルダーは、もちろん住民ですが、その他、社会課題解決企業自身と共に、自治体、地域金融機関、投資家、大企業、中間支援団体などですが、それぞれの果たすべき役割を、対象となる地域や分野、規模等の違いも踏まえて整理することが必要です。

2.中間支援団体を中核としたインパクト投資も見据えたモデル事業実施

社会課題解決事業の実施は、言うは易し行うは難し、なのですが、まずはモデル事業を実施し、そののちに横展開を図ることを求めています。当然、インパクト投資の仕組みを積極的に利活用することを念頭に置いています。

3.認証制度の仕組みの検討

社会課題解決事業の最大の難しさは、地域社会の合意形成にあります。怪しいと思われたら終わり。であれば、怪しくない健全な社会課題解決事業者を認証する仕組みを検討すべきです。基本的には行政が評価する絶対座標の認証と、関係者の間で評価する総体座標の認証が必要と思っています。ここは長らく議論をしてきたもので、難しい課題ではありますが、やり遂げたいと思っています。

4.事業拡大に向けた中小企業補助金の活用

原則として、社会課題解決事業には補助金は入れないのが基本ポリシーです。なぜならば、補助金を入れれば入れるほどダメになっていくからで、そのことは以前から指摘して参りました。ただ、そうは言っても、イニシャルコストとしてどうしてもかかる費用を支援することは検討すべきということで、既存の施策に社会課題解決事業者の枠を設けることを考えました。

5.インパクト投資・融資の普及促進

何よりも社会課題解決のビジネスは、資金調達をどうするかが最初の課題になります。通常のモノやサービスのビジネスであれば、収益を得るまでにそれほど長い時間はかかりませんが、社会課題自体が市場であるので、息の長い資金調達が必要になり、通常の融資や投資は合致しないことが殆どです。そこで、社会課題解決事業に合致した資金供給の在り方自体を創設すべきだとの結論です。

6.コーポレートガバナンスコード活用のための取組

世界のESG資金を大企業が呼び込み、大企業が地域の社会課題解決事業の支援に繋げていくメカニズムを念頭に、大企業がメリットを享受できるようにするためにコーポレートガバナンスコードを活用することを提言しています。しばらく改定は行わないことになっていますが、既存のものを活用するメカニズムの構築を提言しています。また当然、改訂されることになったら、しっかりと反映していくことも求めています。

7.企業版ふるさと納税制度や地域活性化企業人制度等の活用

最後に、社会課題解決事業に対する大企業の資金面や人材面の投資を促していく有効なツールとして、企業版ふるさと納税(人材派遣型を含む)や、地域活性化起業人制度等の一層の活用を図ることを求めました。また、休眠預金制度の更なる活用を、本年予定されている 5 年見直しの機会を捉えて推進することも求めています。

【善然庵閑話】インパール

インド北東部マニプール州、と聞いてもピンと来る日本人は少ないと思いますが、その州都であるインパールという名前は、おそらく未来永劫日本人の心に焼き付いて離れないのだと思います。その地は今、インドのモディ政権にとって国内統治の意味で最重要地域になっています。

なぜこの話題なのかというと、実は今夏にインパールでの記念式典に参加するためにインド訪問を計画していたのですが、暴動が発生したとのことで中止になったため、思いだけが取り残されたので書き記しておくことにしたものです。従って、何かを皆さんにお伝えしたいというものでもないので、久しぶりに「善然庵閑話」シリーズとしました。

(多民族多言語国家インドとグローバルサウス)

インドは多民族多言語国家であることは有名ですが、東北部ほどこの傾向は強く、マニプール州も、中心部のメイテイ族のほか、山間部のクキ族やナガ族など、多くの民族を擁しています。ただ、この辺りはモンゴロイド系が多いため、日本人と見た目はそれほど違わず、インドらしくないインドなどとも言われているらしい。

多民族国家を統治するのはどの国でも大変で、インド政府もいわゆるアファーマティブ・アクションの一環で、指定部族に対して就職や税制や土地占有などの優遇政策を講じていますが、何をするにしても政治的にセンシティブな問題です。今回のインド北東部の暴動騒ぎも少数民族を巡る争いで、具体的には、中心部のメイテイ族が指定部族に入っていない(優遇されていない)のは違憲だとするマニプール高等裁判所の判決があり、これをきっかけに、周辺少数民族からの大反発とデモが始まり、内乱に発展したとされています。

参考)日本経済新聞)インド北東部、部族間の衝突で54人死亡(5月7日)

現在は、当局が強力な法的措置を講じて、発砲許可を与えた上で1万人規模の軍や機動隊からなる治安部隊を派遣し、デモを鎮圧しているために徐々に混乱は収束傾向にあるようですが、17日の時点で73名の死亡者、243名の負傷者、4万人規模の避難民が発生ということですから、暴動規模は決して小さいものではありません。現在も、ネットや物流の遮断、小規模衝突は継続していると言います。

政治的には、クキ族選出の州議会議員がメイテイ族中心の州政府運営を厳しく批判してクキ地区の自治権を求める運動を展開、また州住民は暴動処理で中央政権の積極関与が見えないとの批判があり、さらに言えば、そもそも暴動の背景にミャンマーからの避難民増加によるクキ族人口増加、ミャンマー国境の麻薬栽培、地政学的観点など、様々な憶測があることが、混乱を強めているように見えます。

実はこうした混乱は過去にも何度も発生しています。それだけ、多民族国家の統治は日本では考えられないくらい大変だということです。そして、そのためのインドの統治機構は極めて特徴的なものになっています。その典型例が、全インド公務職と言われるもので、地方州政府の課長級以上のポストは全員中央政府から派遣されるというもの。優秀で意識の高い人材を中央で一括採用して地方に配する代わりに、強大な権限を州政府に移譲しているとも言えます。

いずれにせよ、インドは、いわゆるグローバルサウスと呼ばれる新興国や開発途上国側のリーダーだと自ら自認しており、国際場裏ではその存在意義と発言力が益々高まっていますが、そのインドの政権が抱える決して小さくはない課題が、国内の統治システムと民族間対立であることは、しっかりと認識しなければなりません。

(インパールと日本)

インパールが日本で有名なのは、旧帝国陸軍が大東亜戦争で最も無謀と言われた作戦の攻略目標地点だったからに他なりません。この作戦の戦略目的は、インドを英国から独立させること、そのためにビルマ防衛、そして補給路である援蒋ルートの遮断でした。援蒋ルートは正確に言うと4つのルートがあったようですが、インパール作戦は最後に残っていたビルマルートの遮断を狙ったものでした。そして、最も無謀との汚名通り、この作戦で7万人近くが戦死しています。そして、もっと悲惨なことに、作戦失敗後から敗戦までの約一年間で、更にこの地で10万人の将兵が命を失ったと言われています。

私が非常にシュールだと感じるのは、敵の補給路を断つという作戦で、自らの補給を考えていない、ということです。全てが現地調達を前提としているのですが、そのための情報収集もなければ細部計画もなく、従って各フェーズの実行可能性も検討されていないという有様でした。実はこの作戦は俄か作りのものではなく、開戦当初から大本営陸軍部によって企画されましたが、当時も非現実劇であるとして多くの参謀から否定されていました。実際の作戦指導をしたのは、牟田口第15軍司令官ですが、牟田口が大本営に参謀として勤務していた時は、この作戦には否定的であったと言う記録が残っています。

なぜ牟田口が転向したのかは分かりませんが、ミッドウェイ海戦で海軍が壊滅的打撃を喰らった以降、徐々に敗戦色が強くなっていく中で戦争指導部の意識も暗くなっていたものを、何とか起死回生の一撃で立て直しを図ろうとしていたのではないかとの解釈が一応は共有されているように思います。だとしても、全く成功する見込みのない作戦は、当然起死回生にもならないのは明らかです。

一方で、日本目線のインパール検証が多い中、笠井亮平先生は、英印目線のインパールの戦いを書いています。イギリスでは、開戦直後から日本軍の快進撃で撤退を繰り返し、インドがアジアの最後の砦になっていたこと、反転攻勢の機会を常に狙っていたこと、そのために緻密な情報収集と細部の作戦計画を立てていたこと、全体としてはイギリス優位で進んだ戦いだったものの、戦局を左右しかねない局地戦では辛うじてイギリスが勝っていること、などから、イギリスでは、「東のスターリングラード」ともいわれ、ノルマンディーやワーテルローを押さえて歴史上で最も重大な戦闘であったとしています。

いずれにせよ、名著「失敗の本質」だけではなく、多くの著作で細部にわたって検証されているインパール作戦。大きな組織が犯す失敗をしっかり学び、そうしたことに陥らないよう、体制・制度・運用・意識の各面から常に検証する必要が議会にはあります。

(参考:インパールに関する過去の投稿