謹賀新年ーイソップ物語に学ぶ丑年の教訓

丑年の新しい年を迎えました。謹んで新春のお慶びを申し上げます。皆様方には、公私にわたり一方ならぬご厚情を賜り、心から感謝申し上げる次第です。

さて、昨年は、中国武漢で発生した新型コロナウイルス感染症に翻弄された一年でした。瞬く間に全世界に広がり、社会経済活動の縮減から、消費・生産・労働というあらゆる側面で経済的に深刻な打撃となり、世界を苦難の底に突き落としました。今年こそは有効なワクチン配布による終息を願いますが、現時点では未だに感染に対する漠然とした不安が蔓延しています。

コロナ禍で抱えた不安という要素は、社会に深刻な傷跡を残しました。一時は、ウソやデマも拡散されました。自粛警察という、社会正義を掲げて世をただす運動も盛んになりました。マスク警察や休業警察などです。しかしこれらは独善的正義であったように思います。主観的正義や独善的正義ではなく、社会の知恵として対処するためには、全員が正しい情報を持たなければならないはずです。

丑年で思い出すのが、イソップ物語の「3頭のウシとライオン」です。仲良く草を食べている3頭のウシを1頭のライオンが狙う寓話ですが、3頭同時に狙うのは困難と見たライオンが、ウソやデマを流してウシを分断させることに成功し、順番に餌食にした話です。ライオンの餌食になったのは、ライオンが狡猾であったからに他なりませんが、ウソやデマを簡単に信じてしまったこと、仲間を信じなかったこと、も教訓として現代に伝えているのだと思います。

社会不安というものは、社会分断を増長し、批判と混乱を招くものです。国内だけではありません。各国で格差から生じたポピュリズムにより自国主義傾向が強まっていた中で、コロナ禍の移動制限やサプライチェーンの自国回帰がそれを加速したように見えます。

そうした時代だからこそ、仁を大切にし、協調を尊び、それでも敢えて一人で進まざるを得ない時には、あらん限りの力を尽くして状況を分析し、果敢に挑戦する、という態度が大切なのだと思います。コロナ禍で目指す社会像から離れていく様相を目の当たりにし、改めてイソップ物語の「ウシ」の教訓をかみしめて、理想を着実に実現していく努力を続けたいと思います。

最後になりましたが、皆様方には今後とも引き続きご指導ご鞭撻を賜りますよう心からお願い申し上げます。

必要最小限度の自衛力/グレーゾーン事態対処の問題点

先日、安全保障と国際法を専門にしている東京の某大学の博士課程の学生さんから、インタビューをしたいとのお申し出があり、リモートミーティングとしてお引き受けすることにしたのですが、これまでの私の発言記録なども入念に調査のうえ、ものすごく丁寧な質問内容を事前にお送り頂いたので、それに感動して、改めて、議論したことに基づいて、私の考え方を整理しておきたいと思い立ちました。

内容は、保持できる必要最小限の自衛力の意味と憲法について、そしてグレーゾーン事態についてでした。すこし長くなりますが、お許しいただければと思います。

1.必要最小限度の自衛力とは

人類は19世紀から20世紀にかけて国益を争い幾多の困難を乗り越えてきました。そして現在は当時より遥かに平和を享受できる世の中になりました。その過程で、国際社会は、紛争を回避するための努力を重ねてきました。第一次大戦後、紛争を回避するため、ケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)が締結され、戦争が違法化されましたが、戦争の定義も不明確であり、また19世紀から発達した概念であった自衛権の行使は留保されました。その結果として自衛権の拡大解釈が横行し、第二次大戦が勃発。これの反省として、第二次世界大戦後に、国連憲章にて明確に武力行使自体が違法化・禁止され、違反国には経済制裁や国交断絶を課しました。そしてその武力攻撃を受けた際の対抗手段として、国連安保理が紛争処理をするまでの間について、加盟国に自衛権が認められました。

(国際法上の自衛権)
当然自衛権が正当化される条件というのも国際社会は判例という形で紡いできました。その歴史は意外なほど深く短いものですが、代表的な判例は、武力攻撃の定義や集団的自衛権の正当化要件を示した「ニカラグア事件」(1985)、核兵器による自衛権行使の合法性に関する勧告的意見を示した「核兵器使用合法性事件」(1986)、個別的自衛権の合法性を示した「イラン油井事件」(2003)などです。

ニカラグア事件とは、ニカラグアが周辺国への武力攻撃を行ったことに対して、米国が集団的自衛権を援用してニカラグアの反政府組織コントラを支援し軍事介入した事件のことですが、ニカラグア政府は米国の介入は違法だとして国際司法裁判所ICJに訴えます。このことをきっかけに武力攻撃と自衛権の解釈が定着していくことになります。

ICJは、武力行使を「最も重大な諸形態(武力攻撃)」と「他のより重大でない諸形態」の2つに分けるべき、つまり「武力攻撃」と「そうでないもの」に分けるべきこと、武力攻撃であるかどうかは「規模と効果」によって区別されるべきこと、更には集団的自衛権が正当化されうる要件として、武力攻撃が存在し、反撃の要請が存在し、反撃行為に「必要性」が存在し、武力攻撃と反撃行為の間に「均衡性」が存在すること、が示されました。これはあくまで集団的自衛権に関する解釈でしたが、その後、イラン油井事件で個別的自衛権についても「必要性」と「均衡性」の2つの要件が確認されました。

つまり整理すると、自衛権の行使要件は国際法上は「必要性」と「均衡性」だということが定着しているということです。そして武力攻撃は規模と効果で区別されるということです。

(日本での自衛権)
一方で日本はどうか。広く知られている通り、自衛権は憲法上明記はされていませんが、独立国家である以上、主権国家として当然の固有の権利とされています。ただ、憲法上保持できる自衛力は、自衛のための必要最小限度のものでなければならないとされています。

必要最小限度というのは憲法が要請する解釈だというのが定説で、一般的な言葉としては受け入れやすい。しかしながら、実際の政治の現場に立つと、その定義の曖昧さから、様々な議論を呼んできたのは事実です。つまり、必要最小限度とはなんぞや、ということです。

(必要最小限の意味するところ)
なぜあいまいなのかというと、それは絶対的尺度に基づくものだからです。当たり前ですが、必要最小限というのは相手や状況によって変わってきます。目には目を、刃には刃をですから、相手や状況が決まらなければ何が必要最小限化は決まらない。従って、当然相対的尺度で解釈すべきものです。しかし、反対のための反対論者は、絶対的尺度で解釈しようとする。この観点からすると、国際法上の必要均衡というのは相対的尺度になっていて合理的です。もちろん、必要最小限という言葉を、さらに解釈を加えて必要均衡とすることもできますが、そもそも国際法とは違う表現をする必要性もないわけですので、必要最小限は必要均衡とすべきものなはずです。

(憲法改正論議と必要最小限)
18年の自民党憲法改正論議では、戦争放棄と戦力不保持を定める9条について、自衛隊を明記することが検討されたのですが、焦点は戦力不保持と交戦権否認を定める2項にありました。政府は旧来より一貫して、自衛隊は日本を防衛するための必要最小限度の実力組織として2項が禁止する戦力ではないとの立場を貫いてきましたので、自衛隊の法的地位を追記しても内容は変わらないというのが主軸の主張でした。

本質的には私が望ましいと考える最終形態として憲法は、国際標準です(ここの議論は話が長くなるのでまた別途したいと思います)。しかし、いきなり2項に手を付けることは国民の理解を得られないだろうとも思います。従って、2項は残したうえで自衛隊の法的地位を追記する主軸案を私は消極的に支持していました。さらに言えば、その追記される自衛隊の立場については、従来の政府見解である「必要最小限度」を踏襲するべきか議論がありましたが、上記の国際法上の相対的尺度が望ましいと考えていますので、当時の最終案であった「必要な自衛を目的として、自衛隊を保持する」との文言については、均衡性の概念が入っていないことは極めて残念と思いながら、これも消極的支持をしていました。

ただ、憲法草案の議論は今後も続きますので、努力していきたいと思います。

2.グレーゾーン事態

初当選以来、関心を持ち続けていることがこのグレーゾーン事態です。明白な武力攻撃が発生しているわけではないので有事とは言えないが、かといって明確な平時とも言えない事態のことを、グレーゾーン事態としています。例えば他国が大量の偽装漁船を島嶼部に送り込んできたとしましょう。その漁船群を少し離れたところから公船が援護、更に少し離れたところから軍艦が護衛している。その状態で上陸を試みてきた場合、法律上はまずは警察権を根拠として日本の警察や海保が対処しますが、現場では十分な抑止は効くはずがない。こうした異常事態に対して、国際法の言う規模と効果という観点では、明確に武力攻撃の事態を認定することはできないはずです。そこで、日本は自衛隊に警察権に基づく海上警備行動を発令することになりますが(場合によっては海上保安官を自衛艦に乗艦させる)、自衛権行使は直ちに認められないので現場対処は困難であることに変わりはないはずです。これは結構有名なシナリオですが、他にも国際社会では武力攻撃とは見なせない紛争が多々存在します。こうしたグレーゾーン事態への対処がどの国にとっても困難なのは、主に二つの理由があるのだと思います。

(様態の多様性という困難)
第一には、様態の多様性によります。様々な様相を呈することが想定され、新旧様々なオプションが考えられます。烈度の弱いものから並べれば、様々な媒体による心理戦や世論戦、一方的な法律戦や情報戦、係争地域やEEZでの民間船舶妨害や締め出し、邦人不法逮捕、観光制限や輸出入制限、不法上陸や係争地での違法操業、係争地公船侵入、軍事演習や軍艦回航、他国軍艦追従、外交官追放や民間人拘束、銀行口座凍結、航行の自由の妨害や大規模演習などで、挙げればきりがありません。特に最近では、フェイクニュースも含むサイバー攻撃、電磁波やレーザーによる衛星の無力化など、対象領域が広がっているため、宇宙・サイバー・電磁波と言った新領域と旧来の陸海空の従来領域を横断する能力が必要になってきています(クロスドメイン)。

グレーゾーン事態もしくはクロスドメイン対処の具体的な典型例として特に注目を集めたのが2014年のクリミア危機でした。ロシアはサイバー攻撃によって、ウクライナのネットや放送や行政を混乱させ、クリミアを奪取、世界各国の安全保障関係者を覚醒させたと言われています。米国がこうした文脈でグレーゾーン事態という言葉を使い始めたのはこの頃からですが、実は安全保障上のグレーゾーン事態という言葉を初めて使ったのは2005年前後の日本だと言われています。折しもその前年には、石垣島近傍の領海で中国の潜水艦による潜没航行事件がありました。

(国による認識の多様性という困難)
第二には、国によって認識の差があることです。例えば上記の例でグレーゾーン事態と言い始めたのに日米間で10年ものギャップがあったのも自然なことかもしれません。日本は自衛権行使を極めて厳格に運用していますが、先の「必要最小限」議論で示したニカラグア事件でアメリカがICJ判決を受け入れていないことから明らかなように、アメリカは自衛権行使について極めて緩やかな運用を行っています。従ってグレーゾーンでも手足を縛られないアメリカと縛られる日本で危機意識がかなり違ったと言えます。

また、クリミア危機でもグレーゾーン侵攻を受けたウクライナはロシアによる明白な武力攻撃(黒)だと言い、ロシアは単にグレーと言い、アメリカは白に近いグレーとしました。アメリカが白に近いグレーと言ったのは意外かもしれませんが、自国の行動を制限するような他国の武力攻撃認定には否定的であったのではないかと思います。従って、まず基本的な認識として、グレーゾーン事態については、その様態の多様性が問題になることは当然として、各国の認識が違うのだ、ということを前提にしなければならないのだと思います。

(グレーゾーン事態でも自衛権は有するか)
次にグレーゾーン事態の場合でも、つまり武力攻撃がなくても、日本は自衛権を有しているのか、が問題になります。国連51条は武力攻撃を違法化・禁止した上でその対抗措置として自衛権の行使を各国に認めていることは既に申し上げましたが、これは武力攻撃があった場合の話であって、武力攻撃以外の規定ではありません。一般国際法上は、グレーゾーンの自衛権行使は認めうるとされています。そして日本でも政府は一貫としてグレーゾーン事態でも自衛権は有しているとしています。

(現在はグレーゾーン事態は警察権で対処している)
ところが自衛権発動要件は極めて厳格に運用されています。具体的には現行要件では「武力攻撃が発生し」となっています。従って、権利は有するが行使はしないことになります。では、どうやって対処しているのか、ということですが、それは警察権の行使ということになります。例えば尖閣諸島周辺で、連日のように中国公船が侵入してきますが、これに対して警察権を根拠とする海上保安庁が対処しています。しかし、海上保安庁だけで対処できる事態であり続けるのかについて、長らく疑問が呈されています。

(グレーゾーン事態対処に関する過去の議論)
そこで、14年前後のことですが、こうしたグレーゾーン事態については、新しい概念を導入しようとする動きがありました。いわゆるマイナー自衛権というものですが、私自身は、日本特有の概念は望ましくない、事態対処の根拠が3つになりオペレーションが複雑になるうえ、新たなグレーゾーンが増える、との理由で消極的でした。現在ではこの論は完全に下火になっています。

(過去に政府が行ったグレーゾーン事態に備えた施策)
従って、答えは2つしかなく、自衛権発動要件を緩和するか、若しくは警察権の対処能力を向上させるか、のどちらかということになります。その後、政府はグレーゾーン事態については2つのことを行い現在に至っています。1つは、15年の平和安全法制が制定される際に、無害通航でない外国軍艦について自衛隊による警察権行使を迅速に行えるよう要件緩和の閣議決定をしました。もう一つが、海上保安庁による対処能力の向上です。15年以降、予算人員装備を大幅に拡充し現在に至っています。

(今後の議論の方向性)
しかしそれでも問題が本質的に解消されているわけではありません。そしてグレーゾーンの領域は海上に限られるものではなく、領域や様態が複雑多様化する一方なので、対処が必要と考えています。まずは直ぐにできることから言えば、警察権の対処能力の更なる向上を続けていくことは論を待ちません。しかし、それ以外の事態に関して正面から対処できる法律体系を整えるべきです。

(再び武力攻撃とは何か)
先ほど自衛権発動要件の緩和と書きました。実はこれは乱暴な書き方なので少し深掘りします。自衛権の発動要件に、「我が国に対する武力攻撃が発生し」とあります。これは国際法からの要請にも合致していますので緩和などはできません。一方で、武力攻撃の定義は何かというと、「我が国に対する外部からの武力攻撃」(武力攻撃事態対処法)という狐につままれたような定義です。例えば鉄砲1発撃たれても武力攻撃と言う人はいません。ゲリラが若干名、着上陸侵攻した場合はどうでしょう。過去にイスラエルはこれを武力攻撃と認定し自衛権を行使しましたが国際社会から非難されました。先のニカラグア事件もそうです。偽装漁船やフェイクニュースなど多層的な敵対行為の累積は武力攻撃と見做されるのでしょうか。実は、何をもって武力攻撃なのかは、国会でも殆ど議論されてきませんでした。国際社会でも様々な意見があり断続的に議論されています。国際社会に支持されうる武力攻撃の類型整理はしておく必要があるのだと思います。少なくとも国際法に準拠して武力攻撃は規模と効果で判断することくらいは閣議で決めておくべきなのだと思います。

(グレーゾーン事態における日米同盟の脆弱性)
直近の最大の課題は、冒頭示したように、グレーゾーン事態の認識が各国で違うため、混乱が生じる可能性があることです。具体的には自衛隊の活動は日米同盟と密接に関係していることがグレーゾーン事態で課題になります。例えばトランプ政権も、次期バイデン政権も、尖閣を日米安保条約適用対象にすると明言しました。これはこれで有難いことですが、抑止力にはなるけれど、グレーゾーンの対処力には必ずしもならない、という問題があります。なぜならば、日本とアメリカで武力攻撃認定にギャップが生じる可能性があるためです。つまり日本は武力攻撃ではない(白)、アメリカは武力攻撃だ(黒)とした場合どうなるのか、そしてその逆のパターンはどうなるのかを真剣に考えなければなりません。また、日米双方で事態認定における政治判断に遅れが生じた場合はどうなるのかなども実際に即した形で検討を重ね、日米で共有しておく必要があるのだろうと思います。

コロナ対策ー何をもって経済(生活)と感染のバランスなのか

(経済とのバランスより感染拡大防止を求める声が多くなっている)
経済対策と感染拡大防止のバランスが大切だ、というのは様々な場面で言われることですが、巷では感染拡大防止を図らなければ経済への悪影響は避けられないので感染拡大防止に全力を傾注すべきではないのか、ということがよく言われます。飲食宿泊業などを中心としたコロナ禍の直撃をうける事業者には、政府が直接補償すればいいではないか、なぜ感染拡大防止を徹底しないのか、との不満の声です。めちゃめちゃ分かります。

(緊急事態宣言か?)
まず、感染拡大の徹底的な防止を図るべきは論を待ちません。状況次第では緊急事態宣言を発出することも躊躇してはなりません。政権にはその覚悟はあるのだと思います。ただ、問題は、状況次第といったその状況がどんなものなのか、そして出したらどうなるのか、あるいは地域限定で出したらどう違うのか、生活困窮者はどのくらい増えるのか、エッセンシャルワーカーにどう影響するのか、医療機関にどのようなインパクトがあるのか、そのために事前に何をすべきなのか、国民とどのようなリスクコミュニケーションを図るのか、などが徹底的に分析されていないことの方が遥かに問題なのだと思います。つまり緊急事態宣言を出すと全てが解決されるかのようなお花畑思想は徹底的に排除し、インパクト評価を徹底して最大の効果を出すことが必要です。

(影響を受ける企業の補償?)
その上で、補償というのは主に要請に対する協力金であったり雇用維持のための助成金が中心となり、これは現在も継続しているものもあり、またその他の施策も全力で打っていますが、雇用にはネガティブな影響がでています。有効求人倍率も1付近まで低下、解雇された従業員も新しい職場を見つけづらい状況です。小規模事業者を考えれば、経済は生活に直結したものです。失業率が1%上がると自殺者は2500人程度増えると言われています。有効求人倍率が1以上の状況と以下の場合では、想像以上の違いが表れることになるはずです。
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2010/05/pdf/058-066.pdf
www3.nhk.or.jp/news/html/20201121/k10012724931000.html

(個人に特別定額給付か?)
事業者ではなくて個人に特別定額給付金を複数回打てばいいとのお考えの方もいらっしゃるのだと思います。幸い世界は未だに低金利状態が続いており、直ちに財政再建を急ぐ必要があるわけではありませんので、短期的に言えば世界各国が同規模の財政政策をとるならば可能だとは思いますが(現在では世界各国GDP2割で横並び)、持続可能な債務水準を意識しながら、経済と生活の下支えをしなければなりません。
http://www.imf.org/ja/News/Articles/2020/07/10/blog-fiscal-policies-for-a-transformed-world

(経済と感染のバランス指標)
現在、そのバランスは何を指標に図っているのかというと、医療提供体制の確保、監視体制、感染の状況です。具体的には、①医療提供体制ー病床逼迫具合(全入院者確保病床使用率、全入院者確保想定病床使用率、重症者確保病床使用率、重症者確保想定病床使用率)、②医療提供体制ー療養者数、③監視体制(陽性者数/PCR検査件数)、④感染状況ー直近1週間の陽性者数、⑤感染状況ー直近1週間とその全週1週間の比、⑥感染状況ー経路不明なものの割合、の6指標によって、感染拡大ステージを総合的に判断するということになっています。問題は、経済関連指標がないこと。つまり、経済を回すため、ということもありますが、経済に対する抑制的政策によってどの程度耐えうるかを見ることができないところに大きな問題があるのだと思います。昨年後半から困難な課題ですがこの指標の開発を進めています。
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/newpage_00035.html

(ダッシュボード)
もっとも重要なことは、バランスよりも、何をもってバランスと言っているのかということを政府と国民の間で共有することであり、いわばリスクコミュニケーションなのだと思います。現在は、先に触れた医療や感染の状況を表す6指標を中心とした目安ですが、これも総合的評価とされていて、しかも経済状況が伴っていないことから、不安と不満が高まる傾向にあるのだと言えます。業種ごとに地域ごとに詳細に状況を提示できるシステム、いわば車のダッシュボードのようなものを提示できればと思っています。それによって、より緻密な経済対策が打てるのだと思います。

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以上申し上げたうえで、今後の経済見通しについて触れたうえで、最後に先日閣議決定された政府の経済対策を紹介したいと思います。

(日本/世界の経済見通し)
2021年の経済見通しが民間シンクタンクから相次いで報告されています。今年の実質GDP成長率が▲5%であったものに対して、ワクチンが同年後半から普及するノミナルシナリオの場合は+2〜5%前後、感染拡大が数度発生するリスクシナリオでは若干のマイナス成長、そして2022年には本格的な回復基調になるとなる報告が多いのだと思います。また世界経済は、2020年で▲3〜▲4%、21年は+2〜+5%、コロナ前の実質GDPに回復するのは21年後半から22年前半にかけてとの予測が多いのだと思います。

(リスク要因)
ただ不確実性は高い。リスクとしては、感染拡大、金融市場の調整(過熱感のある株価や不動産の調整)、債務拡大による投資減退、米中デカップリングを中心とした自由貿易の停滞、の4つが主だったもの(例えば下記の三菱総研)。一方、企業のアンケートによると、感染拡大、雇用、所得が懸念材料とされています(帝国データバンク)。
http://www.mri.co.jp/knowledge/insight/ecooutlook/2020/20201117.html
prtimes.jp/main/html/rd/p/000000211.000043465.html

(好感材料)
景気回復を後押しする材料としては、緩和的財政金融政策(後述の経済対策と金融政策)、デジタル需要、米国自由貿易回帰、在庫調整進展、そしてオリパラなどです。これにワクチン普及による個人消費回復が加わります。
http://www.dir.co.jp/report/research/economics/outlook/20201217_021969.pdf

(ワクチン供給)
ワクチンの接種状況見通しについては、例えばみずほ総研がまとめていますが、接種開始は先進国で21年1月〜3月、後進国で4〜6月、それぞれ普及完了までに1年かかるとの予測ですが、主要全メーカー足しても37.5億人分の供給となり、全世界人口の50%にとどまります。

(産業構造の変化要因と傾向)
経済の開腹ペースは、国別、あるいは産業構造別、輸出構造別でも、異なってくることが予想できますが、それらは主に、モビリティ変化(リモートワークや巣篭り)に起因するものと、エネルギー需要トレンド変化(グリーン)の2つの要因に分解できます。そしてそれらが以下の産業構造に影響を与えるのだと思います。まずは、産業構造別に言えば、元々拡大傾向にあった産業でコロナ禍の影響が少ない業種には更なる追い風が吹く事、元々縮小傾向にあった産業でもコロナ禍の影響が少ない業種には期間限定の特需があること、一方で、元々拡大傾向にあったもののコロナ禍の影響が大きいところは逆風となり、縮小傾向にあった上でコロナ禍の影響が大きい業種は苦しい状況になる傾向にある。
http://www.mizuho-ri.co.jp/publication/research/pdf/forecast/outlook_201210.pdf

(世界の状況)
世界各国の中央銀行が金融緩和を実施し財政支出を増やしています。金利はほぼゼロに張り付いていますので、各国とも直ちに財政再建に着手せざるを得ない状況にあるわけではありませんが、新興国では国債発行が直ちに金利上昇や為替暴落につながってしまうものもあります。また、石油価格の低下により資源国にとっても苦しい時期が続くことが予想されています。

具体的な国別に見れば、中国の回復が顕著で自立化政策のためハイテク投資が今後も加速するとの見通し。アメリカは、2007年以来の高い起業件数となっているようです。また歴史的低金利も相まって持ち家需要が極めて高くなっている。アメリカらしく将来のドリームに向けた社会の変容の胎動が聞こえてきます。欧州は回復ペースは緩慢の見通しですが、政府主導のグリーン・デジタル対応が進み関連産業が牽引力になる可能性はあります。新興国は、産業構造や輸出構造によって全く異なる様相を呈する見通しで、ロシア、オーストラリア、インドネシアはグリーンシフトで逆風、またブラジルなどは財政の持続可能性や金利上昇リスクなど直近の金融財政運営危機に直面、タイなどサービス輸出減退での逆風、フィリピンやベトナムなど海外労働者送金減少での逆風、一方で、メキシコや台湾はデジタル需要拡大で恩恵を受けるとの見通しです。
http://www.mizuho-ri.co.jp/publication/research/pdf/forecast/outlook_201210.pdf

(日本の見通し「国民の命と暮らしを守る安心と希望のための総合経済対策)
政府は12月上旬に次年度予算を中心とした総合経済対策を発表しました。事業規模73.6兆円、財政支出40兆円で実質GDP下支え効果3.6%、雇用60万人を見込んでいるとのこと。3つの柱で構成されています。

第一は、医療提供体制の更なる整備やそのための地方創生臨時交付金(国から地方自治体)、またワクチン接種体制整備を含む「感染症拡大防止策」。

第二は、老朽化が進むインフラの減災防災対策・国土強靭化(事業規模15兆円/5か年)や自衛隊・海上保安体制の構築を含む「国土強靭化・国民の安心安全」です。

第三は、ー治体システム標準化、マイナンバー、学校ICT化、ポスト5G等などを含む「デジタル改革」と、2050カーボンニュートラル研究開発、再エネや電気自動車普及、住宅断熱リフォームグリーン住宅ポイント、企業脱炭素税制などを含む「グリーン改革」、中小企業事業再構築支援とサプライチェーン多元化などを含む「産業構造の転換」と、大学ファンドや宇宙等領域の研究加速などの「イノベーション促進」、GoToとともにテレワークや地方企業経営人材マッチングなどを含む「地方への人の流れの促進」と、雇用調整助成金とともに出向助成金の創設やリカレント教育を含む「成長分野への労働移動など雇用対策パッケージ」、そして2030年5兆円を目指した「農林水産業輸出拡大」、更には「家計の暮らしと民需の下支え」です。

(概要)https://www5.cao.go.jp/keizai1/keizaitaisaku/2020-2/20201208_taisaku_gaiyo.pdf
(本文)https://www5.cao.go.jp/keizai1/keizaitaisaku/2020-2/20201208_taisaku.pdf
(試算)https://www5.cao.go.jp/keizai1/keizaitaisaku/2020-2/20201208_taisaku_kouka.pdf
(施策例1)https://www5.cao.go.jp/keizai1/keizaitaisaku/2020-2/20201208_sesaku1.pdf
(施策例2)https://www5.cao.go.jp/keizai1/keizaitaisaku/2020-2/20201208_sesaku2.pdf

私自身は、コロナ対応としての医療体制確保(コロナ対策PT事務局長)、国土強靭化としてのため池整備や地元インフラ対策(ため池小委員会事務局長)、安心安全の担保(安全保障調査会事務局次長)、未来投資(科学技術イノベーション戦略調査会事務局次長、宇宙海洋開発特別委員会事務局長、量子議員連盟事務局長)、経済安全保障戦略(新国際秩序創造戦略本部事務局次長)、に携わって参りましたが、昨秋から経済成長戦略本部事務局次長も仰せつかっておりますので、全体の味付けにもう少し関与できるよう努力したいと思っています。

持続可能な社会実現と経済安保

持続可能な社会に向けて、などというと、まだまだ絵空事と思う方が多いのだと思います。実際、私も5年前に聞かれたら、大切だよね、くらいで済ませていたのかもしれません。しかし、3年前には、ビジネスと両立する仕組みづくりを地方創生の文脈で考えていたし、現在では世界的な流れをはっきりと感じるようになっています。つまり、SDGs的な価値観が浸透してきているということです。今後、企業はSDGsに取り組まなければ資金調達にも困難を伴うようになるのだと思います。

持続可能な社会に向けた取り組みは、これまで余力のある企業がCSRの一環として取り組んでいたイメージがありますが、ビジネス上、必要な価値軸になりつつあるということです。おいおい説明していきたいと思います。

(地方創生とソーシャルベンチャー)
5年前くらいから地方創生の柱の一つとして取り組んできたのが、ソーシャルベンチャー支援です。党の社会的事業推進特別委員会で事務局長(今は事務総長なる大仰なタイトルになっていますが)を仰せつかっておりますが、まさにビジネスとして社会課題を解決していこうとする事業者を応援することで、地方の持続可能性を高める取り組みでした。現在でも進行中ですが、取り組んでいて気づくのが、資本主義の質が徐々に変わることでした。国が社会の持続可能性を高める地方の会社を支援するわけですから、必然的に資本主義の在り方が変わる時代がくるであろうということです。

取り組み始めてすぐに、国連が発表したのがSDGsです。貧困の軽減、民主的ガバナンスと平和構築、気候変動と災害リスク、経済的不平等という主要分野に重点を置いたこの取り組みは、瞬く間に世界に広がり、現在では各国政府のみならず民間や市民といったパートナーを得ています。この流れは、まさに地方創生の文脈で取り組んできたソーシャルビジネスと完全にマッチする価値軸でした。

(コロナ禍での加速)
こうした流れを加速したのがコロナ禍でした。今年はコロナに始まりコロナに終わるというコロナに翻弄された1年となりましたが、社会の持続可能性を考えるきっかけともなり、SDGsの流れが大いに加速したように見えます。例えば、国際コーポレートガバナンスネットワークを始めとしたESG投資家が揃って、配当よりも雇用維持を優先すべきだ表明したことは、間違いなくSDGs的な価値観が浸透していることを実感した瞬間でした。

ただ、日本でそれを聞くと、当たり前に感じるほど日本的価値観でもあります。日本では、昔から商いには近江商人の三方よしと言って、売り手と買い手と社会がよくなることがよい商いとされていましたから、昔から地でいっていたのだと思います。つまり、商いを通じて社会をよくするという考え方に最もマッチするはずなのです。

(ステークホルダー資本主義の世界的広がり)
株主だけではないステークホルダー資本主義の考え方は、例えばWEF(世界経済フォーラム)、ハーバードビジネススクール、BRT(ビジネスラウンドテーブル)でも大いに議論されています。ダボス会議のシュワブ会長は、日本の経営者にインスパイア(影響)されたと言っています。

ただ、日本と違うのはルールに落とし込もうとしていること。日本は、どちらかというと、何となくやっている。文化としてやっている。欧米は、まさにこれからルールにしようとしているのだということを感じます。それもそのはずで、例えばESG投資は世界で4000兆円を超えるようになっており、融資、債券、不動産にまで広がりを見せるようになってきました。コロナ下で株価が不思議な上昇基調にあり、もちろんアナリスト的には金融緩和による影響と言えますが、ESG投資も後押しをしているはずで、資本主義の流れが徐々に変わりつつあるのを見逃すわけにはいきません。(日経は29年ぶりの2万5千円超え、S&Pは過去最高値更新)。

(DXとSXとテスラモーターの衝撃)
DXとはデジタルトランスフォーメーションのことで、SXとはサステーナビリティトランスフォーメーション。前者は手段であって後者は目標だと言えますが、DXによりターゲットをSXに振り出した際に、今後の世界の勝者になるのだと思います。実際、電気自動車メーカーのテスラモーターはたった十数年でトヨタの時価総額を抜き、現在はその2倍。車の販売台数は20分の1ですから驚きの数字です。

仮にテスラがグループのCo2排出量を削減するために、サプライチェーン企業に排出抑制義務を課したら、グリーンに取り組まない企業はテスラと取引できなくなる。仮にどうしても達成できそうもないと判断した経営者がいたとしたら、撤退するか排出権取引に動かざるを得なくなる。当然、損益分岐を超えられるのかと普通の経営者は考えるわけですが、これが超えるようになってきたということなのだと思います。斯様、グリーンを意識した経営が必要になってくるわけです。

実際、サプライチェーンでは全くありませんが、ホンダがテスラと排出権購入で基本合意したとの報道もあります。そしてこうした社会を実現しているコアは、ビジネスモデルではなく、テクノロジーだということは忘れるべきではありません。

(金融市場の動き)
金融市場の方はどうなのかというと、例えば今年6月、ドイツで初めて66億ユーロのグリーン国債が発行され、330憶ユーロの注文があったたと話題になりました。欧州の中央銀行はグリーンQE(量的緩和)の流れがこれまでもあったようですが、アメリカでも否定的なトランプから肯定的なバイデンに大統領が変わることで、流れが加速すると予想されています。
http://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-09-02/QG0XO0T0AFB401

因みに世界のSDGs債市場は、グリーン債・ソーシャル債・サステナビリティ債というのがあって、そのうち5〜10年程度のグリーン債が圧倒的と言われています。発行は、フランス・国際機関・オランダのほか、意外なことに中国も多いとされています。日本もグリーンが多く59%。ほとんどが政府系機関による発行だそうですが、それはGPIFによるものです。そして日本の特徴は、ソーシャルとサステナビリティが世界に比べて一定のボリュームを維持していることです。そして、それほど頻繁に売買されず比較的安定しているのだそうです。ソーシャルは、例えば政府系でいえば学生支援機構や日本政策投資銀行も関与しています。

(必要なのは指標づくり)
ソーシャルベンチャー支援でも議論の中心でしたが、こうしたESG拡大の流れに合わせた持続可能な社会を気づくために絶対に必要なのが指標づくりです。何をもってソーシャルなのか、何をもってグリーンなのか、資金を動かしていくわけですから、当然求められるのが透明性であって、やはりルールが必要になってきます。この点、先ほども述べましたように、何となく文化としてやってきた日本は弱い。EUは既にサステナブルファイナンスのための指標づくりで先行しています。
about.bloomberg.co.jp/blog/need-know-european-commissions-new-sustainable-finance-taxonomy/

つまり、ESG投資を行おうとする投資家にとって、金融市場や投資対象、あるいは社会と言ってもいいかもしれませんが、共通言語が必要になってきます。やってますよ、という掛け声だけでは、他企業と比較できません。そして、その共通言語を作るためのベースとして、EUではタクソノミー(分類)を提示しています。そしてタクソノミーをベースに細部が決められていきます。

実はこの標準化こそが、ビジネス上非常に重要な部分であるのは、既存の知的財産戦略としての標準化とまったく変わりません。この取り方次第では、サプライチェーンに入れもしない場合もでてくるわけです。

(経済安全保障とコバルトやネオジウムなど)
こうした世界的な流れをビジネスとして捉えた上で、持続可能社会を見据えなければなりません。それは、もちろん電気自動車とかエネルギー政策という現実の課題に直結するものですが、裏側では、激しい国際競争も出てくることも予想できます。

例えば、電気自動車のキモの部分は、モーターとバッテリーですが、高性能モーターにはネオジウム、高性能バッテリーにはコバルトという希少金属が必要です。もちろん、コバルトはアフリカが主要産出国、ネオジウムはもっぱら中国が産出国です。必然的に、各国メーカは、そうした材料を使わずに済む技術開発を懸命に進めているのだと思いますが、各国の思惑も交錯してくるのは必然なのだと思います。

(今後の政策)
従って、あらゆる方向から必要な政策を総動員して推進すべきなのが、カーボンニュートラルという政策で、決してバラ色な、お花畑な政策ではありません。排出権取引の導入も、今後推進していかなければ、益々業種間の不公平は拡大し、中国に有利な世界が展開されるとの指摘もなされています。心してかかりたいとおもいます。

宇宙資源法案とアルテミス計画

(写真:法案審査会場にて小林代議士と)

宇宙資源法案(※内容は最後に付します)を今臨時国会で成立させるべく、同僚代議士の小林鷹之さんと努力してまいりましたが、残念ながら諸般の事情で今国会は断念せざるを得ない状況となりました。この間、同法案の趣旨にご賛同賜り、ご協力を頂きました全ての皆さまにまずは心から厚く御礼申し上げます。来年の通常国会には必ず成立させます。

数年前より、宇宙も民間が主導する時代になっていました。民間がビジネスとして衛星を打ち上げられる時代になった、ということは、その裏側に利用する人の裾野が広がってきている、お金を払ってでも利用したい人が増えている、ということです。GPSが仮になくなっても死ぬことはない程度にお感じになる方もいらっしゃるかもしれませんが、経済は宇宙空間の利用なくしては回らないくらいの依存度になっています。

そうした中、数年前より宇宙資源のビジネスにチャレンジするベンチャーの話を耳にするようになっていました。日本でいえば、ispace社さん。世界には同様のビジネスを目指す企業が多くあります。将来月面利用が本格的になってきたとして、月面作業用に燃料がいるとしたら、地球から持っていくより月面でエネルギーを作った方が安いですよね。そう目を輝かせて党本部の会議で語っていた某社の方を未だにはっきり覚えています。

しかし、苦労して資源を採ってきても民間事業者には所有権があるのかどうか定まっていなかった。国際ルールもなかった。「実際にやろうとすると少なくとも法律がいるわな」。小林さんと話を始めたのはそのころです。最初に法制化に動き始めたのは行動力抜群の小林さんでした。丁度防衛政務官を退任して党に戻ってきた小林さん。同小委員会に宇宙法制条約WT(ワーキングチーム)を設置、座長に就任し、1年間かけて政府に法制化の提言を続けていました。私はというと、丁度小林さんと入れ替わりに防衛政務官に就任。その時まで党の宇宙総合戦略小委員会の事務局長を務めていましたが、政府入りと同時に党の職は全て剥奪され辞任。

そういう事情で、小林さんの動きを露知らず。そして私が防衛政務官を退任すると、河村建夫先生から同小委員会の親会である、宇宙海洋開発戦略特別委員会の事務局長に推され、その時にようやく小林さんの努力を知ります。そして、政府に立法化の具体的動きがないのを見て、「やっちゃいますか」という話になった。「やっちゃいますか」というのは、議員立法ということです。

国会議員が法律を作るのは当たり前に思われるかもしれませんが、議員が法律の必要性を感じたら政府に働きかけることが殆どです。ただ、政府提出になじまないものもあります。それが議員立法という政府が全く介在しない法律です。宇宙資源法も、関連する国際ルールや条約がないので、政府提案に十分馴染むわけではありません。だから議員立法の選択をしたのですが、実はこれが結構難儀。ものすごいエネルギーを必要とします。私自身、直近でいえば「ため池」の法律が議員立法でしたし、その前はイノベーション促進法などでしたが、ほとんど会期末は、地獄のような日々になります。

ただ、実は民間ビジネスという事情以外にもう1つ大きな課題が課せられていました。それはアメリカが主導する宇宙探査のプログラム「アルテミス計画(*)」です。同計画は8か国で政治合意したばかりのものですが、今後、具体的な協定交渉に移っていきます。その際、宇宙資源の法律を有するアメリカ、ルクセンブルク、UAEは交渉上有利になる。従って、政府が協定交渉する前になんとしてでも法案を通しておきたいという思いがありました。このことは、日本が国際ルール作りに主体的に参加していくということにもなります。また、同計画は人類の活動領域を本格的に月面や深宇宙に広げるものですが、当初から民間協力が主軸になっています。従って、民間にとっては参入機会であって、また対内投資促進の効果も期待できるものです。

そういう事情で、今年の2月頃から検討作業に入ります。連日、政府関係者や有識者と打ち合わせを重ね、現在の骨格ができたのが5月くらい。その間は結構な紆余曲折がありました。既存の宇宙活動法(民間が衛星を打ち上げる際の規制法)との関係をどうするか、産業促進法にするのか、業規制にするのか、衛星単位の管理法にするのか、国際関係はどう整理するのか、損害賠償責任はどうするのか、論点は無尽蔵にありました。それもそのはずで、世界で同種の法律を有するのは僅か3国(米国、ルクセンブルク、UAE)しかありませんでしたから、真っ白なキャンバスに自由に絵を描いていくようなものです。コロナ対策で時間に追われながらの作業でしたが、非常に有意義な時間であったように思います。

そのころ、丁度幸運にも超党派の宇宙協議会の事務局長を仰せつかることになりました。再度河村建夫先生からの打診でした。幸運というのはなぜかと言うと、議員立法は野党の大多数の賛成を頂かなければならないからです。そこで、この超党派宇宙協議会(宇宙基本法フォローアップ議員協議会)で、骨格ができたばかりの宇宙資源法案を議題に取り上げてもらうよう願い出たところ、直ちに実務担当者を立ち上げて頂くことになったのが6月8日のことです。早速、小林さんにもメンバーに加わってもらい、更に維新を加えて公明、立憲、国民の5会派で協議に入りました。その後、何度も協議を重ね、臨時国会が始まると、全会派が党内法案審議プロセスに入り、5会派で承認。感無量とはこのことでしたが、残念ながら、冒頭でも申し上げましたように、諸藩の事情で今国会は断念ということになりました。

来期通常国会には必ず成立させるよう努力を続けて参りたいと思います。

※宇宙資源法案

民間事業者による宇宙資源の探査及び開発に関する事業活動を促進することを目的とし、宇宙資源の探査・開発を目的とする人工衛星の管理に係る許可の特例や、宇宙資源の所有権の取得など、所要の法整備を行うものです。宇宙資源として想定しているのは、水や鉱物のほか、レゴリス(天体表面の細かい粒子)です。JAXAなどが行う科学調査は対象にしていません。同法が成立すれば、事業者は政府に対して許可の申請を提出することになります。政府は同法で定められた宇宙活動法の特例に従って審査し、海外と調整し、許可を出します。この時点で、事業計画に沿った資源については所有権が与えられます。当然天体の領有権は与えられません。その際、政府は直ちに諸外国に向けて活動エリアや活動期間など必要事項を公表します。なお、当然ですが、国際協力路線は当然ですが踏襲するものですし、宇宙空間の探査や利用の自由を行使する他国の利益を不当に害するものでもありません。また、同法案によって日本が締結した条約その他の国際約束の誠実な履行を妨げるものではありません。

*アルテミス計画

興隆する民間宇宙ビジネスの活力を最大限に生かした、米国が主導する月面や最終的には火星までをも含む宇宙探査計画です。2021年から約10年に及ぶ壮大な計画となっています。名前の由来はギリシャ神話の月の女神で、アポロ計画の名前の由来となったアポロンの双子の姉妹。今年10月には参加8か国(米・日・豪・加・英・伊・LUX・UAE)で政治合意がなされました。基本的には、宇宙の平和利用やスペースデブリ(宇宙ゴミ)、国家間干渉防止を求める合意でした。国威発揚が主たる目的であったアポロ計画との決定的な違いは、宇宙が実体経済としての価値を生む領域になってきたことを踏まえたことなどです。

【善然庵閑話】丸亀とラバウルを繋ぐ愛(京極会報誌)

(写真出典:Hatazo Adachi, Wikipedia)

地元丸亀市に丸亀城というお城があります。石垣の曲線美に魅せられ、多くの歴女が訪れています。そのお城の藩主の功績を称える京極会という団体から、会報誌に何か書いてくれないか、とのご依頼を毎年頂いておりまして、お恥ずかしながら今年も駄文をお送りした。ここに改めて掲載することにしました。ご笑納いただければ幸甚です。

ーー

鳥取県米子に入るとゲゲゲの鬼太郎が至る所で待ち受けてくれるのだそうですが、それは鬼太郎の作者、漫画家の故水木しげる翁の出身地だからです。ここ最近は米子市を挙げて翁を前面に出した地方創生戦略を採っていると聞きます。そして、この水木翁、戦時中はニューギニアのラバウルに派遣されていたそうです。ラバウルといえば軍歌も作られたほどの方面の要衝。開戦後には方面主力の第18軍の司令部も新設された場所ですが、その第18軍の最初で最後の司令官が、かつて丸亀第12連隊長も経験した安達二十三(はたぞう)です。

安達の新設軍出陣式での訓示は将兵の心を揺さぶったとして有名になります。丸亀駐屯時代の逸話は全く残っていませんが、人間の本質がそれほど変わらないものならば、丸亀にこうした心豊かな人がいたことは、戦争自体の評価は別として、大変心強く思います。「すべては愛をもってせよ」。仁将とも呼ばれた安達は、強い敢闘精神を持ちながら、自ら進んで部下と苦労を分かち合う、そういう態度が部下の間に強い信頼感を生んだと言われます。戦況に鑑みるに、愛という言葉は発し難いと誰しもが考えるはずですが、敢えてこの言葉に拘ったのかもしれません。

昨年末から年始にかけて、中国武漢で発生した新型コロナウイルス感染症は、瞬く間に全世界に広がり、日本でも3月から5月にかけてピークを迎えました。コロナウイルス感染症に対する有効なワクチンの承認は未だなされておらず、感染に対する漠然とした不安が蔓延しています。更に、緊急事態宣言が行われた期間は、社会経済活動の縮減から、消費・生産・労働というあらゆる側面で経済的に深刻な打撃となりました。ただ、それだけに終わりません。

コロナ禍で抱えた不安という要素は、社会に深刻な傷跡を残しました。自粛警察という言葉が一時はやったように、巷で社会正義を掲げて世をただす運動が盛んになりました。ただ独善的正義であったものも多くありました。主観的正義や独善的正義ではなく、社会の知恵として対処するためには、全員が正しい情報を持たなければならないはずです。例えば、自粛要請を受けた飲食店が店は閉じても深夜まで明かりを点けていたことで、実は家族で団らんしていただけなのに、その情報を持たない者によって、厳しい張り紙を張られたと嘆いていました。社会不安というものは、社会分断を増長し、批判と混乱を招くものなのだということに気づかされました。

このことは、国内の下町の光景に収まる事だけではありません。国際社会は、ただでさえ格差から生じたポピュリズムにより自国主義傾向が強まっていた中で、コロナ禍がそれを加速しているように見えます。米中対立は更に激しいものとなり、主要国の産業サプライチェーンは自国回帰路線を歩んでいるかに見えます。そういう時代だからこそ、安達が言ったように、仁を大切にし、協調を尊び、それでも敢えて一人で進まざるを得ない時には、あらん限りの力を尽くして状況を分析し、果敢に挑戦する、という態度が大切なのだと思います。

今後、有効なワクチンが供給されるまで、しばらく付き合っていかなければならない新型コロナウイルス感染症。目指す社会像から離れていく様相を目の当たりにし、改めて安達精神を胸に秘め、党コロナ対策本部危機管理体制PTの事務局長として、強い思いをもって、何が来ても万全の医療提供体制を整備することに注力しています。また党国際秩序創造本部の事務局も預かり、世界の中で果たしうる日本の理想像を着実に実現していく努力を続けたいと思います。

政治とアカデミアの合理的関係についてー日本学術会議問題

極めて残念なことに日本学術会議の問題が政局ネタになっています。政治とアカデミアの信頼関係が悪化していくことは避けなければなりません。そもそも私も研究者でしたので、以前から政治とアカデミアの関係については思うこともあり、この機に合理的信頼関係が構築できる仕組みを整えるべきだと思います。

■簡単に事実経緯から

日本学術会議は210名の会員で運営されている学術を代表する(とされる)政府の特別の機関で、法律上その会員は同会議の推薦に基づいて総理が任命することになっています。今回、半数が改選となり、105名が同会議によって推薦されたのですが、政府は6名の任命を見送りました。この6名が過去の政府政策を批判していたことから、反対意見潰しだ、と共産党の赤旗新聞が報じて批判論調の端緒を切りました。それは本当なのか?なぜ任命しなかったのか?本質的課題は何か?どう改善すべきか?などについて、私の意見として解説したいと思います。

■まず学者とは

まず重要なことを最初に申し上げますと、学者であろうが多様な意見があるということです。自然科学系はそれほど意見に差がでるわけではないのですが、人文系は特に意見が分かれます。例えば、自衛隊の存在は違憲かどうかでは、学者でも合憲と違憲が分かれます。

コロナでもテレビに専門家が出てきて、学術界を代表する意見が如く、ぺらぺら喋っている人がいましたが、私は「社会」に対してこういう一方的な意見を言う人を学者とは思っていません。なぜならば、日本学術会議が発行している「行動規範」(※)にもあるとおり、違う意見があることを認識し、それも併せて社会に示すのが本来の学者の姿だからです。

逆に言えば、反対意見や違う意見を全く無視し「社会」に対して自らの意見を一方的に主張することをアドボケートといい、酷い場合には政治化していると認識されます。言論や表現の自由はあるので、政治化しても全然結構なのですが、政府や社会への助言機関としてはアカデミアとは当然認識されなくなります。

※科学者の行動規範ー日本学術会議(特にIII章「社会の中の科学」)
http://www.scj.go.jp/ja/scj/kihan/
11節「意見の相違が存在するときはこれを解り易く説明する。」
12節「科学者の発言が世論及び政策形成に対して与える影響の重大さと責任を自覚し、権威を濫用しない。」「科学的知見に係る不確実性及び見解の多様性について明確に説明する。」
13節「政策決定の唯一の判断根拠ではないことを認識する。」

■日本学術会議の役割とバランス

その上で、日本学術会議の役割は大きく分けると2つあります。1つは学術そのものの振興やそのための政策立案です。もう1つは、社会のために学術的知見をもって課題を解決する活動やそのための政府への助言です。前者を「学術のための政策」、後者を「政策のための学術」と言います。

従って政府への助言は与えられた主要な役割なのですが、上で述べたように、学者でも意見は多様ですので、日本学術会議の構成のバランスは極めて重要になります。

例えば、自衛隊は違憲だ、という学者で埋め尽くされていたら、政府への助言は常に違憲を前提としたものになります。これでは国民(の代表)への助言という機能は十分に果たせません。(今回任命が見送られた方が違憲だと表明していたという意味ではありません。あくまで例示です。)

大切な部分なので敢えて繰り返しますが、反対はあっていいのです。声高に叫んで頂いても結構なのです。問題は、上で触れたように、政治への助言機関としての組織としてバランスがとれていなければ問題なのです。

そして学者としての行動規範としてのバランス、つまり先ほども触れましたように、自分とは違う意見があるのであれば、それを認識して併せて提示するべきなのです。一方的に主張する(アドボケートする)人は、助言機関としては、もはや学者とは言えなくなる、ということなのです。

実はこの大切な胆の部分が学者サイドで殆ど認識されていないことを感じます。これは学者が政府内で政策立案に携わる経験や機会が殆どないため、政策リテラシーが不足していることから生じるものだと感じています。

■日本学術会議の構造上の問題

現在の財源方式と設置形態では必然的に生じる2つの構造上の問題に触れたいと思います。先ほど、日本学術界の役割は2つあると言いましたが、これらによって、日本学術会議の重要な役割である「政策のための学術」が機能しにくくなっていると考えます。(なお過去にも日本学術会議の改革案が示されていますが、財源と設置形態という本質的問題は解決されていません。)

●1つ目は、話題になっている会員の任命制度です。先ほどバランスが極めて重要だということを触れましたが、現在の制度では、新会員は現会員の推薦に基づいて任命されます。コ・オプテーションという方式です。改善の余地は大いにありますが、これ自体が決定的に悪いというより、改善の努力の結果として生まれた制度ではあります。

実は昔は一般選挙によって会員が決められていました。その結果、田中角栄もびっくりの大選挙運動が展開され、それこそ某政党が本格的に関与した時代もあったようです。その結果、影響力のある学会とか学者が幅を利かせて学者のバランスが図れなくなった。そこで現在の推薦制度になりました。従ってこの時の改革の趣旨は理解できる。

ただその結果、3つの問題が生じています。1つは、現場の学者からみて自分ら学者全体を代表する機関とは思われなくなったこと。2つ目は、新しい分野や新しい解釈、に対する包容力が少なくなり柔軟性が乏しくなること。もう1つは、ゆがんだ独立性意識からくるのだと思いますが、コ・オプテーションによる推薦基準の中に、「政策のための学術」、つまり政治との対話を通じて課題や前提を共有し、真の独立性をもって学術界として正しい提言ができる、という視点でのバランスが図られていないこと、です。逆に言えば、政府への政策提言を前提としたバランスよりも学会バランス(あるいは性別や年齢など)を取るだけになっていて、意見のバランスをとる項目は皆無です。

ここは日本学術会議の構造的最大の問題なのだと思います。つまり放置すると政策のための学術という部分が機能しないのです。今回、菅政権はこの部分のバランスを図ろうとしたのだと理解しています。なぜならば外形的に見て、過去に政府政策に反対した多くの方も拒否されず推薦通りに任命されているからです。もし反対意見を表明したから任命拒否されたのであれば、もっともっと任命者は少なくなっていたはずです。

前回もある種の任命拒否が起こっているのですが、話題にならなかったのは、日本学術会議が任命枠以上の推薦人を政府に提出してきたからです。そもそも今回もこうしていれば、問題にはならなかったのではないかとも思いますが、本質的な「政策のための学術」上のバランスを制度的に担保することにはなりません。

ではこのバランスを適正に担保できる制度はあるのか。まさに問題の核心の部分だと思いますが、諸外国のように完全独立の設置形式であれば財源は政府からの委託研究が主だったものになりますから、提言実現のための努力が必要になり、ある程度自動的にバランスがとれるようになります。なぜなら課題設定や前提条件を政府と共有する必要があるからです。

一方で、日本の場合、政府特別機関は提言実現のために努力を要しない設置形態ですから、政策のための学術が機能するためには、バランスを外形的に一律の基準で取る必要がでてきます。しかし実際は明快な基準を設定することは困難なはずです。従って政府が敢えて判断したとして社会が理解をするのであれば良し、しないのであれば現在の設置形態は複雑多様化する社会課題解決には馴染まないということになります。巷では、日本学術会議見直し論が任命見送りの論点そらしだ、と指摘されますが、そうでもないことが分かると思います。

なお、政府によって任命が見送られたことについて、政府批判の委縮効果が働くために「学問の自由」が侵害されたと主張される方がいますが、学問は全く自由にできます。既に述べましたように、反対意見を表明された方も大勢任命されています。こうしたご意見は「政策のための学術」上のバランスに対する意識がない証左と言えるのだと思います。繰り返しますが、批判や反対は、あって然るべきです。ついでに言えば、日本学術会議に入りたいから学問をする人にとっては委縮効果が働くかもしれませんが、そもそも学問を追求するよりポストを追求する方は、日本学術会議の会員に値しないのだと思います。

政策のための学術を考える上でのバランスなぞは考える必要もないと思われる学者もいらっしゃると思います。であれば政府への助言機関としての機能を捨て去り、独立して学術のための活動だけ行えばよいわけで、そうなると既に政府の特別な機関である必要も完全になくなります。

●2つ目は、独立性の定義づけと認識の問題です。日本学術会議は政府機関であって財源も100%政府に頼っています。そのため海外の同様機関からは、政府からの独立性に問題があるのではないか、との指摘を暫し受けます。しかしそこに問題が100%あるわけではなく、むしろそういう指摘に対抗するために、間違った独立意識を持つ方が多いのが現状です。

例えば政治とは接触もするべきではない、などです。諸外国では政策のための学術の重要性に鑑みて、政治と学者のペアリング制度やインターン制度が設けられているくらいなのに、極めて前近代的発想です。実際に一般の学者のネット書き込みにも散見されます。例えば新聞記者は政治とは独立ですが、頻繁に接触と交流があり、独立だといって取材もせずに勝手に記事を書くようなことはしません。記事が政治で歪められないことが独立の本当の意味だからです。

この独立性認識の歪みによっても、「政策のための学術」が機能しにくくなっていると思います。例えば、この数年、同会議は政府に答申や勧告を全く出していません。コロナという重大な課題に対しての提言は僅か2つ。それもデジタル化が重要だというものと、政府や地方自治体には専門家による常設機関を置けという寂しい内容です。諸外国の学術界の量と質の豊富さと比較すると差は歴然です。

一方で、コロナ以外では提言の数自体は多くだされています。そして答申や勧告が少ないことに対して同学術会議からは反論も表明されています。「何言っているんだ、、その他の提言は無尽蔵に出しているぞ」、と。しかしですね。ここにも問題が潜んでいます。

よく私が引き合いに出す例ですが、隣の家の夫婦喧嘩がうるさいと言って、双眼鏡で観測して提言をまとめてホームページに上げたところで、なんの解決にもならないものです。むしろそのお宅に伺って状況を把握し課題を理解した上で改善提案を作成し、努力も伴って市長に助言するものなのだと思います。意外と課題を把握したら、自分の家のテレビがうるさかったのが夫婦喧嘩の原因かもしれないのですから。

つまり、コロナもそうですが、益々多様化する社会課題に対して、政治だけでも、学術だけでも、答えられない時代だからこそ、両者が合理的信頼関係の下に、課題と前提を共有した上で、学者は政治に影響されることなく独立して学術的観点からのみ政治に助言することが必要なのであって、独立性とは助言の独立性なのであって、政治が立っている課題や前提を全く無視して提言を作ったとしても、使えるものがあるはずはないのです。せっかく素晴らしい提言を作っていただいているのですから、前提条件を正しく設定すべきなのです。

しかも、提言をホームページに上げて関係者に資料を配布しただけで、見てくれ、あとは知らん、使うなら使ってくれ、我々は仕事をした、というのは、社会課題を解決する姿勢としては国民に対して不誠実だと見えますし、いかにも社会に対して上から目線とも見えてしまいます。おそらく政治や政府に対して提言を実現させるべく働きかけることがあれば前提条件のすり合わせが自然と図られたのだろうと思うと、日本の英知が真摯に作る中身の濃い提言であるだけに少し虚しさを感じます。

●以上に指摘しましたように、財源を100%政府に頼った特別の政府機関という形式をとると、政策のための学術を機能させるには任命問題と独立性意識問題が生じるという構造上の欠陥があるということであって、これまで社会課題が単純であった時代には、学術は学術のための学術をやっていればよく、それほど問題は顕在化しませんでしたが、社会課題が複雑多様化すればするほど構造上の問題が顕在化するということなのだと思います。

財源を100%政府に頼らなければ、先進諸外国のように政府や政治にヒアリングを繰り返し行って社会が求める課題設定を行う必要があるので、必然的に政策のための学術を行う上での研究者の構成上のバランスが図られることになりますし、独立性意識の問題もそもそも存在しなくなります。

■改善策

以上述べましたように、ポイントは、「政策のための学術」を機能させることにあります。批判めいた書き方になったかもしれませんが、日本学術会議の構造上の問題を指摘したいのです。同会議の会員は、日本を代表する素晴らしい研究者です。結局、独立性の定義づけが不完全であったり、政策立案現場の経験が乏しく政策リテラシーの問題があったり、政策のための学術に必要な構成上のバランスに問題があったりすることが問題なのだと思います。

これを実現するためには、幾つかの方法があると思います。が、現在、私自身、党に設置された会議の役員を務めておりますので、詳しくは方向性が固まってから報告したいと思いますが、日本学術会議問題に拘泥されることなく、この本質論を機能させるため、同会議の運用改善のほか、理想的とされる欧米並みの設置形態や財源を含めた制度改革、更には同会議とは別に独立シンクタンク設置なども視野に入るものだと思います。繰り返しですが、それはコロナや気候変動、米中対立やフェイクニュースなど、複雑多様化する社会にあって、政治と学術界の合理的関係を確立し、解決していくことこそが重要なのです。海外から見たら内輪もめとしか映りません。

アウレーリウスと総裁選

(写真提供:Eric Gaba – Wikimedia Commons user: Sting)

「プラトンは哲学者の手に政治をゆだねることをもって理想としたが、この理想が歴史上ただ一回実現した例がある。それがマルクス・アウレーリウスの場合であった。」

これは、岩波新書・神谷美恵子訳によるマルクル・アウレーリウスの自省録の訳者序の冒頭です。マルクス・アウレーリウスとは、古代ローマの皇帝で、善政を布いた5人の賢帝の一人。学識に長けたストア派哲学者だったといいますから、ストイックだったのだと思います。ストイックとは、まさに政治に必要な自制心を十分に備えた人物であったのでしょう。

ただ、現代の現実社会では、哲学者の手に政治を委ねれば善政になるとは限りません。善政とは、大多数の人が納得するという意味なので、多様な価値が存在する社会のなかで、哲学者だからと言って善悪の判断基準を大局的に示し容易に受け入れられるとは限りません。皇帝が正義の裁定者となりえた正戦論の時代には、容易に成り立ったのかもしれません。また、永遠と哲学を探求され答えがでない決められない政治になっても困る。

例えばコロナのワクチン。開発に成功して100万人分が調達できたとする。0.001%の確率で重篤な副反応がでることが分かっているとする。数にして10人。人の命と健康は尊いので接種すべきでない、というのも哲学的ですし、人類存続のため、というのも哲学的です。だからこそ、完全ではないにせよ、現在では民主的統制が最も現実的なのだと思います。重要なことは、自制心をもって何が善なのかをとことん突き詰めて早急に答えを出し民主的な評価を受けることです。

この岩波の自省録は、実は初当選したころ読もうと思って買ったものの、あまり面白くないので、蝶々(読み進めたところで開いて逆さに置いて放置しておくことを私はこう呼んでいます)になっていたものですが、最近、ディスカバー・佐藤けんいち編訳による自省録が出版されていて、手に取ってみたのが先月のことでした。超訳とされているとおり、かなりの意訳なのだと思いますが、訳者が指摘している通り、極めて日本人になじみの深い内容であることに気づかされ驚かされます(岩波新書では全く感じませんでしたが)。

言っていることは、自分の身を運命に委ねよ、何事も全力で取り組め、心を乱されるな、物事の内面を見よ、本質にせまれ、他者に振り回されるな、などといったものです。

安倍首相が辞任を表明し、新しいパワーゲームが始まっています。総裁選です。本日の党総務会で、総裁選のプロセスの最終決定がなされました。幹事長一任です。これまで党執行部は、党員投票を省いて両院議員協議会で総裁の選出を行う方向で幹事長に一任されていました。一応正式なプロセスです。そこに青年局が中心となって、党員投票を求めたのが本日の総務会ということになります。私も賛同者に名を連ねました。ただこれは新たな分断を呼んだ可能性もあります。マルクス・アウレーリウスであったら何を思ったのか。

私自身の考えは、党員投票によるべきだというものでした。これは正統性が政治の原点であり、国民とは言わずとも少なくとも党員の意思を反映してこそ初めて、強いリーダシップで改革を断行できるものだと思っているからです。逆に言えば、旧態依然のイメージが喧伝され、ひいては将来の政治空白を生んでしまうことを危惧したからにほかなりません。どこかの早いタイミングで、正統性を担保するアクションを起こさねばならないのだと思います。ただ、来年は党員投票を伴った総裁選は必ず行われます。

いずれにせよ各県連毎で予備選を行う事になると思います。候補者は出そろっていませんが、表明された方はどなたも甲乙つけがたい立派な方だと思います。党員の皆様方には、それぞれの思いに従って予備選で投票をして頂ければと思います。もし投票が行われない地域であれば、思いを代表者にぶつけて頂ければと思います。私は、私の思いを乗せて私の投票に臨むことにしたいと思います。

安倍総理の辞任

(写真:米国ワシントンDCのブレアハウスにて安倍総理と)

・はじめに

安倍総理が辞任を表明した。激動の時代、茹でガエルの如く沈みつつあった日本を回復軌道に乗せた。経済や外交安全保障政策は歴史に残るだろう。特に日本の国際政治力を過去最高レベルに持っていってことは大きい。困難や失敗もあったはずだ。しかし、どのような失敗でも、全て自分が受けて立ち、絶対に人のせいにしない方であった。強靭さの裏側で、苦労は絶えなかったはずだ。可能な限り治療に専念してほしいと切に願い、まずは8年間に渡る重責とご労苦に心からご慰労を申し上げ、感謝と敬意を表したい。

・世界が分断の方向へ

民主主義をけん引してきた欧米先進諸外国では、国民の分断が進んできた。所得格差や移民、あるいはテクノロジーの進化に伴ったSNSなどのメディアの急伸などが理由だ。政治も分断を深めた。敵を作る政治は、支持する固定客が増える。かつて小泉純一郎首相は、自民党をぶっ壊す、と言って、ある種、権力を持つ者への対抗軸を作り、メディアを味方につけて、高い支持率を維持した。

ただ政策的には、そのプリンシプルが確立されていたようには見えない。郵政民営化にしろ、自衛隊の活動にしろ、一つの確たる包括的な政策軸や哲学が見えたかというと、そうではなかった。ただ、庶民の味方、権力や利権や不透明政治の敵、古い政治からの脱却が軸ではあった。今思えば、これをやり遂げなければ、その後の決める政治、必要な政策の断行、といったものはおおよそ実現不可能だったはずだ。避けて通れない道であったと言える。国家をどのように発展させ、運営するかという大局的政策的基軸については、後身に譲ったと見るべきだ。

・プリンシプルベースの政策

そのバトンは安倍総理に渡された。安倍総理の場合は違う。必ずしも敢えて敵を作って劇場型政治にしたわけではなく、必要と思われる政策を断行していった結果、政策的に左派と戦うことになり、結果的に左派を敵とした。そうした政策の数々を並べてみれば、総理の話を聞いてみるまでもなく、ある種のプリンシプルに基づくものを感じれるものであった。特に外交安全保障政策は典型だ。

基本的には票やパフォーマンスに阿った過去の自民党を、真っ当な保守の自民党にしたと見ることもできるし、自民党がやりたくても政治的にできなかったことを成し遂げたと言ってもいい。例えば、集団的自衛権の一部限定容認や特定秘密保護法などは、人気を気にしていたら手を付けなかったはずの政策を、国家の為に敢えて断行した。左派を敵にしたのは結果論に過ぎない。

さらにその結果、保守層の一部から固定的支持を得るに至った。この8年弱の間、順風満帆であったわけではない。時に国民の支持を失いつつあった場合もあった。私の場合、大方の不人気政策であっても地元に帰って直接説明をすれば納得いただける場合が多かったが、原理主義的反対を喰らうに至っては、説明を諦めたこともある。しかし、諸外国ほどではないが、一定の強い支持基盤が確立されていたと言える。

・足りなかったものは統治システム

仮に左派から徹底的な政策対案がでてくれば日本の政治も進化したはずである。その場合、国民的議論が起きるのが望ましい。本来の政治とはこうあるべきなのだろう。しかし残念ながら左派は反対のための反対に終始した。反対のための反対のためにイメージ操作が横行した。話をぶり返したくないので敢えて触れないが、隠ぺい体質、独断専行、1強他弱、立憲主義崩壊、など中身や本質を無視したレッテル貼りが横行し、まさに好き放題やりたい放題であったように思う。

私も地元に帰って反対層に問い詰められたこともある。解説を試みた結果、私の不徳の致すところで残念ながら交友関係にヒビが入ってしまったこともあった。一番どうしようもないのが、私に貼られるレッテルであった。私が与党の一員だから総理をかばわざるを得ない立場なのだという固定観念をお持ちの方であった。いわゆる悪魔の証明と言われる難癖は疑惑を晴らすのは困難で堂々巡りとなる。

A「お前は悪魔だ、何故なら悪魔が使う棒を持っている。」
B「いえ、これは料理に使う棒なのです。」
A「ではなぜ20cmもあるのだ」
B「新しい料理に挑戦するためです」
A「そんな理由は通らない。誰から買った」
B「都内の料理屋です」
A「その料理屋はこの怪しい霊媒師と付き合いがあるのです皆さん」

もちろんこれはフィクションだが、この手の謎のやり取りが何度も何度も国会で繰り返された。もちろん私がすべての情報にアクセスできるわけではない。総理の考えや行動をつぶさに知る立場でもなく、また無派閥ゆえに情報も限られたものであったのかもしれない。しかし本質論を捉えていない質疑が繰り返されたのは事実だ。

もし私が野党なら、疑惑が生じる根本的理由である統治システムの改善を追求したであろう。厚労省統計問題が発覚した際、アベノミクスによる経済効果を良く見せるために偽装したのではないか、というレッテル貼りが横行した。与党側がエビデンスを並べて反論すれば簡単に論破される類の質問を国会質問で永遠と聞かされた。問題の本質は、統計という国家の体温計とも言うべき重要な事柄を扱う部局の予算が年々削られ、人員も減らされ、蔑ろにされてきたことであって、ミスに気付きながら放置され問題視もされなかった行政の統治の仕組みこそ本格的に問題視しなければならなかったはずであった。

(本稿の趣旨から外れるが、自浄作用の働かない組織ほどダメなものはなく、ダメなものを発見して正すのも議会の役割ならば、自浄作用のエコシステムを作るのも議会の役割なはずだ。それがアベノミクス偽装という質問を繰り返していては、問題の本質から目をそらすばかりだ。まるで国が良くなるより総理の首を取るほうが先決とも見えた。これからの政治は、抜本的なシステム改善を行わざるを得ないことが多く、だからこそ民主主義的な合意を得ることに全力を尽くさねばならず、したがって国家統治機構の再構築は避けて通れないはずだ。)

・外交安全保障の抜本的改善

2015年という年は、日本の外交史上、転換点の一つに位置付けられても不思議ではない。安倍総理による4月の米上下両院議会演説と戦後70年談話だ。

2015年4月30日、今からもう5年も前になるが、当時私は米国ワシントンにある連邦議会、通称キャピトルヒルにいた。上下両院合同会議で安倍総理が演説することになっており、極めて幸運なことにその場に同席することになっていた。総理の米議会演説は、長い時間をかけて関係者が様々な努力を積み上げた結果に、セットされたものだった。しかし、それ以上に、このタイミングで総理がその場所で演説すること自体に大きな意味があった。

当時の安倍総理に対する世界の見方は今とは全く違うものであった。2012年末に総理大臣に就任した安倍総理は、海外の要人やメディアからAbenomicsによる経済復活を評価され非常に注目される人物であった一方で、右傾化の疑問を持たれていた。当時、お会いする海外メディアや海外政府職員から、開口一番、なぜ安倍総理は右傾化を狙っているのか、という質問ばかりを投げつけられ閉口していた。反日感情の強い国家によるイメージ操作だとの噂もあった。

何れにせよ、演説は大成功を収めた。内容の評価は他に譲るが、少なくとも私は手が震えるほどの感動、というよりむしろ高揚感をもって聞いた。演説後に目の前で繰り広げられた光景を未だに忘れられない。米連邦議員が全員、拍手で安倍総理を見送り、握手を求める者、肩を軽く叩き慰労を表わす者、サインを求める者が多くいた。演説中のスタンディングオベーションは、ある種の外交儀礼だと言われるが、間違いなくそうではない感覚に包まれたものだった。その空気感をうまく伝える能力に欠けている自分を呪いたい。

事実、この演説と続く夏の8月14日に発表された戦後70年談話以降、歴史問題を外交カードに絡めようとする国々以外の日本に対する感覚はそれまでとは違うものとなった。オバマ大統領だけは日本に対して異質の雰囲気を醸し出していたが、過去の戦争に対する考え方について歴代内閣の考えを継承した上で、将来の世代に謝罪を続ける宿命を負わせないという意思表示を明確に行うことで、外国の評価のみならず、国内の意見分断にも、一応の決着をつけた形となった。

兎に角、努力を惜しまない人だったことは間違いない。日本の議会では当然、総理は答弁を求められるが、特に本会議場での答弁は、事前に用意された原稿を忠実に読むことが求められる。逆に言えば原稿さえ入念に準備すれば、当日は読むだけでいいはずなのだが、本会議中でも、総理が原稿を口にして読んで練習をしていたのは、多くの議員が目撃している。この米上下両院議会演説も、相当練習をしたと言われる。

一方で、元来極めて明るい方だと思っている。会食をともにしたことが多いとは言い難いが、話のネタの幅、冗談やユーモアは、人を大いに和ませる。リーダーは明るい方がいい。おそらく国会答弁だけご覧になっている方には想像できないかもしれない。特に私のお気に入りは、外国要人に対するユーモアだ。ホワイトハウスで、ハウスオブカードを引用したユーモアたっぷりの話をしたと聞いたことがある。外交に成功する秘訣として多くの方がユーモアを重要視するが、なかなか真似できないセンスだと思う。

掲載した写真は、議会演説後の夜に、総理の宿泊先であるブレアハウスに招いて頂いた時のものだ。同僚議員何人かとお邪魔した。一人一人に写真を撮ろうと言ってくれた。ブレアハウスは、ホワイトハウスに隣接する大統領賓客の宿泊施設で、副大統領執務室やNSC事務局が入居する行政府ビルの対面に位置する。世界を動かす中心地で堂々と歩く日本人がいることに、何か誇らしい気持ちになったことをよく覚えている。

・今後の自民党

安倍総理の辞任表明後、世論調査が行われた。辞任を表明した宰相の支持率調査を行うこと自体、珍しいのではないかと思うが、驚くことに20%近く上昇していた。過去8年の政策についは7割の人が評価しているとの結果だった。ご慰労ご祝儀相場など様々な見方があるのだろう。いわゆる、メディア情報番組のコメンテータが、「安倍総理いろいろ言い過ぎてごめんなさい、という意味ではないか」とか、「辞めるのは妥当だが政策は継続してほしい、という意味ではないか」とも評価していた。もはやこうした評価はどうでもいいことなのであろう。私としては、兎に角、高揚感のある8年間であった。

今後、どのような国家を創っていくのか。少なくとも政策的には、現状の政策の方向性の延長線上に、なさねばならない大きな政策課題があることだけは間違いない。安倍総理の政策の継承か否かではない。どなたであろうがやるべき方向は見えているはずだ。なので重要なことは、為すべきと思うことを着実に実施し、それでも反対者が現れたら、決して容易に迎合することなく、全力で理解を求め、それでもダメなら真っ当に対立し、結果をもって包摂していくことではないか。

戦没者追悼式と歴史観

終戦から75年となりました。私が生まれたのは1968年ですから、終戦がその僅か23年前であったことを改めて思うたびに驚き、戦争の惨禍が実は思うほど遠い過去のものではないことを感じます。改めて、現在の日本の礎を築いていただいた先人先達に心から感謝し、また戦時において祖国の安泰を願い散華されたご英霊の御霊に心から哀悼の誠をささげます。本日、全国戦没者追悼式に参列してまいりました。

月日が経つほどに、巷で懸念されることが、悲惨な戦争を語り継ぐ者が少なくなっていくことです。だからこそ、歴史を文章で残しておくということは極めて大切なことです。しかし、一言で歴史と言っても、極めて重層複雑で立体的なものです。指導者層の歴史もあれば地域生活での歴史もあります。それらは必ず偶然と必然の中で絡み合っています。どれほど優れた歴史家であったとしても、どれほど膨大な著作を残したとしても、書かれた歴史は完全なものにはならないはずです。だからこそ、そうした歴史家の皆様には深甚なる敬意を表したいと思います。

国家指導者層の歴史だけで見ても、様々な見方があります。例えば戦後教育を受けた者は、特に深く歴史に興味をもった者でなければ、先の大戦の国家指導層や政治と民意の関係を意識した者は少ないのではないかと思います。民主化がされておらず民意に反して指導部が独走し、更にはそのなかでも軍部の独走によって戦争に突入していった、というのが大まかな認識なのだろうと思います。事実、私自身も大学4年生までは、漠然とそう思っていました。そして一面を捉えれば確かにそう見える。でも複層的に見れば違う見方ができる。複眼的に見る。そのことこそが重要なのだと思います。

大日本帝国憲法が制定されたのは、明治維新から30年後。木戸や大久保が民主制への暫定移行期間として君民共治体制を模索していた中で、内部からは大隈重信、外部からは板垣退助といった当時は急進的な民主化要求を受けて、国会設置が決まったのが1890年です。西洋の国家以外で憲法を制定したのは日本だけでした(チュニジアとトルコが同時期に制定しましたが、制度不足によって憲法停止に至っています)。従って立憲主義、民主主義という意味では当時は時代の最先端であったのだと思います。

当時の世界の雰囲気はどうであったのか。世界の中心であった欧州では、勢力均衡メカニズムのウィーン体制が、パリ民衆蜂起とクリミア戦争によって崩壊し、その後のドイツの興隆(第二帝国)や英仏墺洪交えた国際政治は、植民地勢力争いも相まって、複雑な形で緊張が高まっていました。覇者であるイギリスは、スエズ運河を建設し、世界中に海軍基地を持ち、海底通信ケーブルを敷設して繋ぎ合わせていったのもこのころで、インテリジェンスの重要性を世界で最初に認識した国でもありました。地政学の祖であるマッキンダーがハートランド論を提唱したのもこのころでした。

しかし、ビスマルク失脚後に若きドイツ皇帝が提唱した3B政策がイギリスの3C政策を脅かすようになり、周辺国では対独脅威論が巻き起こります。イギリスに二国標準主義が貫き通せる国力が十分にあったわけではなく、1902年に日英双方の思惑が合致し同盟を締結します。そもそも明治政府にとって富国強兵は、アヘン戦争が引き金であったと思えば、日本には相当な高揚感があったのかもしれません。そして日本は、朝鮮半島を巡って日清に続き日露の戦争を経験しました。また、イギリスは宿敵のフランスとも協商を結んだのを皮切りに、日露戦争でロシアが敗れると、すかさず英露協商を結び、英仏露の三国協商が成立。独墺伊の三国同盟と対峙するようになり、欧州ではブロック化が進んでいきます。

勢力均衡と言うと論理では正しそうに見えても、実際には勢力均衡の概念が、産業革命に伴った技術革新による軍事力重視に繋がり、軍拡が戦争回避の唯一の手段であるかのごときムードが国民の中に醸成されたことで、後の世界大戦という信じがたい大規模な犠牲者を伴う参事を生むことになりました。日本はといえば、日露戦争で得た朝鮮半島の権益を守ることが行動原理の中心になっていき、このころから後背地の満州が重要視されるようになっていく一方で、ポーツマス条約では日清戦争と比較にならないほどの犠牲を払ったにもかかわらず賠償金が得られなかったことなどから、政府に対する国民の非難が激化し、日比谷焼き討ち事件などが起きています。

一次大戦は、バルカン半島での汎スラブ主義を背景に弱体化していくオスマン帝国と墺洪二重帝国と露の駆け引きや最前線のセルビアでの反墺運動の高まりから必然的に発生しました。日本は、満州権益の期限撤廃に夢中になりすぎて、対独参戦によりドイツ権益であった山東半島を奪取し、それと交換条件で満州権益の期限撤廃を目指すため、悪名高い21か条の要求を発表します。加藤高明外相が発案したと言われていますが、加藤の戦略に基づけば21か条の1と2条だけでよかったはずだと言われています。3~5、特に5号が追加されたのは、日本国内のナショナリズムに抗しきれなかったためだと言われています。

いずれにせよ1次大戦後にベルサイユ体制が構築されていきますが、歴史上の価値転換は、ウィーン体制の無差別感から差別感が重視されるようになったことで、具体的には正義があるかないかということから、侵略的かどうかという開戦法規が重視されるようになっていきました(ケロッグブリアン条約)。無差別戦争概念であれば、正義が重視されますが、中世のころのようにローマ教皇という正義の裁定者が存在したわけでもなく、近代化に必要な流れであったのだと思います。

また、このころ世界恐慌によって、持てる国(the haves)と持たざる国(the have nots)の対立が激化していきます。英仏は既得権益の維持に有利な既存国際秩序の維持を目指す一方で、日独伊は海外権益も少なく、特に経済的に深刻な状況であったため、武力による領土拡張を正当化し、国際秩序を変える動機となっていきました。一方で、ベルサイユ体制の主要な反省点は、ドイツに対する懲罰的意味合いが強く、ドイツ国民にとっては耐え難いものとして映り、それが結果的に熱狂的歓迎をもってヒトラーを生み出すことになったことですが、こうしたことと世界恐慌がマッチしていき、各国国民の熱狂的支持のもとに極端な政策が打ち出されるようになっていきます。

一方で、日本の政治は何をやっていたのか。戦時中の政治や政党の研究が令和の現在でも進んでいることに驚かされます。日本は引き続き満州権益を行動原理の中心に据えて決断を重ねていきますが、世界恐慌の中で国民の満州権益に対する強硬論が蔓延するようになります。その頃の政界は、醜悪な疑獄事件が相次ぎ、国民から、見れば私欲を肥やすことしか考えない政治と、国民を守り将来の糧を築いてくれる素晴らしい軍部、という見方が定着していきます。

若槻内閣のあたりから朴烈怪写真事件のような男女の大衆スキャンダルが政界を巻き込む大政争に発展するケースや、陸軍機密費横領事件などのように政治とカネにまつわる問題が政争に発展するケースなど、まさに現代と同様の劇場型の政治に移行していきます。更に統帥権干犯問題に代表されるような天皇の政治シンボルとしての肥大化が起き、天皇型ポピュリズムが台頭することになります。結局、女性問題、贈収賄問題、天皇政治利用を中心に、メディアは徹底的に政治を批判する劇場型政治になり、この民衆の力、メディアの力によって、政治は正統な対処が困難になっていきます。

しかし何もしなかったわけではなかった。例えば、彼の有名な張作霖爆殺事件は、関東軍河本大作の陰謀によるものであることが分かっていますが、暴走する関東軍に対して政府は追従する一方であったわけではなく、国際協調主義の幣原外相は閣議で陸軍謀略論に言及、若槻首相は事件不拡大を決定し、臨時参謀総長委任命令という天皇命令を逐次発して関東軍の動きを制限しようとしています。これにより、徐々に軍の動きは鈍化していきますが、結局、幣原外相の外交の失敗(スティムソン事件:幣原外相が米国務長官に関東軍の動きは封じ込めると約束してしまったことから再び統帥権干犯論が沸き起こった)により、抑制派であった幣原外相・南陸軍相・金谷参謀総長の求心力が下がり、若槻内閣は辞任に追い込まれることになり、結局、政府は関東軍に好意的な強硬派で占められました。

斯くして一概に政治が何もしていなかったということではなく、国民の膨張意識と相まって、軍部と政府が独特の緊張関係を持つ中で、権力掌握に失敗した政府抑制派が失脚するということが必然と偶然の交錯のなかで続いていくことになります。もちろん、こうしたことが可能であったのは、統帥権干犯という憲法制定時に予期していなかった事態により、政府が国家を統治する仕組みが制度的に担保されていなかったからにほかなりません。

以降、誠に不幸な、そして二度と起こしてはならぬ、謎としか言いようのない、大戦に日本は突入していきます。当時の日本としては大義があった。それは紛れもない事実だと思います。しかし歴史が好意的に解釈する余地はない戦いでした。二次大戦後、明確なシビリアンコントロールのもとに日本は再建されました。アメリカに負うところは大きかった。ベルサイユ体制の反省から、あれだけ多大な犠牲と負担を負ったアメリカは、日本に賠償を微塵も要求しなかった。それは反共戦略があったからだけでは理解しえない方針決定であったのだと思います。

長々と書きましたが、一言だけで言い表せば、ポピュリズムによる国家統治は必ず失敗する、ということ、そして日本が平和を指向するには自らが世界秩序の構築維持に率先して努力しなければならない、ということなのだと思います。一方で、戦争の反省と悔悟の念は持ち続けるべきですが、将来の世代に永遠に謝罪を続ける宿命を負わせ続けるわけにはいきません。歴史を正面から捉えて反省し、その上でプラスの循環を作っていくのが政治の役割であろうかと思います。

なお、こうした歴史観については、私の力では到底言い表すことはできませんので、下記におすすめの書籍を紹介いたします。

・筒井清忠、戦前日本のポピュリズム
・山内昌之他、日本近現代史講義
・小川浩之他、国際政治史
・細谷雄一、自主独立とは何か
・谷口智彦、明日を拓く現代史
など